【見仏入門】No.5 奈良・東大寺Part.1/奈良の大仏と戒壇堂の四天王像、南大門の金剛力士像


奈良県の象徴で、仏像といえばと聞かれて日本人の多くが想像するのはこの「奈良の大仏」という人も多いのではないでしょうか?

 

奈良の大仏があるお寺は「東大寺(とうだいじ)」といいます。

 

 東大寺は聖武天皇が建立を命じた仏教寺院(官寺:お上<官庁>が運営するお寺でした。その大きさは当時としては類を見ない大規模なものです。

 

そのため東大寺はそのエリアが広く、見どころもいっぱいなので2回に分けて記載します。

※東大寺Part2の記事はこちらをご参照ください

 

この記事もかなりのボリュームがありますので、お忙しい方はブックマークをされたり、お気に入りに入れていただくなどして、お時間のある時にゆっくりご覧いただくことをおすすめいたします。

 

最初は大仏殿およびその西側エリアをご紹介します。この西側エリアの記事で取り上げる場所としては南大門、大仏殿、勧進所、戒壇堂などを中心にご紹介いたします。奈良の大仏への道に沿ってご紹介いたしますので、既に訪問されている方も多いかもしれません。すでに訪問されている方はご自身の記憶をさかのぼってご覧いただければと思います。

 

なお別の記事でご紹介いたしますPart2にあたる東側エリアは、若草山の麓の地域で大仏殿が建てられる前に前身のお寺があった地域で、こちらには「二月堂」「三月堂(法華堂)」「四月堂(三昧堂)」をはじめ、「開山堂(良弁堂)」などがあります。

最近建てられた東大寺ミュージアムは南大門に近い場所ですが、展示されている仏像が三月堂から移された仏像が多いのでそちらでご紹介したいと思います。

【見仏入門】No.6 奈良・東大寺Part.2/二月堂、三月堂(法華堂)、四月堂、東大寺ミ...
 東大寺の大仏殿・戒壇院の紹介に引き続いて、三月堂や二月堂などの東大寺の前身寺院があったといわれる東側のエリアを紹介をします。東大寺Part1の記事はこちらをご...

 

それでは奈良の大仏といえばの東大寺、大仏さんだけじゃない仏像の世界にせまっていきましょう。

東大寺へのアクセス

 

 近鉄奈良駅から東に奈良公園(春日大社)を目指して歩くとすぐ興福寺があり、その先に奈良国立博物館があります。その博物館の先の公園入口にある「大仏殿」信号を左に曲がれば正面に東大寺があります。

 

大仏殿信号まで近鉄奈良駅から1kmほどですので歩いても15分ほどです。途中も鹿と触れ合ったり、興福寺の五重塔を写真に撮ったりなど、見どころ満載ですので、天気が良ければバスなどより歩いて向かってみることもおすすめします。

 

 

JR奈良駅からは10分ほど余分にかかりますので、徒歩で行くなら近鉄奈良駅から向かいましょう。少し迂回して「猿沢の池」などを巡りながらゆっくり散歩して行くのも奈良の風情をたのしむことをできるのでおすすめです。

 

大仏殿信号から北の大仏殿に向かうとすぐに大きな「南大門(国宝)」に出ます。

 

この門は大きな丸い柱が3列×6本、合計18柱あるわが国最大な巨大な門です。

 

またこの南大門の中には国宝の阿吽(あうん)の呼吸でおなじみの仁王こと巨大な金剛力士像がにらみを利かせています。

 

大仏殿が建てられた時の南大門は平安時代に倒壊してしまい、今の門は鎌倉時代の1203年に重源(ちょうげん)上人により建てられました。

 

この南大門のまわりでは鹿に餌付けができる「鹿せんべい」の売店がありますので、鹿とふれあうこともできますよ。

 

この門をくぐって大仏殿に向かいましょう。

 

