京都・清凉寺(嵯峨釈迦堂)の仏像|清凉寺式釈迦如来と阿弥陀三尊に会う(拝観料・時間つき)

「清凉寺式」という言葉を、仏像の本や展覧会のキャプションで見かけたことはありませんか。
縄を巻いたような渦の髪。胸から足もとまで、波紋のように重なる衣の線。そんな釈迦如来立像が、全国に100体ほどあるといわれています。その本家にあたるのが、京都・嵯峨野の清凉寺です。通称は嵯峨釈迦堂。JR嵯峨嵐山駅から歩いて約5分、市バスなら「嵯峨釈迦堂前」で降りてすぐです。
ただ、この本家の像は、もともと「写し」でした。985年ごろ、宋の台州で彫られた像が海を渡り、嵯峨にやって来た。写しだったはずの像が、いつのまにか写される側になっていく。この記事では、その不思議を追いかけます。
本堂の像は、ふだんは厨子の扉が閉じています。2026年の秋は10月1日から11月30日まで(予定)、本堂と霊宝館が公開されています。

清凉寺・釈迦如来立像:写しなのに、本家と呼ばれる像

本堂の正面に安置されているのが、国宝の釈迦如来立像です。頭はふつうの如来のつぶつぶの髪(螺髪)ではなく、縄を巻いたような渦の髪。衣は両肩をおおい、胸から足もとへ、同心円の線が重なっていきます。顔立ちにも、日本の如来とは少し違う異国の気配があります。
この像は、お釈迦さまが37歳のころの姿を写したと伝わります。出家して、苦行をして、悟りを開いて、弟子が増えはじめたころ。まだ「完成した仏」ではなく、人として歩いている途中のお釈迦さまです。

写しなのに、本家と呼ばれる。私はここに、清凉寺という寺のいちばんの面白さがあると思っています。
仏像リンク編集部MEMO 📝





像を日本に持ち帰ったのは、東大寺の僧・奝然(ちょうねん)です。宋の都の啓聖禅院にあった、お釈迦さまの在世中の姿を伝えるという像に出会い、同じ像を日本へ持ち帰ろうと考えました。985年ごろ、台州の仏師に彫らせたのがこの像です。背板の裏には、台州の仏師・張延皎(ちょうえんこう)と弟の延襲(えんしゅう)が彫ったという銘があります。


材は、伝承では赤栴檀(せんだん)というインドの香木とされてきました。調べられた結果は、中国産のサクラ材です。目には黒い石、耳の孔には水晶がはめ込まれています。釈迦如来の基本は、釈迦如来の解説にまとめています。
この像の中からは、絹でつくられた五臓六腑の模型が見つかりました。






この像は「生身(しょうじん)の釈迦像」と呼ばれます。生きているお釈迦さまそのものを写した像、という意味です。内臓の模型は、その考え方と結びつけて理解されています。納入品は霊宝館の2階で、時期によって展示されます。
名称: 木造釈迦如来立像および像内納入品(国宝)
時代: 北宋時代(985年ごろ)
像高: 160cm
材質: 桜材(中国産とされる)、彩色。目に黒石、耳孔に水晶
特徴: 縄を巻いたような渦巻き状の髪。同心円状に重なる衣の線。背板の裏に台州の仏師・張延皎と弟・延襲の銘。像内に絹製の五臓六腑の模型などの納入品。
清凉寺・阿弥陀三尊像:源融の山荘にいた、もうひとつの国宝

霊宝館の中央に座るのが、国宝の阿弥陀三尊像です。清凉寺という名前が生まれるより前から、この地にいた像です。
見分けの決め手は、座り方です。中央の阿弥陀如来はもちろん、左右の観音菩薩・勢至菩薩も坐像。三尊がそろって座っています。

この地は、もともと嵯峨天皇の皇子・源融(みなもとのとおる)の山荘でした。融の供養のために、阿弥陀三尊がつくられ、9世紀の終わりに、融の志を継いだ家族が阿弥陀堂を建てて安置したとされます。そのお堂が、寺の前身の棲霞寺(せいかじ)です。清凉寺は、先に阿弥陀さんが座っていた境内に、あとから釈迦如来さんが来た寺だと言えます。
仏像リンク編集部MEMO 📝





