高知・雪蹊寺の仏像|湛慶の毘沙門天・吉祥天・善膩師童子と薬師三尊に会う(拝観料・時間つき)

高知市の長浜。桂浜の手前、西へ4kmほどのところに、四国八十八箇所の第33番札所、雪蹊寺(せっけいじ)があります。
四国のお寺の多くは、空海が開いたと伝わる真言宗です。ところが雪蹊寺は臨済宗妙心寺派。四国霊場のなかでは珍しい禅の寺です。通りに面した石の門柱をくぐると、右に鐘楼、正面に2005年に建てられた大きな本堂。その右に大師堂、左に客殿と納経所、さらに左に観音堂が並びます。
この寺で私がいちばん見てほしいのは、毘沙門天さんの家族がそろっていることです。運慶の長男、湛慶(たんけい)の名が残る毘沙門天立像と、両脇に立つ吉祥天さん、善膩師童子(ぜんにしどうじ)さん。像は境内のコンクリート造りの霊宝殿に納められています。寺の名前は変わり、一度は神社になったことさえある。それでも、家族は離れずに立っています。
行き方は、JR高知駅前から路面電車(とさでん交通桟橋線)で約11分、終点の桟橋通五丁目で降り、長浜または桂浜行きのバスで「長浜」へ。そこから歩いて約500mです。バスは高知駅バスターミナルやはりまや橋からも出ています。
- 雪蹊寺・毘沙門天立像:足元のほぞに、湛慶の名が書かれていた
- 雪蹊寺・吉祥天立像と善膩師童子立像:中尊を見上げる末っ子
- 雪蹊寺・薬師如来坐像と日光・月光菩薩立像:運慶の作と伝わる三尊
- その他の見どころ
- お寺の歴史と伝承
- なぜ、都の仏師の名が、土佐の寺に残ったのか
- まとめ:寺の名は変わっても、家族は離れなかった
- 次に会いに行くなら
- 雪蹊寺の拝観料金、時間、宗派、電話など
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雪蹊寺・毘沙門天立像:足元のほぞに、湛慶の名が書かれていた
中央に立つ毘沙門天さんは、像高168.0cm。赤みのある木肌に、鎧の細かな彫りが浮かびます。腹の中央には丸い顔のような飾り。右足を一歩ふみ出し、足元には邪鬼が伏せています。腰を少し左にひねった立ち姿で、右腕と左の手首は失われています。それでも、体の張りは消えていません。
この像を「湛慶の像」と言える決め手は、左足のほぞにあります。ほぞとは、像を台座に差しこむための足の下の出っぱり。1918年の修理のとき、そこに墨で書かれた湛慶の名が見つかりました。
仏像リンク編集部MEMO 📝




湛慶は1213年に法印という高い位を得ています。像はそれより後の作で、前身の高福寺が建てられたとされる1225年ごろ、湛慶50歳代の作と考えられています。数が多くない湛慶の名が残る像のひとつです。
毘沙門天さんがどんな神さまなのかは、こちらの解説にまとめています。
名称: 木造毘沙門天立像(重要文化財)
時代: 鎌倉時代(1225年ごろの作と考えられています)
像高: 168.0cm
材質: ヒノキ、寄木造、彩色、玉眼
特徴: 左足のほぞに湛慶の名を墨書。右腕と左手首を失う。腰を左にひねり、邪鬼の上に立つ。
雪蹊寺・吉祥天立像と善膩師童子立像:中尊を見上げる末っ子
毘沙門天さんに向かって右が吉祥天さん、像高79.7cm。宋風の大きな袖の衣を着て、蓮の葉の形をした荷葉座(かようざ)の上に立ちます。ふっくらした顔立ちで、腹を少し前へ出した姿が特徴です。
左が善膩師童子さん、像高71.2cm。首を少しかしげ、軽く腰を折って、真ん中の毘沙門天さんを見上げています。頬の丸みと、玉眼のきらりとした目。三尊のなかでいちばん知られているのは、この童子さんかもしれません。湛慶作と伝わる高山寺の狗児像(子犬の像)に通じる表情だ、とも言われます。
吉祥天さんは毘沙門天さんの妃(妹とする説もあります)、善膩師童子さんは毘沙門天さんの子で、五人の童子の末っ子とされます。三人は、毘沙門天さんを中にして並んだ「家族」の形です。
仏像リンク編集部MEMO 📝