東大寺の歴史

東大寺建立の経緯

 701年に大和朝廷は中国の制度をベースにして大宝律令(たいほうりつりょう)を制定して、今の県に相当する令制国(りょうせいこく:律令による政治を行う国の単位)に政府から国司を派遣して統治しました。710年、平城京(奈良)に都が移され奈良時代が始まりますが、当時68(島を除くと66)あった令制国すべてに中央の意向を伝えまとめていくのは相当の困難がありました。また天候不順による食べものがなくなって多くの人がなくなる飢餓(きが)や病気(天然痘など)も蔓延して、国の多くの人々が不安をかかえている状態でもありました。

 

そんな中で724年に24歳で天皇に即位したのが聖武天皇です。しかしこの即位した3年後に生まれた聖武天皇の子どもの皇太子(基親王)が1歳の誕生日を待たずに亡くなってしまったのです。

 

そしてこの基親王の菩提を弔う(ぼだいをとむらう)ために728年に若草山のふもとに金鍾寺(こんしゅじ)という寺を建立し、良弁(ろうべん:のちの東大寺初代別当)を筆頭に9人の僧を住まわせました。この寺がこの東大寺に発展します。

 

一方、聖武天皇は741年になり当時広まってきた仏教を全国に広め、人々の平安をはかるため、全国に国分寺とそこに七重塔を建立することを命じました。この国分寺は国分僧寺(こくぶんそうじ:正式名は「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」と国分尼寺(こくぶんにじ:正式名は法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら))の2種類の寺です。

各国分僧寺には僧侶を20人、国分尼寺には尼さん(女性の僧侶)を10人置くように命じたのです。そして都には総本山として国分僧寺には「東大寺」を、また国分尼寺には「法華寺(ほっけじ))を建立しました。

 

皇太子の菩提を弔うために建てられた金鍾寺は741年の「国分寺建立の詔(みことのり)」により金光明寺(きんこうみょうじ)と改められ、これが今の東大寺(別名:金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら))となりました。

 

その後各地に同じように建てられた官寺が次々と姿を消していく中で、当時の官寺はこの東大寺だけが唯一残されました。

 

現在全国にある国分寺や国分尼寺などは現存していても、官寺としての機能は途中でなくなり、当時の礎石や塔跡などが残るのみです。史跡としての登録も「国分寺跡」などとなっています。

 

 

例えば仙台の陸奥国分寺は昔あった礎石の上に伊達正宗が門を建てたりしたものです。常陸国分寺跡も国の特別史跡に登録されていますが、現在の国分寺はその跡に建てられた寺院です。

 

大仏建立の経緯

東大寺の本尊としてまつるために、聖武天皇は743年に「大仏造立の詔(みことのり)」を発令し、大仏建立を命じたのです。これが今の「奈良の大仏」として親しまれている盧舎那仏(るしゃなぶつ)です。「盧舎那仏」というのは、宇宙の真理を体得された釈迦如来の別名で、世界を照らす仏・ひかり輝く仏の意味です。左手で宇宙の智慧を、右手に慈悲をあらわし、人々が思いやりの心でつながることを願っているのです。

 

聖武天皇がこの大仏建立を願うようになったのは仏教の経典である「華厳経(けごんきょう)」の教えが基になったといわれています。この中で盧舎那仏(大仏)が信仰する多くの民間の人々の力で造られるのを知って何とかこの大仏を、総力を挙げて造りたいと考えるようになます。そして、金鍾寺において寺の僧侶たちや集まった多くの学僧たちを含めて盧舎那大仏の研究が始められたのです。

 

しかしこの大仏は高さが15メートルもある巨大なもので型に銅を鋳込んで造り、またその表面に金箔を貼るという当時としては類を見ない壮大なものでした。また、これには多くの人の協力がなければこの事業は完成できません。

 

そのために抜擢(ばってき)されたのが行基(ぎょうき)だといわれています。行基は僧侶でしたが集団を率いて田を切り開いて貧しい民を救済し、道路や橋を整備し、治水事業なども行っていました。このため「行基菩薩」と呼ばれて民衆から絶大な信頼を得ていたのです。

 

 

