【見仏入門】No.10 京都府・大報恩寺(千本釈迦堂)の仏像/釈迦如来坐像、釈迦十大弟子、六観音像、おかめ伝説など


今回ピックアップするお寺は京都駅の北方にある大報恩寺(だいほうおんじ)。またの名を「千本釈迦堂(せんぼんしゃかどう)」と言います。

大報恩寺・千本釈迦堂の霊宝殿には鎌倉時代~南北朝時代に活躍した慶派の仏師である快慶、行快、定慶という名だたる仏師たちの力作の仏像がずらりと並んでいて京都での重要ポイントのひとつ。しかも一般的な観光客にはあまり認知されていないせいか、混雑しないお寺でいつでもゆったりと拝観することができ慶派の美しい仏像たちにウットリできちゃうのです!

 京都のお寺って実は現存しているお寺って少なかったりするんです。

 

なぜなら京都は室町時代末期の15世紀後半に京都を中心に11年も続いた内乱「応仁・文明の乱」で京都市内の多くの寺が炎上してしまいました。

しかしこの千本釈迦堂は両陣営から手厚い保護を受け、奇跡的にも災火をまぬがれました。このため、この寺に安置されていた鎌倉時代の慶派の仏像がそっくりそのまま残されることになり、今日では京洛最古の建造物としてこの千本釈迦堂が国宝に指定されています。

 皆さんは家を建てたことはありますか?家を建てた時にはほとんどの方が、柱が組みあがった時に上棟式(棟上げ、建前などともいう)をします。この上棟式の時に、棟梁(とうりょう)が棟木(むなぎ:一番高いところにある柱部材)に幣束(へいぐし)を飾るのですが、特に関西では「おかめ御幣」と呼ばれる「おかめ」の顔のマスクをつけた飾りを飾るところが多いそうです。実はこのおかめの飾り、ここ千本釈迦堂大報恩寺が大きく関係しています。

こんなものです。その発祥がこのお寺なのです。理由はのちほど寺の歴史の方で紹介させていただきます。それでは今回は大報恩寺・千本釈迦堂をガイドいたします。

大報恩寺・千本釈迦堂の立地

 

 千本釈迦堂大報恩寺は京都駅の北部の今出川の西にあり、北野天満宮の少し東側です。

 

JR京都駅からは立命館大学前行きの市バスで上七軒下車、または地下鉄で「今出川」下車 銀閣寺行きバスで上七軒下車、北へ徒歩3~4分です。

今出川駅からは今出川通りを西にまっすぐ上七軒まで1.7kmほどですから健脚なら歩いても行けますね。

 

さて、この千本釈迦堂の千本の名前の由来については、京都では嵯峨釈迦堂(清凉寺)があり、これと区別するために、この寺の東側の「千本通り」の名前をとって「千本釈迦堂」と呼ばれるようになったようです。

 

この千本通りは、平安京の大内裏の正門である朱雀門(すざくもん)と羅城門(らじょうもん)を結ぶ平安京の南北に走るメインストリートである「朱雀大路(すざくおおじ)」が通っていた通りでした。

 

 

千本通りの名前の由来は、朱雀大路(すざくおおじ)が船岡山を正面に見るように道を造ったといわれていますが、この船岡山の西麓に葬送地があり、この道沿いに千本の供養塔を建てたことからそう呼ばれるようになったといわれています。また、平安中期の真言密教の僧、日蔵が地獄へおちた醍醐天皇と出会い「自分を地獄の責め苦から救い出すために千本の卒塔婆(そとうば)を立ててほしい」と訴えられたので卒塔婆を千本立てたという話もあります。
実際に立てたのであれば千本の卒塔婆というのは かなり強烈な光景だったでしょうね。

 

この朱雀大路は平安京の中心を南北に通るまさに都の中心となる大路だったのですから、この千本釈迦堂
大報恩寺は平安京の中心にあったことになります。今では京都御所を通る烏丸(からすま)通りが街の中心になっていますが、昔はもう少し西側、堀川通りより更に西にあるこちらの千本通りがメインだったのです。そんなことを考えながら歩いてみると新たな発見があるかもしれません。応仁の乱では、この今出川付近で堀川を挟んで西軍と東軍がにらみ合っていたのです。ですからこの周辺のお寺などは皆焼かれてしまったのもわかりますね。奇跡的にこのお堂が残されたことが不思議な気がします。

 

大報恩寺・千本釈迦堂の歴史

 

