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【見仏入門】No.39 奈良・大安寺の仏像/十一面観音立像、馬頭観音立像、楊柳観音立像、御朱印など

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今回紹介するのは奈良の大安寺(だいあんじ)は奈良でもまわりの有名なお寺に比べると、あまり知られていないお寺ですね。僕はこの大安寺の周辺の道でカーナビに沿っていったらとんでもなく細い路地に入ってしまい、対向車とすれ違うかどうかヒヤヒヤした怖い思いでがあります。。

でも実はこの大安寺、聖徳太子祇園精舎の日本版として造ったといわれている学問所がその起源といわれているのですからすごい寺なのです。

大安寺は、奈良時代から平安時代前半には、空海最澄も学び、鑑真和尚もやってきた由緒あるお寺でした。

その当時、奈良では東大寺興福寺とならぶ大きなお寺でしたが、中世以降は、次第に廃れて、塔や建物は消失したり、地震で倒壊したりしてすっかり忘れられてしまいました。

それが戦後本格的に寺域の跡が学術的に調査され、大きな敷地を有した昔の姿が知られるようになりました。建物は近年に建てられたものばかりですが、奈良時代からの仏像が9体残されています。

今では「竹の寺」「癌封じの寺」とも呼ばれているように、境内の竹林や癌の厄除けの寺としても知られています。

竹供養、癌封じ夏祭りが行われていて、笹娘により名物の笹酒がふるまわれ、お茶や尺八演奏などの行事も行われるそうですよ。でも車で行く時にはうっかり細い道に入らないことをお祈りします。。

大安寺へのアクセス

奈良の大安寺は、JR奈良駅からは南へ2㎞ほどの場所にあります。JR奈良駅、近鉄奈良駅からバスに乗り、約10分でバス停「大安寺」下車徒歩10分ほどです。

また、JR桜井線の「京終(きょうばて)駅」(奈良駅から1つ目)から1.1kmほどですから歩いても15分くらいでしょう。

この京終(きょうばて)という駅名も関西以外の人は読めないかもしれませんね。京(みやこ)の南の端であることからついた名前ですが、奈良の都(平城京)は現在の奈良駅などより少し西にあって、平城京を中心に南へ九条大路まで碁盤の目のように整備されていました。この大安寺は南大寺ともよばれ、南側にあったのですが、九条ではなく六条大路に南大門があり、それそり北側にありました。西側端は西大寺がありました。

一方、東側の現在奈良公園のある辺りには東大寺や興福寺がありますが、このあたりは東に出っ張るような位置にあり、外京(げきょう)と呼ばれていて、この外京の南端が京終(きょうばて)というわけです。南北から見れば五~六条大路あたりでしょうか。

むかし大きかったという寺の面影はありませんが、笹酒まつりなどで竹の杯についでもらった酒を飲む行事などもあります。

また少し変わった「おみくじ」がありますよ。「だるまみくじ」というもので、赤いかわいらしいだるまの中におみくじが入っているものです。

訪れた時に、一度試してみられたらいかがでしょうか。もちろん癌封じのお守りなどもあります。

大安寺の歴史

大安寺は寺の縁起によれば、聖徳太子が釈迦の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)にならって額田部の地に創建した仏教修行の道場「熊凝精舎」(くまごりしょうじゃ)が移転と名前を変えながら、平城京で大安寺となったとされています。

もう少し具体的に書くと、聖徳太子の「熊凝精舎」を本格的な寺院にしようとして、639年に百済川のほとりに「百済大寺(くだらのおおてら)」(官寺)が建てられました。この百済大寺は九重塔を持つ大きな寺でしたが、この塔はすぐに焼けて無くなったとされています。その後「高市大寺(たけちのおおてら)」「大官大寺(だいかんだいじ)」などと名前をかえて移転を繰り返し、716年に飛鳥にあった「大官大寺」を平城京(平城京左京6条4坊)に移転し、745年に「大安寺」と名前を変えています。その当時大安寺は、南都七大寺興福寺東大寺、西大寺、薬師寺、元興寺、大安寺、法隆寺)の1つで、奈良時代(平城京)から平安時代前半は東大寺、興福寺と並ぶ大寺だったのです。

この平城京移転には唐に渡って修行した「道慈(どうじ)」が尽力したといわれています。道慈は唐の西明寺(さいみょうじ)で修行して、その方式を取入れたと伝えられ、南大門外に東西に2つの塔をもったとても大きな寺だったといわれています。また、道慈は「額田氏」とされ、この寺の開祖ともいわれています。