まず、「国中すべての銅を集めろ!」という命令に対し、全国の銅の産地から大量の銅が都に集められました。大仏本体をつくるのに,ぜんぶで
499トンの銅が使われたといわれています。また集められた銅を溶かして型に鋳込むのですが、これは747年から8回に分けて鋳造され、これには2年ほどかかりました。

 

そして大仏は光り輝くお姿にするために、「国中のすべての金を集めろ!」と言って大仏の表面に金箔を貼りたいと思っていたのですが、当時まだこれに必要とされる大量の金は見つかっていませんでした。

 

これを可能にしたのが天皇のもとで働いていた金発掘の技術を持った百済(くだら)からやってきていた技術者や百済王国の人達です。

 

この人たちが北の蝦夷地に近い川や山の開発に参加し、下野国(しもつけのくに:栃木県など)から陸奥国(むつのくに:宮城県、福島県、岩手県などの範囲)で大量の金を発見しました。

 

その中でも知られているのが、陸奥の守である百済王敬福(くだらおうきょうふく)が陸奥国小田郡(現・宮城県遠田郡と推定)で749年に金の採掘に成功し、ここでの黄金九百両(約13kg)を大仏造営のために都に送った記録があります。

 

また下野国でも最初に産金され都に送られたという記録があり、現在の栃木県那賀川町(旧馬頭町)に「古代産金の里」という看板が健武山(たけぶやま)神社入口に建てられています。

 

 

大仏の表面に全部金を貼ると約60kg必要だったのですから、当時各地で金を懸命に探していたのですね。金の採掘が活性化されるようになり、これが後に平泉金色堂などに使われ、マルコポーロによって黄金の国ジパングなどといわれるようになったのです。

 

ちなみに佐渡の金山が開発されたのは1601年ですから、江戸幕府誕生からすぐのことです。東大寺の大仏は751年に完成し、752年に大仏開眼供養が行われました。

 

ドラゴンクエスト3

その後の大仏と大仏殿の歴史

大仏を安置する大仏殿(東大寺金堂)は大仏が鋳造された直後から建設がはじめられ、758年に完成しました。その大きさは幅29丈(約85.8m)、奥行き17丈(約50.3m)、高さ12丈6尺(約37m)、柱数84で、当時の木造建築物としては当時世界最大とも言われる大きなものでした。幅は現在の大仏殿(57.5m)よりもかなり大きなものです。

平安時代にも修理と造営は続けられていますが、855年の大地震によって大仏の頭部が落下してしまいます。

 

これは真如法親王(しんにょほうしんのう)によって修復されたといわれています。またその後も失火や落雷などによって講堂や三面僧房、西塔などが焼失、南大門や大鐘楼も倒壊したといわれています。

 

さらにその後、1180年に平重衡(たいらのしげひら)の焼き討ちで堂や塔の大半を失ってしまい、1182年に大仏の俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)が補修を命じられ、1184年に大仏の補修を終えました。これには鎌倉幕府、特に源頼朝の全面協力があったとされています。

 

そして1185年に後白河法皇を導師としてふたたび「大仏開眼供養」が行なわれました。また、1195年に新しい大仏殿が完成し、源頼朝なども参列して落慶法要が行われました。

 

しかししかし、また1567年戦火で再び寺の建物は焼失してしまいます。その後仮の建物を建てますが、これも1610年の暴風雨で倒壊し、大仏も損壊してしまいました。

 

その後大仏は100年ほど雨ざらしとなってしまいます。(さびしぃ…)

 

この大仏と大仏殿の再建を行おうとする1人の人物が現れます。それは公慶(こうけい)上人といい、この再建に生涯をかけた僧侶です。公慶によって再建され、東大寺ではこの公慶上人は鎌倉時代に戦火で焼けた後寺の再建をした俊乗房重源に次ぐ、第二の中興開山といわています。

 

現在の大仏と大仏殿はこの時に再建されたもので、大仏は1691年に台座などの一部を残して作り直され(再鋳され)、大仏殿は1709年に公慶上人によって再建されました。

 

その後、1910年(明治43年)、1980年(昭和55年)にそれぞれ大修理が行われて今日にいたります。

 