左右の脇侍は、透かし彫りの宝冠をいただき、金色の光輪を背にしています。平安時代前期に、三尊がそろって座る形が残っているのは、数が少ないといわれています。この三尊は「嵯峨光仏」とも呼ばれ、信仰されてきました。阿弥陀如来の基本は阿弥陀如来の解説へどうぞ。
名称: 木造阿弥陀如来坐像・観音菩薩坐像・勢至菩薩坐像(国宝)
時代: 平安時代前期(9世紀末。895年とする記述もあり)
像高: 阿弥陀如来178.2cm/観音菩薩168.3cm/勢至菩薩165.7cm
材質: ヒノキ(一木造)
特徴: 三尊がそろって坐像。源融の供養のためにつくられたと伝わる。現在は霊宝館に安置。
その他の見どころ
霊宝館の十大弟子立像と、獅子・象に乗る菩薩

霊宝館の1階には、釈迦の十大弟子立像(重要文化財)が並びます。11世紀の初めごろの像で、もとは本堂の釈迦如来像を囲んで、拝む姿で安置されていたといいます。像高は約79〜82cmです。肩の骨や首の筋が浮かぶ僧の姿が、人間の顔つきのまま並んでいます。

獅子に乗るのが文殊菩薩、象に乗るのが普賢菩薩です。本堂の釈迦如来の両脇侍として伝わる像で、重要文化財です。象に乗る像は、帝釈天(伝普賢菩薩)とする資料もあります。このほか、地蔵菩薩立像、毘沙門天立像、四天王立像も重要文化財です。
毘沙門天坐像

平安時代後期の毘沙門天坐像(重要文化財)は、左足を踏み下げて座る姿の像です。毘沙門天さんの基本は毘沙門天の解説にまとめています。
経堂の傅大士と笑い仏
境内の経堂には、江戸時代中期の傅大士(ふだいし)像が安置されています。傅大士は中国南北朝時代の僧で、一切経を納める八面体の書棚「輪蔵」を考えた人と伝わります。輪蔵を回すと、経典を読んだのと同じ功徳があるとされます。



門前の湯豆腐とあぶり餅
境内には湯豆腐の老舗・竹仙があります。嵯峨の豆腐といえば、川端康成の『古都』にも登場する老舗・森嘉の名が挙がります。

あぶり餅は、平たい餅を炭火であぶり、甘めの白味噌だれをからめていただきます。

黄葉の季節と御朱印

霊宝館の公開は、春(4〜5月)と秋(10〜11月)。秋は、嵯峨野が色づく時期と重なります。

お寺の歴史と伝承


この地には、嵯峨天皇の皇子・源融(822〜895)の山荘「栖霞観(せいかかん)」がありました。融の死後、子息が阿弥陀堂を建てて阿弥陀三尊を安置し、棲霞寺となります。これが清凉寺の前身です。945年には、重明親王(醍醐天皇の皇子)の妃が新しい堂を建て、等身大の釈迦像を安置したとされます。これが「釈迦堂」の始まりです。
そこへ宋から像を持ち帰ったのが、東大寺の僧・奝然(938〜1016)です。983年に宋へ渡り、五台山を巡礼し、都で出会った釈迦像の写しを985年ごろに台州で彫らせました。

奝然は、京都の愛宕山を五台山に見立て、その麓に像を安置する寺を建てようと考えたと伝わります。比叡山延暦寺の反対にあい、実現できないまま1016年に亡くなりました。遺志を継いだ弟子の盛算(じょうさん)が、棲霞寺の境内に清凉寺を建てたとされます。山号の「五台山」は、そのときの見立てが残ったものです。
のちには、融通念仏の道場としても知られるようになります。1279年に円覚上人がこの寺で融通念仏を行って、大念仏が盛んになりました。応仁の乱で伽藍の多くが焼け、1481年に再興されています。江戸時代には、徳川綱吉の母・桂昌院の発願で伽藍の復興が進み、1700年からは江戸などへの出開帳も行われました。こうして「嵯峨の釈迦堂」の名が広がっていきます。
鎌倉時代、京都の千本通りに建てられた大報恩寺の釈迦堂は、区別のために「千本釈迦堂」と呼ばれるようになりました。立つ清凉寺の像に対して、千本釈迦堂は座る像です。見比べたい方は、大報恩寺(千本釈迦堂)の記事へ。
主な歴史年表
822〜895年: 源融の生没年。嵯峨の山荘「栖霞観」を営む
9世紀末: 融の菩提のため、阿弥陀堂に阿弥陀三尊を安置(棲霞寺)
945年: 重明親王の妃が釈迦堂を建て、釈迦像を安置したとされる
983年: 奝然が宋へ渡る
985年ごろ: 台州の仏師が釈迦如来立像を彫る
1016年: 奝然が亡くなる。弟子の盛算が清凉寺を建てたとされる
1279年: 円覚上人がこの寺で融通念仏を行う
1481年: 応仁の乱後、伽藍が再興される
1700年: 本尊の出開帳が始まる
なぜ、宋の「写し」が日本で本家になったのか
本尊は、宋で彫らせた模刻像です。それなのに、「清凉寺式」という言葉が生まれ、全国に100体ほどの写しが広がりました。写しが、写される側になった。どうしてでしょうか。
まず、伝わっている事実を整理します。中世のころから、この像は模刻ではなく、インドから来た栴檀の釈迦像そのものだと信じられるようになりました。像の中には、絹の五臓六腑まで納められていました。江戸時代に出開帳が始まると、人々は像を見に出かけました。写しを造った側には、戒律を重んじた真言律宗の叡尊(えいそん)や忍性(にんしょう)らの影響が大きかったようです。