736年に「大安寺大般若経転読会」を始めた人物で、この道慈は中国の僧「鑑真(がんじん)」を日本に招いて、新の仏教を広めることに尽力しています。

また、東大寺大仏殿の開眼供養法会で婆羅門(バラモン)僧正として導師をつとめた天竺(インド)の僧「菩提遷那ぼだいせんな)」が居住したのもこの寺といわれ、他にも、唐僧「道せん」、ベトナム僧「仏哲(ぶってつ)」、新羅僧「審祥(しんしょう)」など歴史に名を残している異国の僧侶が住居していたともいわれており、大安寺は当時のもっとも国際色豊かな文化センターのような寺であったとされています。そのため、今でもこの寺では、国際色豊かな仏教交流が行われているようです。

奈良・平安以降、この寺は、何度か火災が起こり、特に1017年には伽藍のほとんどが焼ける火災が起こりました。その時は幸いなことに本尊の釈迦如来像はその火難を免れたとされています(現在は実在していません)。また、中世以後に寺は次第に衰え,特に1596年におきた「慶長伏見地震(けいちょうふしみじしん)」で古い建物はすっかり倒壊してしまいました。

この地震では京都伏見を中心に大きな被害が出ており伏見城天守や東寺、天龍寺等が倒壊して、死者も1,000人を超えたといわれています。

その後、江戸時代にも復興の動きはありましたが、ほとんど復興されることはありませんでした。1921年に大安寺塔跡が奈良県で初めて史跡に指定され、第2次世界大戦後になって大がかりな発掘調査が行われました。 この調査によって,当初の伽藍配置が確かめられました。1968年に旧境内地288,000平方メートルが史跡として追加指定され、「史跡大安寺旧境内」と改称されました。

た。また,同寺に遺存する聖観音など9体の木像群は,彫刻史上大安寺派とも呼ばれています。また、この寺の発掘で、時代を検証するさまざまなが発掘されており、瓦での時代判定には欠かせない資料となっています。

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大安寺の正門にあたる南大門は(奈良の)六条大路に面して建っていましたが、寺域は六条大路の南側にも伸びていて、東西3町(約400m)、南北5町(約650m)に及ぶ広大なものだったそうです。

伽藍配置は、中心に南大門、中門、金堂、講堂が一直線に並び、その延長線上に食堂もあったそうです。そしてこれらの堂は回廊で結ばれ、僧坊は一般の伽藍配置では講堂横に配置されましたが、ここではこれらの回廊の三面を大中小の僧坊が取り巻く形だったといいます。六条大路の南に四坪分の塔院が設けられ、七重塔は東西に2つありました。しかも、それも金堂からは大きく離れて、南大門の外側(南方)に建っていました。 この配置は「大安寺式伽藍配置」と呼ばれています。(西塔心礎、大安寺周辺は庭石の出土地として知られ、堂や塔の礎石などはほとんどが持ち去られてしまいました。)

発掘調査の結果、七重塔の基壇は西塔跡に巨大な心礎が残されており、この大きさや、そのまわりの4×4列の礎石抜き取り跡などから、現存木造塔では一番高い東寺五重塔(高さ54.8m)や興福寺の五重塔(高さ50.8m)よりも大きい高さ70mクラスの七重塔であったと考えられています。まあなお、焼失した東大寺七重東塔の高さは96mあったと言われていますのでそちらの方が大きいです。

もっとも百済大寺などでは九重塔が建てられたといわれていますので、その大きさはどんなだったのでしょうか?

記録によれば、東塔(七重塔)は766年に落雷し崩れたとされており、西塔も949年に落雷で消失したとされています。

大安寺の今はなき、昔の本尊であった「乾漆造釈迦如来像」は天智天皇が発願した像といわれ、かなりの名作として知られていました。

平安時代末期の1140年に大江親通(おおえのちかみち)が南都の諸寺を巡って書いた記録といわれる『七大寺巡礼私記(しちだいじじゅんれいしき)』には、「薬師寺の本尊像(現存、国宝)は優れた作だが、大安寺の釈迦像には及ばない」という趣旨のことが記されています。本当にどんな像だったのでしょうか? 興味がわきますね。

 