明治時代の大修理で大仏殿の屋根を支えるためにイギリス製の鉄骨トラスが組み込まれています。

 

戒壇堂の歴史

車に乗るためには免許が必要であり、免許をもらえる場所として免許センターがありますね。お坊さんの世界にも免許が必要で、仏教版の免許センターが戒壇堂・戒壇院となります。くわしく説明していきます。

 

仏教を広めるためには、それを伝え教えていく優れた僧侶が居なくてはなりません。このため中国の唐で多くの僧に僧侶が守らなくていけない戒律(かいりつ)を教えていたすぐれた指導者であった鑑真(がんじん)を日本に招く話がおこりました。そのためにまず、日本から唐に渡っていた何人かの僧侶を通じて日本に招く依頼をしました。鑑真は、最初自分の弟子を日本に送るつもりでしたが、日本に渡るには当時船がいつ遭難するかわからない危険な旅でしたので率先して渡ろうとする者はいなかったのです。

 

そこで鑑真自らが渡日することを決意し弟子も連れて743年から4回渡ることを企てましたが、暴風雨や日本に渡らせたくない反対者の密告などで全て失敗してしまいます。そして748年に5回目の渡日を企てた際、暴風雨で船はベトナムの東側にある海南島に漂着します。ここで1年以上滞在した鑑真は唐に戻るのですが、この時鑑真は疲労で失明してしまいました。

 

ふつうの人であれば自分が失明までしたならあきらめると思うのですが、唐に戻った鑑真は753年に今度は日本の遣唐使の船に乗って6度目の渡日を計画することになります。6度目の船旅も困難を極めますが、船は無事沖縄に到着し、753年暮れに現在の屋久島に到着し、その後九州の大宰府に到着しました。これでやっと念願の渡日が叶ったのです。

太宰府の戒壇院

 

まず鑑真は太宰府の戒壇院で初の授戒を行いました。授戒とは僧侶が守るべき戒律を僧侶に授け、正式な僧侶として認めることです。つまり免許証の発行ですね。

 

そしてこれらの僧侶は、ここで授かった戒律を日本各地に広める役割を持っていました。

 

最初はこの九州の大宰府でしたがすぐに都の奈良に呼ばれて754年4月に東大寺大仏殿の前に戒壇を築き、ここで天皇なども含めて400名ほどに戒律を授けました。

 

戒壇院の建物はその後大仏殿の西に移され正式な戒壇院、戒壇堂となり、戒壇堂の他、講堂・僧坊・廻廊などで構成されていました。

 

その後江戸時代までに3度火災で焼失しており、現在では戒壇堂と千手堂だけが復興されています。現在の戒壇堂は1732年に建立されたもので、県の重要文化財に指定されています。

 

なお、戒壇院は日本に3箇所にしかなく、「天下三戒壇」と呼ばれました。中央戒壇が奈良の東大寺で、西戒壇(さいかいだん)が九州(筑紫)大宰府の観世音寺、東戒壇が下野(しもつけ:現在の栃木県)の下野薬師寺でした。

仏像の詳細

南大門の仏像

 

【国宝】金剛力士像(仁王像)(鎌倉時代)

 

 金剛力士像はそれぞれ高さ約8.4mの像で、6.67トンあります。752年にこの門が建立されたときにも仁王像はあったのですが、今の像は鎌倉時代に寺を再興した時(1203年)に作られたものです。

 

阿形像:運慶、快慶の作(伝)

吽形像:定覚、湛慶の作(伝)

 

の手によってわずか69日間という短い期間で作られたと伝わっています。ヒノキ材の寄木造りです。右の吽形像は力強く前に乗り出すような勢いのある表現がされています。一方左側の阿形像は血管や口ひげまでもが作られて彫り出されています。大きく表情も非常に見事なものです。

 

東大寺大仏殿の仏像

 

【国宝】盧舎那仏(るしゃなぶつ)坐像(奈良時代)<通称:奈良の大仏>

 

 

奈良の大仏(ならのだいぶつ)」として親しまれている大きな像。みなさんは「奈良の大仏」と言っていいますが、これは正しい名前ではありません。正しくは盧遮那仏(るしゃなぶつ)と言います。