 千本釈迦堂(せんぼんしゃかどう)大報恩寺は、鎌倉初期の1221年義空(ぎくう)上人によって開創された寺です。義空上人については、出羽(秋田)の出身で藤原秀衡の孫と言われており、19才で比叡山澄憲僧都に師事し、後にこの千本の地を得て、苦難の末本堂をはじめ諸伽藍を建立したと言われています。

 

 現在の本堂である釈迦堂が完成したのは1227年です。この釈迦堂は 何度かふれて参りましたが建設時のまま残っている京都市街地で最古の木造建造物と言われていて、国宝に指定されています。

 

この釈迦堂は、数少ない中世建築で、一般的な密教仏堂の配置構成と異なり、本尊の周囲を行道できる常行堂の作りとなっています。

 

義空は、創建直後に正式な寺院として四条天皇へ寺格の申請をし、俱舎(くしゃ)・天台(てんだい)・真言(しんごん)の三つの宗派の認可を受けており、これがたくさんの参拝者が集まる事となったようです。また寺の門前には様々な商売をする人が集まり、当時大変賑わいのある寺だったといわれています。

毎年12月7、8日には大根焚きが行われ、厄除け大根が参拝者に振る舞われる人気行事となっています

おかめ伝説

 さて冒頭でご紹介しましたこの寺に伝わる「おかめ」のお話をしましょう。こんなお話が伝わります。

むかし、鎌倉時代に大報恩寺の本堂である釈迦堂を作った大工の棟梁の高次が、大事な柱の寸法を間違って短く切ってしまいました。大変なことをしてしまった!と嘆き悲しみオロオロしていた棟梁を見て、その妻のおかめ(阿亀)が枡組(ますぐみ:木を四角に組む工法)を使うようにアドバイスして、これで棟梁の高次は無事に本堂建築の大任を果たすことができたのです。

無事、大任を果たすことが出来てめでたしめでたし~✨とはいきませんでした。。

 

大事な寺の本堂が女のアドバイスで完成したことを知られてはいけないと、おかめは本堂の上棟式を待たずに自害してしまいました。

 

 

このため棟梁の高次は上棟式の日に、妻おかめの冥福とお堂の無事を祈っておかめの面を御幣につけて飾ったと言われています。

 

この話を伝え聞いた人々によって、このおかめ(阿亀)の菩提を弔うために、寺の境内に宝篋印塔が建てられました。今でも「おかめ塚」として残されており、“縁結び”“夫婦円満”“子授け”にご利益があると言われて多くの人が参拝しています。また、2月の節分に、おかめ塚で「おかめ節分」が行われ、豆まきやおかめ音頭が踊られます。

 

お寺の本堂奥には「おかめ人形」もたくさん飾られていますよ。ある種、ギョッとする光景かもしれません。ぜひ実際に訪れて確認してみてください。

どうですか「おかめ」という、ふくよかな笑顔には夫想いの明るい人柄をかんじさせますが、こんな悲劇が隠されていたのです。おかめの面の発祥についてはいろいろな説がありますが、ここは全国のおかめ信仰の発祥の地ともいわれています。

おそらくこの話も“お互いに助け合う円満な夫婦であり続けたい”という強い思いがお参りする人たちに伝わるのだと思います。

また12月7日、8日の法要に大根を炊いて信者などに振る舞われる「成道会」が行われます。鎌倉時代の僧(慈禅)がはじめた大根の切り口に梵字を書いて息災祈願を行ったことが起源といわれています。

 

また他にも吉田兼好の「徒然草」にこの寺で行われている釈迦念仏会「千本の釈迦念仏」のことが書かれています。第二百二十八段:「千本の釋迦念佛は、文永のころ、如輪上人、これを始められけり

つまり「千本釈迦堂の釈迦念仏は、文永のころ、如輪上人が、これを始められたということである。」と書かれているだけなので単に自分の心覚え書きだったのかもしれませんが、どうも千本釈迦堂は吉田兼好さんも馴染みの場所だったようです。

 

大報恩寺・千本釈迦堂の仏像の詳細

 千本釈迦堂の本堂は1227年の建立で京都最古の木造建造物です。このお堂にたくさんの仏像が残されてきたのですが、現在は須弥壇の厨子の中に秘仏である本尊の釈迦如来坐像が安置されていますが、その他の像は大切な文化財を災害から守るためにコンクリート製の大きな「霊宝殿」に安置され、鎌倉時代、藤原時代の仏像をはじめ多数の寺宝を展示しています。霊宝殿は2つあり、常時展示しているのは片方のみなので注意。

