【見仏入門】No.35 奈良・聖林寺の仏像/国宝十一面観音立像、大御輪寺の旧仏、御朱印など


今回は奈良の聖林寺(しょうりんじ)を紹介します。

聖林寺は奈良県桜井駅から南へ2kmほどのところにある小さなお寺。ここには仏像界のなかではとっても有名な国宝「十一面観音像」が祀られており、多くの仏像ファンを魅了します。

お寺は一般的な観光スポットではないため、訪れる人はまばらで、観光客でごみごみするということはあまりありません。観光客もさほど多くないため1対1で向かい合ってたっぷり十一面観音と心を通じ合わせることもできてしまうかも。

しかしこの十一面観音には悲しい過去も。。そんな話も交えつつぜひ多くの方にこの十一面観音の存在を知っていただきたいと思い、今回は聖林寺の十一面観音を詳しく紹介していきたいと思います!

聖林寺へのアクセス

聖林寺は近鉄またはJRの桜井駅から多武峯(とおのみね)・談山神社(だんざんじんじゃ)行きバスで約10分「聖林寺前」下車すぐです。バスの本数はそれほど多くないので歩くこともできますが、30~40分ほどです。川沿いにも歩けますので片道歩くのも良いかもしれません。

古い町並みに沿って歩けば、地酒「談山正宗醸造元」庄屋酒本舗さんや、有名な三輪そうめんの製造元工場なども多くあります。

聖林寺は、他の大きな奈良のお寺と比べると、なんと小さなお寺なのだと感じてしまいます。しかし寺は歴史もあり、多武峯(とおのみね)談山(たんざん)山系の山のふもとの少し高台にあるため、門前からの眺めはとくに素晴らしいです。

北の方に「三輪山」と左手前に卑弥呼の墓ともうわさされる「箸墓古墳(はしはかこふん)」を含む大和盆地と「山の辺の道」が広がっていて、いにしえの舞台がそこに広がって見えます。

 

聖林寺の歴史

聖林寺(しょうりんじ)は、伝承では712年に藤原鎌足(中臣鎌足)の長子・定慧(じょうえ)がこの地に庵を結んだのが始まりとされ、寺の南方の山上にある多武峰(とうのみね)妙楽寺(みょうらくじ)の別院(仏堂)となったと伝えられます。この妙楽寺が現在の談山神社(たんざんじんじゃ)です。

 

定慧(じょうえ)は春日大社や興福寺を建立した「藤原不比等」の兄に当たりますが、学問を好む聡明な人物であったといわれ、『藤氏家伝』によると、早々に出家して11歳の653年に中国の唐に渡り、665年に帰国するまで唐で学問(仏教)を習得しました。

しかし、帰国後すぐに惜しくも亡くなってしまいました。これには百済人による毒殺陰謀説などもあります。(でもこれでは、この聖林寺の創建の712年には死んでいますので年代が合わなくなってしまいます。。)

定慧上人が建立したとされる「大念寺」の寺伝によれば708年に帰国し、留学中の夢のお告げにより藤原鎌足の遺骸を摂津国阿威山から奈良県の多武峰(とうのみね)に寺院を建立して墓所を改葬したとされ、714年6月25日に70歳でなくなったとされています。こちらならつじつまが合いますね。

でも定慧は鎌足の実の子どもではなく、孝徳天皇のご落胤(らくいん)だといううわさもありますよ。当時の記録はどこまでが真実かはなかなか今ではわからないですね。

お寺も残された資料などが途中に起きた火事で燃えてしまったりしています。ここのお寺も同じです。平安時代には寺は興福寺の僧兵に焼かれて衰退してしまい、しばらく歴史も分かっていません。

 

 

これを鎌倉時代になり慶円(けいえん)上人(別名三輪上人)と性亮玄心(しょうりょうげんしん)が三輪にあった平等寺(びょうどうじ)の遍照院(へんじょういん)を移しこの寺の本堂として再興したのです。

 でも実は、この聖林寺の歴史よりも実はこの寺の国宝十一面観音像を巡る歴史の方がもっと興味深いのです。この国宝十一面観音像は三輪山の大神神社(おおみわじんじゃ)の神宮寺(じんぐうじ)であった大御輪寺(だいごりんじ、または、おおみわてら)の本尊でした。

大神神社は大和国(やまとこく:昔の国は今の県に当たるものですが大和国は現在の奈良県です。)の一之宮(いちのみや:その国の中で一番格が上の神社)で、三輪明神とも呼ばれる日本で最も古い神社です。また、神様を祭る本殿の建物はなく、本殿は三輪山そのもので、ご神体は、三輪山に鎮まっている大物主大神(おおものぬしのおおかみ)です。