 

盧舎那仏像は東大寺大仏殿(金堂)の本尊で歴史の所でも述べていますが、聖武天皇が745年に制作を命じて、752年に完成しました。国宝に指定されており、登録名は「銅造盧舎那仏坐像(金堂安置)」です。

 

現存の大仏は像高が約14.7m、基壇の周囲70mで、頭部は江戸時代に補修され、体部の大部分も鎌倉時代に補修されたものですが、台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、大腿部などに建立当時の天平時代の部分も残っています。また大仏が座る蓮華座は、仰蓮とその下の反花からなり、仰蓮にはタガネで彫った線刻画が残されており、仏教の世界観が描かれています。

 

仏教の世界観をビジュアルでみせる作例は意外なことに少なく、しかもこれは当初の部分がかなり鮮明に残っていて、奈良時代の絵画資料としてとても貴重なものです。大仏殿に入ると大仏さんばかりに気を取られてしまいますが、ぜひこちらも注目してみてください。

 

 

日本の二大大仏、奈良の大仏vs鎌倉の大仏 比較してみる!

 

日本の大仏といえばこの奈良の大仏とともにもう1つ「鎌倉の大仏」が有名ですね。多くの人が知っているこの2つの大仏について比較でご紹介します。

 

比較をしながら知ることで、より奈良の大仏がリアルにわかるかなと思っています。

 

 

大仏の大きさ&重さくらべ

まずは大きさ、重さです。

 

・ 奈良の大仏: 像高14.98m、台座3.05m、台座約130t、重さ約250t

 

・ 鎌倉の大仏: 像高11.3m、台座2.05m、重さ約124t

 

と圧倒的に奈良の大仏の勝ちです。重さの違いが特に大きいようですが、実は鎌倉の大仏は中が空洞となっており、我々も中にはいることができます。

 

建物くらべ

次に大仏がいる建物について比較してみます。

 

・ 奈良の大仏殿: 高さ46.1m、幅57m(初期には86.1m)、奥行き50.5m

 

・ 鎌倉の大仏殿: 高さ40m、幅44m、奥行き42.5m・・・ただし津波で何度か倒壊し、現存していないので大きさも今後の研究で変わるかもしれません。

 

奈良の大仏ができた当初は86mもあったのですから、今の大仏殿よりもさらに大きな印象がありそうですね。

 

大仏建造時期と期間

 

・奈良の大仏:鋳造の原型を造るのに1年2ヶ月、銅の流し込みに3年、補鋳と仕上げに5年、金を塗るのに5年、光背造りに8年、大仏殿の建造に4年、のべ260万人が28年もの長期間に渡って作ったといわれています。

 

・鎌倉の大仏:この鎌倉の大仏はこの製作の年月も期間や人手なども全てハッキリしていません。記録として残っているものは、鎌倉幕府の第三執権である北条泰時の晩年に造りはじめられ、最初は木造だったと伝わっています。しかしこれも造られてからわずか9年後に現在の青銅製(中国銭が使われたという説もあります)のものに作りかえられたと言われています。ただし正確な年代は不明なのです。

仏像としての意味

・奈良の大仏:盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう)という華厳経の仏様で、東大寺大仏殿(金堂)の本尊です。右手は手のひらを見せるようにしていて「施無畏(せむい)印」を結んでいます。これは人々に力を与えますが、相手に危害を加えず恐れをいだかせないという印です。また左手は手のひらを上に向けて膝の上に載せています。これは「予願(よがん)印」といって、人々の願いを叶えますという印です。釈迦如来と同じです。

 

・鎌倉の大仏:脚を組んでその上に両手を組み合わせ、親指同士を突き合せて「上品上生(じょうぼんじょうしょう)印」を結びます。これは阿弥陀如来(あみだにょらい)の印で、最高の悟り状態と死者を極楽浄土へ連れていくことを示しています。このため鎌倉の大仏は「銅造阿弥陀如来坐像」というのが正式な登録名称です。またこの像は大仏が置かれている高徳院の本尊です。