この像については、平安時代末期に和様彫刻様式を完成させた仏師、定朝(じょうちょう)も大安寺の釈迦像を模作したことが伝わっています。

残念ながら、この釈迦像は、今は失われていて見ることができません。

大安寺の仏像の詳細 本殿と収納庫(讃仰殿)

この寺に残されている9体の仏像のうち、十一面観音像馬頭観音像は、秘仏ですので一般公開されていません。しかしそれぞれ年1回別々の期間に、特別公開が行われています。

・十一面観音立像特別公開日 → 10月1日~11月30日

・馬頭観音立像特別公開日 → 3月1日~31日

十一面観音立像【重文】(奈良時代)〈作者不詳 像高 190.5cm 一木造〉本堂安置

現在のこの寺の本尊で、寺の本堂に安置されています。

本像は、奈良時代(天平)の作なのですが、頭部や左手は後世のもの(後補)に変わっています。

しかし、体の部分や台座は奈良時代のものがよく保存されています。

胸部の瓔珞(ようらく)といわれる装身具は精巧に彫られていて美しく、また肉付きのよい体と胸に巻いた条帛裳(じょうはくも)といわれる布の流れなどは、優美で、美しく表現されています。

腹部の石帯(せきたい:帯)には数珠つなぎの飾りが垂れていて、台座には菊座と2枚の葉を向き合わせた「対葉花文(たいようかもん)」が刻まれています。

左手に宝瓶を執り(後補)、右手は垂れて与願の印を結ぶ姿です。

馬頭観音立像(木造千手観音立像)【重文】(奈良時代)〈像高173.5cm 一木造〉嘶堂安置

十一面観音立像とともに、この寺の秘仏です。馬頭観音と一般には呼ばれていますが、文化財の指定は千手観音となっています。この像も奈良時代(天平)の作といわれていますが、当初から残る体部を除いて、後補部分が多い像です。

寺伝では馬頭観音として伝わり、平成9年に建てられた「嘶堂(いななきどう)」に安置されています。忿怒の形相で、一面六臂(顔が1つで腕が6本)の像です。

ただ、一般の馬頭観音にある頭上の馬頭がこの像にはありません。

胸飾りの瓔珞(ようらく)といわれる装身具や、足首に蛇が巻きついた姿と腰には獣皮をまとっている極めて珍しい姿です。これは、密教の儀式といわれる「儀軌(ぎき)」以前の古像で、馬頭観音の原初の姿(日本最古の馬頭観音像)ともいわれています。

この馬頭観音の「秘仏神符のお守り」は、紀州徳川家に伝わったとされるもので、厄除守りとして有名です。

一般に馬頭観音は、馬が牧草を食むように、もろもろの悪を食い尽くし、たくさんの水を一気に呑み干すように私たちの災いを除いてくれるとされ、厄除けの仏として信仰されています。

不空羂索観音立像 【重文】(奈良時代)〈像高189.9cm 一木造〉

不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)は六観音の一つとされ、羂索(けんさく)という鳥獣を捕まえる綱を手に持ち、この羂索であらゆる者を引きつけて救済する働きがある観音です。

一般には額にもう一つの目を持つ三目で六臂(腕が6本)の像とされていますが、この像は8本の腕があります。ただ腕も後補のため、当初から持ち物を持っていなかったかどうかは良くわかりません。

本像は、頭上に高い単髷をつけ、丸い大きい顔に力強い慈眼を表し、引き締まった口もとをしていて、全体として量感にあふれた重厚な像です。

また胸飾りもなく、帯である石帯もありません。また台座までを一材で彫り出しています。

楊柳観音立像 【重文】(鎌倉時代)〈像高168.5cm 一木造〉

楊柳観音(ようりゅうかんのん)は、三十三観音の一つで、病苦からの救済を使命とする観音様です。 右手 に柳の枝を持つことから楊柳観音と呼ばれています。

おそらく柳の葉が風になびくように衆生の願いを聞き、又、楊枝(ようじ)など口内を清浄にすることから、病魔の侵入を防ぎ健康を保つとされています。

 

この楊柳観音は画として描かれる例が多く、古い木彫像として極めて珍しいといわれています。女性的な優しい表現ですが、つり上がった眼に、かっと開いた口、内面をじっと見つめ、静かな怒りをたたえたような忿怒の形相です。

またいつから楊柳観音と呼ばれるようになったのかは定かではありません。

胸と腹部の間に、下裳(したも)を締めているようにもう一つの石帯が刻み出されています。また腰から下にまとった衣服である裳(も)にはかすかに彩色文様の痕跡が見られます。