毘沙門天さんに対して、吉祥天さんと童子さんはぐっと小さく造られています。三尊それぞれ彫り口を変えている、とも言われます。大きさの差が、家族の距離感をつくっている。私はそう見ています。吉祥天さんについて詳しく知りたい方は、吉祥天の解説へどうぞ。
なお、毘沙門天さんには銘がありますが、両脇の2躯に個別の銘はありません。吉祥天さんと童子さんは、毘沙門天さんと一組で、湛慶の作とみられています。
名称: 木造吉祥天立像・木造善膩師童子立像(毘沙門天立像とあわせて重要文化財)
時代: 鎌倉時代
像高: 吉祥天79.7cm、善膩師童子71.2cm
材質: ヒノキ、寄木造、彩色、玉眼
特徴: 吉祥天は宋風の大袖の衣で荷葉座に立つ。善膩師童子は首をかしげ、中尊を見上げる。
雪蹊寺・薬師如来坐像と日光・月光菩薩立像:運慶の作と伝わる三尊
霊宝殿にはもう一組、薬師三尊が納められています。すわった薬師如来さんの左右に、立つ菩薩さんが2体。日光は太陽、月光は月の名を持ち、薬師さんを支える菩薩です。中尊の像高は約140cm、左右の菩薩はどちらも170cmを超え、中尊より背が高く立ちます。
薬師三尊は、運慶の作と伝わります。高知市の解説では「慶派仏師による鎌倉初期の代表的な作例」とされています。光背・台座・持ち物は、のちの時代に補われたものです。
仏像リンク編集部MEMO 📝


病を治す如来さんである薬師如来さんについては、薬師如来の解説にまとめています。
名称: 木造薬師如来坐像及両脇侍立像(重要文化財)
時代: 鎌倉時代
像高: 薬師如来139.5cm、日光菩薩174.6cm(173.3cm)、月光菩薩174.1cm(172.4cm)
材質: ヒノキ、寄木造、漆箔、玉眼
特徴: 運慶の作と伝わる。慶派仏師による鎌倉初期の代表的な作例とされる。光背・台座・持ち物は後補。
その他の見どころ
薬師三尊を守る十二神将立像も霊宝殿にあります。12体のうち、現存するのは10体。神将たちは岩のような台に立ち、それぞれ違う方向へ体をひねっています。欠けた2体の場所を想像しながら見るのも一興です。


境内には、観音堂があります。馬頭観音が祀られ、天井には天女の絵が描かれています。長宗我部元親の長男で、戸次川の戦いで亡くなった長宗我部信親の墓もあります。
御朱印は四国八十八箇所の第33番札所のもの。納経所でいただけます。
お寺の歴史と伝承
寺伝では、815年に空海が開き、当時は少林山高福寺という真言宗の寺だったと伝わります。ただし寺伝であり、確かなことは分かっていません。鎌倉時代の1225年に高福寺が建てられた、という記録もあります。
鎌倉時代には、運慶と長男の湛慶がこの寺に滞在したと伝わります。そのため寺は「慶運寺」とも呼ばれた、といいます。