 

螺髪(らほつ)の数

螺髪はパンチパーマのように大仏の頭にあるたくさんのぐるぐる巻かれた髪型のことです。

 

奈良の大仏が966個

鎌倉の大仏が656個

 

です。またこの髪が巻かれている方向は、奈良大仏が一般的な右巻きで、鎌倉大仏は左巻きなのです。

 

いかがでしたでしょうか、1つ「大仏」といってもこれだけ多くの違いがありました。また日本には数多くの大仏が作られており、今も現在進行形で毎年増えているそうです。日本各地の大仏巡りをしていくのもおもしろいかもしれませんね。

 

【国宝】大仏殿・金銅八角燈籠(こんどうはっかくとうろう)

仏像ではありませんが、大仏殿の入口に国宝の大きな八角形の燈籠(とうろう)が置かれています。

 

これは、大仏が完成した752年に造られた物です。

高さが4.6m、笠の横幅が約1mの銅製の燈籠で、日本国内の銅製の燈籠としては最大の高さの燈籠でしかも最古の燈籠になります。1962年に東北面の音声菩薩が彫られた羽目板が盗難にあいました。その後、すぐに発見されたのですが音声菩薩以外の部分の一部が削り取られていました。

 

この部分の羽目板には音声菩薩以外にも「西」という漢字が刻まれた部分が存在していたようですがこの部分が盗難にあって削り取られてしまったのです。

 

現在、この部分を新たに継ぎ足して再現されており、この複製が東大寺ミュージアムに収蔵されています。

[重]木造如意輪観音・虚空蔵菩薩坐像(江戸時代)

 

像高は如意輪観音722.5cm、虚空蔵菩薩710.0cm

 

(左)虚空蔵菩薩 (右)如意輪観音

 

大仏の脇侍(きょうじ)として向かって右に「如意輪観音」、左に「虚空蔵菩薩」です。なにしろ大きな大仏の脇侍ですから製作も大変だったようです。1567年の兵火の後しばらく空白の期間があります。

 

復興されたのは江戸中期になってからです。1726年から1730年にかけてまず「如意輪観音像」が仏師順慶・賢慶により造立され、しばらくたった1752年に虚空蔵菩薩が了慶、尹慶らによって造立されました。

 

(参考)海住山寺の四天王像

参考までに、四天王像として京都府木津川市にある真言宗の寺院「海住山寺(かいじゅうせんじ)」に伝わる木造四天王立像(もくぞうしてんのうりゅうぞう:国の重要文化財)を挙げておきます。※現在は奈良国立博物館に寄託されています※

 

現在大仏殿には四天王がいませんが大仏殿ができた当初は、とても大きな四天王があったとされましたが戦火によって焼失してしまいました。この四天王は今はなきその当時の四天王をモデルにしてつくられました。

 

この像は寺の五重塔内の須弥壇の四隅に安置されていて、それぞれ四天王がとるポーズをしていますが、像の身体の色が、持国天は緑、増長天は赤、広目天は白、多聞天が青にそれぞれ彩色されています。

 

こうした四天王像の組合せは、鎌倉時代に再建された東大寺大仏殿四天王像の形式を正確に踏襲したものとみられています。

 

鎌倉初頭に快慶によって造られた和歌山・金剛峯寺像(重文)を代表的遺品とする、いわゆる大仏殿様の四天王像と形式や身色まで忠実に共通しています。

 

各像ともヒノキ材の竪一材から頭躰幹部を前後矧ぎ(はぎ)され、内刳りがなされています。大柄で力強い文様表現には天平風の古様さが残されており、鎌倉期の慶派仏師の諸作品にみられる彩色文様の傾向があります。

 

 

東大寺戒壇堂

【国宝】四天王立像 (奈良時代)

東大寺の戒壇堂(大仏殿の西約300m)に安置されています。この四天王立像は天平時代の最高傑作と呼ばれている優れた立像で、像高は、持国天:160.5cm、増長天:162.2cm、広目天:169.9cm、多聞天:164.5cmとほぼ等身大の大きさの塑像(そぞう:粘土造り)です。