聖観音立像 【重文】(奈良時代)〈像高176cm 一木造〉

 大安寺の聖観音は、榧(カヤ)の一材から頭部より台座まで彫り出された一木彫です。顔はやや下つぼまりになっていて、体はどっしりとした安心感がある像です。

また静かな穏やかな姿であり、聖観音と呼ぶのにふさわしい静かで落ち着いた感じのする仏像です。

左手の持物はなくなっていますが、右手は垂れて与願印を結びます。

胸部にニ連の胸飾りは連珠(じゅず)と瓔珞(ようらく)があらわされ、唐代長安の貴婦人が着飾った様式を伝えているともいわれています

四天王立像 【重文】(奈良時代)〈像高 持国天149.5cm、増長天140cm、広目天137.5cm、多聞天138.8cm 一木造〉

この四天王立像はいずれも頭上から台座を含めてすべて一木彫です。

またこれらの像はいずれもかなりの後補の部分があり、本来一体でまとめて造られたものとは限らないようです。しかし他の観音像と似た点が多く、やはり天平末期の作とされています。四体とも岩座に立ちますが、これは仏教の須弥山をかたどっているともいわれ、中国大陸の山塊の形状を良く知る仏師の手によって作られたものと考えられています。

四天王は、持国天は東方、増長天は南方、広目天は西方、多聞天は北方をそれぞれ守護しています。

持国天

右手を上にかざし、左手を腰にあて、左に小首をかしげて岩座に直立し、顔は大ぶりで鼻も高く、目を少し瞋(いか)らして、口を固く結んでいます。

増長天

持国天と同様、正面を向いて直立していますが、右膝(ひざ)にやや動きがあります。

顔は丸く、引き締まった表情で、きつく結んだ口元などに忿怒相を示しています。

広目天

 

 

増長天に似て堂々たる体つきの像です。

顔は少し右を向き、体を左に開いて身構えています。 他の像と違って、口は開き、歯をあらわした忿怒の姿をしています。 全体の作りや腰から足にかけては増長天によく似ていて、この広目天と増長天は一連の作と考えられています。

多聞天

頭に兜を、眉を逆立て、上歯で下唇を噛み、激しい忿怒の形相を示す姿は力強さにあふれています。左足を軸に、右膝を曲げて岩座に立ち動勢の強い像です。

さて今まで見てきましたが、この大安寺の九体の木彫仏は、奈良時代から平安時代に移ろうとする過渡的な作品といわれ、高い価値が認められるとされています。

奈良時代の仏教彫刻は、金銅仏・乾漆仏・塑像が主流になっていて、唐の文化の影響が大きく、この大安寺に伝わる九体の木彫群は、初期の典型的な一木の木彫仏の代表と見られています。平安時代に入ると寄せ木の仏像がその主流を占め、やがて木彫全盛の時代に入っていきます。 奈良時代の初期に唐より帰朝した道慈律師らがこの寺に密教を伝えており、その系譜の中で空海が登場したのを考えると、これらの九体の密教仏の存在の価値が見えてきます。

大安寺の木彫仏九体は数々の罹災をこうむりましたが、こうして現在に残されていることは大変貴重なものといえます。

9体の仏像はすこしずつ製作された年代も異なっているようで、全部が一連の作とは見られていません。そのため、それぞれ別の堂にまつられていたのかもしれません。

素材は榧材(かや)が多く、いずれも頭部から台座にいたるまで一木彫です。胸飾りや瓔珞(ようらく)などの装身具もすべて彫り出されたもので、貼りつけられたものはありません。

このように大安寺一木彫の仏像は、部分的には後補もありますが天平時代末期の特異な存在として、「大安寺様式」などと呼ばれています。

 

大安寺の御朱印

大安寺の拝観料金、時間、宗派、電話など

正式名称

大安寺

宗派

高野山真言宗 別格本山

住所

〒630-8133 奈良市大安寺2-18-1

電話

0742-61-6312

拝観時間

9:00~17:00 (受付は16:00まで)

※12月31日は迎春準備のため休み

拝観料金

大人:400円
大学:400円
高校:300円
中学:200円
小学:100円

※3月・10月・11月の特別拝観時は100円増
※30名以上で1割引
※団体様(人数不問)には寺僧より法話、ご案内(要予約+100円で笹酒付き)

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