それでは 大報恩寺千本釈迦堂の仏像を紹介します。

大報恩寺千本釈迦堂・釈迦如来坐像【重文】(鎌倉時代初期)〈行快作 像高89cmヒノキ材寄木造 玉眼〉

 

大報恩寺の本尊であり、1227年建築された千本釈迦堂(国宝)の須弥壇(しゅみだん)にある厨子(ずし)に安置されています。この仏像が制作されたのは1221年頃から1227年にかけていわれています。秘仏のため一般公開はありませんが、お盆や正月、12月7,8日の大根炊き法要など年に4回ほど開帳されていますので我々はそこで訪問することができます。

この釈迦如来の作者ほ鎌倉時代の仏師快慶の一番弟子「行快(ぎょうかい)」の代表作のひとつといわれる仏像です。

しっかりと大粒な螺髪に顔つきは力強く、鋭い目じりが特に迫力があります。胸も堂々としていて、丸いふっくらした面相や、衣の模様にも運慶派の特徴があります。

像内に銘文が朱漆で書かれていて「巧匠法眼行快」とあります。

 

行快は快慶の一番弟子で、1219年に快慶が行った奈良の長谷寺・十一面観音像再興の記録にも「大仏師快慶」と「左(すけ)法橋 行快」と快慶を補佐する立場であったことが記されています。また仏師「行快」の名前は三十三間堂の千体千手観音菩薩像の中にもあります。

行快の仏師としての位(ランク)は1216年に法橋、1227年に法眼となっています。1227年にこの釈迦堂が完成しこの本尊が安置されたのですから、像の完成時には法眼となっていたことがわかりますね。

最高位は運慶が得た「法印」ですが、師である快慶も法眼どまりでしたので行快も一流仏師と評価されていたことは明らかなようです。

作品としては藤田美術館が所蔵する地蔵菩薩立像や 滋賀県西教寺の阿弥陀三尊像のうち観音菩薩像、最も有名なのは 大阪府河内長野市にある金剛寺の不動明王坐像です。しっかりとした銘記は確認されていませんが同じ金剛寺の降三世明王坐像も同じ作風であるため行快が作成したものと考えられています。

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大報恩寺霊宝堂 十代弟子像【重文】(鎌倉時代)〈快慶などの作像高:90cm~100cm ヒノキの割矧(わぎはぎ)造 玉眼 〉

 

 

霊宝館の左手奥に、十大弟子像が一列に並んでいます。この釈迦の10人の弟子像は、大報恩寺の本尊である釈迦如来のまわりに置かれていたものです。作者は本尊の行快の師である「快慶」とその一門です。師弟で協力して、これらの像を制作したことが分かります。十体ともほぼ完全な状態で保管されています。

 

 

これらの像が製作されたのは1216年末から1219年の間と考えられています。

かなりの迫力で、近づいてよくみると、個々の表情がさまざまでとてもユニーク。仏師快慶たちの表現力に圧倒されます。

十大弟子像のうち、目犍連(もっけんれん)尊者像優婆離(うばり)尊者像の2躰の像には銘文があり、目犍連尊者像の足ほぞに「巧匠法眼快慶」と墨書があり、快慶作であることがわかっています。

さらに優婆離尊者像の像内には「法眼/快慶/□□/行快/法橋」と名前があります。
10躰の像全体に力強さとまとまった印象があり、快慶の一門によって造られたと考えて良いと考えられます。

その他、「阿那律(あなりつ)尊者像」「富楼那(ふるな)尊者像」にも同じ特徴があることから行快の作ではないかといわれています。法眼快慶が没したのはこの釈迦堂が完成した年(1227年)で釈迦堂完成の12月にはすでに亡くなっていたのではないかと思われています。快慶作の仏像は日本全国にたくさん残されていますがこの千本釈迦堂の十大弟子は快慶晩年の作といえます。

 快慶死後、法眼の位が弟子の行快に引き継がれたのでしょう。そして本尊も「法眼行快」と書かれたのだと考えられます。いずれにしても本尊とこの十大弟子像は、快慶、行快とその一門が勢力を結集して製作したものといえるでしょう。

六観音像【重文】(鎌倉時代・1224年)〈 肥後定慶作 〉

〈像高:聖観音…177.9cm、千手観音…180.0cm、馬頭観音…173.3cm、十一面観音…180.6cm、准胝観音…175.7cm、如意輪観音…96.1cm〉