 

東大寺に建設当初に伝わった四天王は銅製だったといわれているため、この四天王はどこか別の場所からうつされてきた、と考えられています。作風や素材に、伝日光菩薩・月光菩薩立像(東大寺ミュージアム蔵)と共通する点も多く、元々は法華堂(三月堂)にまつられていたのではないかともいわれていますし、中門堂や東大寺境内にある指図堂(さしずどう:法然上人(圓光大師)の霊場)に安置されていたもので、江戸時代中期の再建の時に現在の戒壇堂へ移されたとも記録が残っています。

 

この四天王は奈良時代の755年に大仏建立にもかかわっていた国中公麻呂(くになかのきみまろ)により製作された(作者は推定)とみられています。

 

入堂すると二重の檀があり参拝者は下の檀に上がってぐるりと一周して上檀の四隅に立つ各像と対面します。そして真ん中には「多宝塔」が安置され、四天王像はこの多宝塔を囲むよう(守護するように)に配置されています。

 

東南に剣を持った持国天、西南に槍を携えた増長天、北西に巻物を持つ広目天、北東に宝塔を高く掲げた多聞天です。それぞれ顔は怒りをあらわにしたものから内面に怒りを秘めた表情まで、かなり写実的で迫力があります。また各像の足元には邪鬼が脅える表情で踏みつけられていてその表情も見応えがあります。

 

 

四天王像を安置する壇を須弥壇(しゅみだん)と呼びますが、これは仏教の世界観で世界の中央にそびえる須弥山(しゅみせん)からきたものです。

 

四天王はその山の大将である帝釈天(たいしゃくてん)の家来で、仏法を守る大天王として、東西南北をまもるガードマンの役目をしています。

 

戒壇堂の中でも特に人気のある広目天

 

この天平時代に、これほどの天才仏師がいたことにまず驚かされます。鬼気迫る、表情は多くのひとびとが魅了されてしまいます。

 

 

いかがでしたでしょうか。今回は多くの方が知る大仏殿、少しマイナーですがイケメンの四天王がまつられる戒壇堂をとりあげてみました。

 

近年は東大寺に行くたびに多くの外国人の姿を目にします。奈良の大仏はやはり日本の代表的存在なんだなと感じます。

 

私は修学旅行で2度東大寺に来ているのですが、奈良の大仏のインパクトは当時仏像に興味がない学生ながらも強烈な印象に残っています。

 

その大仏製作には国の運命をかけるほどの事業であったこと、度重なる災難があり崩れ落ちるも、その度にそれを復興しようと尽力した人の存在があったことなどのストーリーは知りませんでした。

 

このような時代背景を知るとまた見方が少し変わってくるかもしれませんね。

 

今回は東大寺の西エリアである大仏殿、戒壇堂を中心にしたお堂と仏像についてのご紹介でした。

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東大寺に関するおすすめ書籍

 

奈良 仏像めぐり (たびカル)

仏像初心者の方にはかなりおすすめしたい本です。ポップに奈良の仏像を知ることができるうえに仏像の基本的な見方などが記してあります。

仏像をどう見てからいけば楽しめるのか仏像ファンの視点を奈良の仏像とともに知ることができます。なんとなく仏像をいままで見てた人も、この本を読んでもう一度見に行くと違う観点で楽しめると思います。

(詳細は下の画像をクリックください)

もっと知りたい東大寺の歴史 (アート・ビギナーズ・コレクション)

 

今回はあまりとりあげることができなかった大仏の製作工程や金剛力士像のことなどフルカラーで見応えある内容になっています。

 

(詳細は下の画像をクリックください)

 

 

※この記事の画像は日本の仏像<東大寺・奈良の大仏>より引用させていただいております。

 

正式名称

金光明四天王護国之寺(東大寺)

宗派

華厳宗大本山

住所

〒630-8587 奈良県奈良市雑司町406-1 (東大寺寺務所)

電話

0742-22-5511

拝観可能時間

クチコミ


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