その後、寺は荒れて廃寺となりました。戦国時代末期、土佐の戦国大名・長宗我部元親が臨済宗の月峰和尚を迎えて再興します。1599年に元親が亡くなると、四男の盛親(もりちか)が長宗我部家の菩提寺とし、元親の法号「雪蹊恕三」から、寺名を雪蹊寺と改めました。
江戸時代の初めには、住職の天室僧正が朱子学南学派の祖として活躍し、多くの儒学者を育てました。このため「南学発祥の道場」と呼ばれます。
明治3年(1870)、廃仏毀釈で寺は壊され、長宗我部元親の坐像を神体とする秦(はた)神社になりました。のちに寺として復興され、いまに至ります。
月峰和尚が寺に招かれた話には「歌詠み幽霊の伝説」があります。荒れた寺には成仏できない幽霊がすみ着き、村人は近づかなかった。月峰和尚が座禅を組むと、泣き声とともに「水も浮き世という所かな」という下の句が聞こえる。和尚は翌晩までに上の句を考え、「墨染めを洗えば波も衣きて、水も浮き世という所かな」と詠むと、泣き声は止んだ。この話を聞いた元親が、和尚に住職を頼んだといいます。
主な歴史年表
815年: 空海が開き、高福寺と称したと伝わる(寺伝)
1213年: 湛慶が法印に叙せられる
1225年: 前身の高福寺が建てられたとされる。このころ毘沙門天三尊がつくられたと考えられる
戦国時代末期: 長宗我部元親が月峰和尚を迎えて再興
1599年: 元親が亡くなり、盛親が菩提寺として寺名を雪蹊寺に改める
江戸時代初期: 天室僧正が南学の祖として活躍
1870年: 廃仏毀釈で寺が壊され、秦神社となる
1918年: 修理で、毘沙門天立像の左足のほぞから湛慶の名が見つかる
2005年: 現在の本堂が建てられる
なぜ、都の仏師の名が、土佐の寺に残ったのか
寺の名前をたどると、高福寺、慶運寺、雪蹊寺と変わっています。宗派は真言宗から臨済宗へ。明治には神社にもなりました。これだけ変わったのに、毘沙門天さんの家族は、いまも3体そろっています。
寺伝は「運慶と湛慶が滞在した」と語ります。けれど、実際に湛慶が土佐まで来て彫ったのか、都で造られた像が届いたのか、どちらだったのかは、いまの私には言い切れません。毘沙門天さんの足元の銘が示すのは、湛慶の名と、造られたのが1213年以後、ということまでです。
ここからは私の想像です。
像は寄木造で、頭と体を別々に寄木しています。部材に分けて造る技法ですから、どちらの道も考えられます。ただ、寺が「滞在した」という物語を選び、寺名を運慶と湛慶の名を入れ替えた「慶運寺」にしたことは、はっきりしています。寺が荒れ、名が変わるたびに、人々はこの像の前で「運慶と湛慶の像だ」と語り継いだのではないか。名前が足元の見えない場所に隠れていたからこそ、語りが寺と像をつないだのだと、私は思っています。
まとめ:寺の名は変わっても、家族は離れなかった
もう一度、霊宝殿の三尊を思い出してください。毘沙門天さんは武の神で、邪鬼を踏んで立っています。けれどその両脇には、妃の吉祥天さんと、見上げる末っ子の童子さんがいます。
寺が消え、名が変わり、神社になっても、この3体は離れませんでした。足元に書かれた名前が見つかったのは1918年。それまでは、湛慶の名を知らなくても、人々はこの三尊の前で手を合わせていたはずです。名前より先に、家族の姿が残った。私はそう見ています。


見えない場所の名前、神社になった歴史、そろったままの家族。霊宝殿を出たら、門柱のところで振り返ってみてください。そこから先の問いは、別の毘沙門天さんの前で考えられます。
次に会いに行くなら
毘沙門天さんと吉祥天さんの別の形を見るなら、成島毘沙門堂(岩手)。東北の高台に、4mを超える兜跋毘沙門天立像と、象の頭の冠をのせた伝吉祥天立像が立ちます。鎌倉の湛慶の像と並べると、平安時代の地方の毘沙門天信仰がよく見えてきます。
鎌倉の前の時代を見るなら、竹林寺(高知)。同じ高知市内の五台山にあります。秘仏の文殊菩薩と、平安時代の像が並ぶ宝物館があり、雪蹊寺の湛慶の像のあとに見ると、時代の移り変わりがよく分かります。
四国のもう一つの顔を見るなら、丈六寺(徳島)。徳島の聖観音坐像から、高知の鎌倉の像へ。四国の東と南で、時代の違う像を見くらべられます。
同じコース「西日本・四国・九州の古寺」で、こんなところはどうでしょう
雪蹊寺の拝観料金、時間、宗派、電話など
正式名称 | 高福山高福院雪蹊寺(四国八十八箇所第33番札所) |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
住所・アクセス | 〒781-0270 高知県高知市長浜857-3/JR高知駅前から路面電車(とさでん交通桟橋線)で約11分、桟橋通五丁目駅下車。長浜または桂浜行きのバスで「長浜」下車、徒歩約500m |
電話 | 088-837-2233 |
拝観時間・拝観方法 | 9:00〜16:00/像は霊宝殿に安置。拝観の前に電話でご相談ください |
拝観料金 | 500円 |
拝観時間・料金は変わることがあります。お出かけ前にご確認ください。参考:高知市「木造毘沙門天及脇侍立像」
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地域タグ:高知県の仏像

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