ここからは私の想像です。
当時の人にとって、この像は「生きているお釈迦さまの姿」でした。内臓まで入っているなら、写しという言葉より、「生きた身をそのまま伝えた像」という受け止めのほうが大きかったのではないでしょうか。だとすれば、各地のお寺が清凉寺の像を写すことは、絵を模写することとは少し違います。写すことで、同じお釈迦さまを自分の寺にも迎えることだったのではないか。私はそう思っています。
写された像が、次の写しの「原本」になる。この連なりこそが、清凉寺式という名前の正体だと感じます。
まとめ:写しが、本店になった寺
阿弥陀三尊は、源融の山荘に先にいました。釈迦如来立像は、宋からあとから来ました。清凉寺の本堂と霊宝館には、時代の違う2つの国宝が、同じ境内で向かい合っています。
そして、後から来た像は、写しでありながら、写される側になりました。絹の五臓六腑まで備えた像は、「写し」という言葉を超えて、お釈迦さまそのものとして迎えられたのだと思います。
では、各地に広がった100体ほどの清凉寺式は、何を写したのでしょうか。嵯峨の像の形でしょうか。宋の像でしょうか。それとも、生きたお釈迦さまその人でしょうか。答えは、嵯峨の本堂を出たあと、地方の写しの前で考えてみてください。


次に会いに行くなら
「写しの写し」に会うなら、茨城の福泉寺。清凉寺式の釈迦如来立像が伝わる寺です。金箔や漆を使わず、木の風合いを活かした像で、衣の線が同心円に重なります。嵯峨で見た形が、地方でどう受け止められたかを確かめられます。公開日が限られるため、行く前に確認してください。
「立つ釈迦」の次に、「座る釈迦」を見るなら、千本釈迦堂。同じ「釈迦堂」でも、こちらは坐像です。嵯峨の像との違いを見比べられます。
「中国から来た材」をたどるなら、東寺。清凉寺の本尊は、東寺の兜跋毘沙門天像と同じ中国産のサクラ材とされます。材から像をたどる見方も、おもしろいものです。
同じコース「京都の基本をおさえる」で、こんなところはどうでしょう
清凉寺の拝観料金、時間、宗派、電話など
正式名称 | 五台山 清凉寺(通称:嵯峨釈迦堂) |
宗派 | 浄土宗 |
住所・アクセス | 〒616-8447 京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46/JR嵯峨嵐山駅から徒歩約5分、市バス28系統「嵯峨釈迦堂前」下車すぐ |
電話 | 075-861-0343 |
拝観時間・拝観方法 | 霊宝館・本堂の特別公開は春(4〜5月)と秋(10〜11月)。2026年秋は10月1日〜11月30日、9:00〜16:30(予定)。本堂の釈迦如来像は、ふだんは厨子の扉が閉じていて、特別公開期に拝観できる。毎月8日にも開帳されるとする案内がある(最新はお寺へ)。通常期の境内は9:00〜16:00ごろ |
拝観料金 | 特別公開(本堂・霊宝館の共通券)は一般900円(2026年秋)。通常の境内拝観は一般400円、中高生300円、小学生200円ごろ |
拝観時間・料金は変わることがあります。お出かけ前にご確認ください。参考:京都観光Navi「霊宝館 秋期特別公開【清凉寺】」
.
.

地域タグ:京都府の仏像

下記バナーをクリックしてアカウントをフォローしてみてくださいね!
【地方仏めぐりおすすめの書籍】

見仏記 (文庫)|みうらじゅん&いとうせいこう
新TV見仏記
地方仏を歩く|丸山尚一
【各エリアのおすすめ仏像本】

■東北エリア
図説 みちのく古仏紀行
■関東エリア
東京近郊仏像めぐり
■東海エリア
東海美仏散歩 愛知・岐阜・三重
■関西エリア



