もうすこし説明しないと言葉が難しいですね。

神宮寺について

まず神宮寺というのは、元あった神社で神様と同時に仏様も祀る(まつる)ようになった時に、神と仏を分離した方が良いということになり、神社の近くに寺を造ってそこに仏様を移して祀ったものです。このような寺を神宮寺といいます。

また神と仏が一緒に祀られているものを「神仏習合とか神仏混合」といいます。

 

そして日本の長い歴史の中では、この神と仏を一緒に祀ったり、分離したりを何度か繰り返しますが、明治維新になって政府が「神仏分離令」という命令を出すことになり、これが大きな動きとなって日本中に広がり大混乱になったのです。

 

多くのところで「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」という、仏像や寺院を壊し、毀釈(きしゃく:釈迦の教えを壊す)するという運動に広がりました。

このため多くの寺院、特に国に関係の深い神社との関係深い寺を中心に取り壊されていったのです。この廃仏毀釈運動によりこの十一面観音像も元の寺からこの寺に移されたのですから少し理解しておいてください。後からの説明が分かりやすくなりますからね。

また「大物主大神」という神様については大変重要ですが、もう少し後で紹介します。

まずは、この十一面観音が安置されていた大御輪寺(だいごりんじ、おおみわてら)について、その歴史を見てみましょう。

十一面観音が安置されていた大御輪寺の歴史

三輪山を本殿(ご神体)とする大神神社(おおみわじんじゃ)は古墳時代以前から先住民族により崇拝されてきたといわれる日本で最も古い神社の一つとされていますが、大和朝廷との関係も深く日本の神話(古事記など)にもたびたび登場します。

その古い神社も仏教が伝わると神と仏が習合されて祀られるようになります。奈良時代にはすでに神社の境内に「大神寺(おおみわてら」という神宮寺が建てられていました。いつごろ建てられたものかは不明ですが、神宮寺が建てられる前は神社で一緒に仏様も祀っていたのかもしれません。

また神宮寺も時代の変化で、「平等寺(びょうどうじ)」と「浄願寺(じょうがんじ)(尼寺)」という2つが加わり3つになります。大神寺は鎌倉時代になり「大御輪寺(だいごりんじ)」と名前を変えます。大御輪寺は北西側、平等寺は南側、浄願寺は西側にそれぞれあったようです。

しかし3つの神宮寺の力関係も微妙で、尼寺である浄願寺を除くと平等寺と大御輪寺を比べると正式な神社の別当寺は平等寺で、大御輪寺は大神神社の若宮の別当寺と位置づけられてきたといわれています。またこの大御輪寺も時代によっては多武峰妙楽寺の末寺として加わったり、西大寺の末寺になったりしています。この歴史のある3つの神宮寺(大御輪寺、平等寺、浄願寺)は、明治初めの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動で、全部取り壊されることになりました。

さきほども触れましたが今、聖林寺に安置されている十一面観音像は「大御輪寺」の本尊でした。

前に紹介した和辻哲郎が大正時代に書いた「古寺巡礼」の中では、この仏像が道端に捨てられていたものを寺の住職が拾って自分の寺に持ち帰って祀ったというように書かれていますが、実際はこの廃仏毀釈が決まった時(1868年)に、お互いの寺でやり取りして、こっそりと運ばれたようです。

記録によれば大御輪寺の最後の住職である廓通和上(米田甚逸家)の自宅に一時運ばれ、屋敷内の座敷に安置された後、この十一面観音像は聖林寺に運ばれたとされています。まあ米田家もこんな大きな仏像をそのまま安置できなくて、座敷で横にして寝仏として祀ったといわれています。

また右脇侍の木造地蔵菩薩立像(平安初期)法隆寺に安置されました。この2体とも現在国宝に指定されています。

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その他にも、三輪玄賓庵(げんぴあん)の不動明王坐像(平安中期・重文:十一面観音の左脇侍であったとも護摩堂に伝わったとも言われる)、天理市長岳寺の増長天像と多聞天像(共に平安末期・重文:護摩堂伝来)、奈良市正暦寺の菩薩立像2体(平安中期)などがこの大御輪寺の旧仏であったと言われています。

これらの仏像は大御輪寺に安置されていた時には長い間秘仏として人々の目に触れられることが少なかったようで、これが明治になって逆に人目に触れられるようになってその存在に驚きが広がったようです。また、桜井市の安倍文殊院の庫裏(くり)は、大御輪寺の客殿を移建したものです。聖林寺から桜井駅の途中にこの安倍文殊院はありますから、歩いて駅に行かれるときには立ち寄ってみてください。

 さて、1868年まで大御輪寺は大神神社(おおみわじんじゃ)若宮の別当寺として若宮大御輪寺と呼ばれていましたが、その後はどうなったのでしょうか?