 

 

 

霊宝殿でひときわ存在感を示す、大報恩寺の顔と言っても過言ではないのがこの六観音さん。真言宗の六観音は、聖(しょう)・千手(せんじゅ)・馬頭(ばとう)・十一面(じゅういちめん)・准胝(じゅんでい)・如意輪(にょいりん)の六観音をいい、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道を救う観音とされています。等身大の六観音像が揃って残されているのは極めてまれです。

 

これらの像は1224年に運慶の弟子である「肥後定慶(ひごじょうけい)」が作ったことが分かっています。鎌倉時代の仏師運慶・快慶などの彫刻の力強い刀法に近く、衣のひだにも複雑な工夫が見て取れます。

 

六観音は「肥後定慶」の作として知られていますが、実際に定慶が作ったとして確定できているのは、准胝(じゅんてい)観音像のみです。六観音として1セットとして作られたものと考えられてはいますが、全てが定慶なのか、もしくは他の慶派の仏師が携わったものかについては明確ではありません。

肥後定慶について深掘りしてみましょう。慶派の仏師は◯慶と名前が付いているのに、なぜ肥後定慶と4文字もあるのか。実は「定慶」という仏師は何人か存在していて、区別するために「肥後」とついています。とりわけ2人の定慶が有名です。

 

一人の定慶は興福寺東金堂の維摩居士などが有名で、運慶の父・康慶の弟子だったらしい「定慶」。

それに対し、もう少し時代が後になるこの大報恩寺の准胝観音像や鞍馬寺聖観音像の作者である「定慶」。

 

これを区別するためにこの千本釈迦堂の定慶は「肥後別当定慶」とか「肥後定慶」などと称されています。ちなみに肥後定慶は運慶の次男・康運が改名したという説が有力となっているようです。

ここの六観音像のどれもその彫りの美しさ、精緻な造形、まるで人肌を感じさせるような肌など、その美しさとパワーに圧倒されてしまいます。千本釈迦堂はゆっくりと対峙できますので、六観音の美しさをたっぷり堪能ください。

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銅造釈迦誕生仏【重文】(鎌倉時代初期)〈 銅造 鍛金 像高:53.3cm 〉

天上天下唯我独尊!と釈迦が誕生した時の様子を現したこの釈迦像は、4月8日の釈迦誕生会(花まつり、灌仏会<かんぶつえ>)の本尊です。

釈迦信仰の寺には、この釈迦誕生仏像は良く見かけますが、この種の像としてはほかの誕生仏が小型の像が多いのに対して、かなり大型(像高53cm)です。この寺の草創期(鎌倉前期、)の像と考えられます。

霊宝殿内にて、ガラスケースに入って展示されています。

千手観音像【重文】(平安時代)〈 一木作り 彩色 像高:176.2cm 〉

この千手観音像は、大報恩寺の創建より古い平安時代中期頃の仏像ですが、この寺に伝わってきた経緯はわかっていません。岩座の上に立つ等身大の像ですが、彩色が剥がれていて、千手の中には過去に補修された痕跡も見られます。

穏やかな面持ちと形式的に整えられた衣の模様は、平安時代の特徴をよく表している像です。

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傅大士および二童子像【重文】(室町時代 1418年)〈院隆作 彩色、像高:三体とも約70cm 〉

傅大士(ふたいし)の傅翕(ふきゅう)を中央に、左童子の普建(ふけん)、右童子の普成(ふじょう)を従えた三体の像です。

以上、大報恩寺・千本釈迦堂の歴史や仏像の紹介でした。この記事を読んでいいなと思った方は是非一度、京都に訪れたら千本釈迦堂の方に足を運んでみてください。慶派の名だたる仏師たちの名作を実際の目で確かめ、職人の心意気や確かな技術の高さを肌で感じてみてください!ゆっくりとした空気が流れる千本釈迦堂おすすめです!

大報恩寺・千本釈迦堂の御朱印はこちら

 

千本釈迦堂についてもっと知りたい方はこちら

大報恩寺・千本釈迦堂の拝観料金、時間、宗派、電話など

正式名称

瑞応山大報恩寺(別称:千本釈迦堂)

宗派

真言宗智山派

住所

京都市上京区七本松通今出川上ル

電話

075-461-5973

拝観時間・料金

9:00~17:00

大人 600円、大学生 500円、高校生 500円、中学生・小人 400円

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