寺にあった数多くの貴重な仏像は前述したように各所にこっそり移されましたが、若宮大御輪寺は完全になくなったわけではありません。実はこの寺は、大神神社の摂社「若宮社(わかみやしゃ)・大直禰子神社(おおたたねこじんじゃ)」と名前を変えて神社として生き残りました。

この神社の祭神は大神神社(おおみわじんじゃ)の祭主であった大神(おおみわ)氏の始祖、大田田根子(大直禰子:おおたたねこ)を祀っています。

ですからこの神社は大御輪寺が寺から神社に名前を変えただけというものです。神社の本殿も元の大御輪寺の本堂です。この本殿には大直禰子の木造神像が祀られているといわれていますが秘仏で拝観できません。しかしこの像も、聖林寺に安置されている十一面観音像などと共に大御輪寺本堂に安置されていたものといわれています。

でも、もともと大御輪寺の前身である「大神寺」(または三輪寺ともいう)は大神氏の邸宅が寺になったとも言われていますので、大直禰子神社の名前もあながちおかしくはないと言えます。

さて聖林寺の十一面観音像がこの大御輪寺の本尊としていつから祀られてきたのかについてですが、神宮寺として「大神寺」が創建された時からなのか、それとも別な寺から途中で移されてきたのかということなのかによって解釈が分かれています。当時こんな大きな仏像を安置する場所はこの寺にはなかったとか・・・・まあよくわからないってことですね。

さて、少し本題を外れますが、三輪山(みわやま)は日本神話などでいろいろな話が伝わっており、「三輪山伝説」として日本最古の伝説とまでいわれています。もっとも有名なものを紹介しましょう。

三輪山伝説=蛇神様伝説(古事記)について

活玉依姫(いくたまよりびめ)という美しい娘の元に、夜になると通ってくる男がおり、姫はまもなく身ごもりました。姫の親は子どもの父親について問い詰めましたが娘はそれを知らなかったのです。そのため、娘の姫に床に赤土をまき、麻糸を通した針を男の着物の裾に刺しておくように命じた。命令に従った娘が翌朝になってこの麻糸をたどると、麻糸は戸の鍵穴を通り抜け、三輪山の大物主神(おおものぬしのかみ)の社に留まっていたのです。

これで、このおなかの子は大物主神の子と知れたのです。この時、麻糸が3巻残っていたので、この地を三輪と名付けたといわれています。

ではいったい大物主神とは何者でしょうか? 一般には海から現れた「蛇神」とされ、水神や雷神と同一視され、五穀豊穣に必要な雨を降らせ、厄病除け、や酒造りにまでその神様の効力があるといわれています。日本神話では大国主(おおくにぬし)と外から船に乗って現れた小人の少彦名(すくなひこな)によって日本の国造りが行われますが、この少彦名がある程度役目を果たして常世の国へ飛んでいった後に、一人になった大国主のもとに大物主が現れて大和国の三輪山に自分を祭るよう希望したとされています。

しかし、別な説では一人になった大国主自身が自らの和魂(にきたま:神には二つの魂があり、活動的は荒魂<あらたま>と平和的な優しい和魂とがあるという)をこの三輪に祀って大物主神になったともいわれています。

この辺はいろいろな解釈がありますので好きな人は調べてみてください。

実は、この三輪山の伝説が「蛇伝説」または「龍伝説」として各地に広がっているのです。

例えば、奈良時代初期に書かれた「常陸国風土記」には「晡時臥(くれふし)山伝説」として形を変えて伝わっています。また「山城国風土記」の逸文にも「賀茂伝説」などがあります。興味がある人は調べてみてくださいね。

聖林寺の仏像の詳細

本堂に入ると、この寺の本尊である真っ白な大きな顔の「子安地蔵大石仏」が鎮座しています。そしてお目当ての国宝十一面観音はその先にある木の渡り廊下を渡った先にある観音堂に安置されています。この「観音堂(大悲殿)」は鉄筋コンクリート造りで、十一面観音は扉の奥にガラスケースに入れられています。

あまり訪れる方がおられないようで、私が訪問した時も他に誰もおらず、ご住職が扉を開けてくださいました。

ガラス越しではありますが、一人でこの仏像に対峙していると不思議に心が落ち着いてきます。「何十分もじっとすばらしい仏像と対峙ができる」こんな場所は他かにはあまりありませんね。

十一面観音立像【国宝】(奈良時代末期)〈像高 仏身209.1cm、台座77.8cm 木心乾漆〉

聖林寺の十一面観音のご紹介です。この十一面観音木心乾漆造という技法が使われています。木心乾漆法というのは、木彫りで像の概形を作り、その上に木屎漆(こくそうるし:麦漆に木粉等を混ぜたもの)を盛り上げて造像する方式です。

ヒノキ製の光背(260.6cm)もありましたが、取り外して現在は奈良国立博物館に寄託されています。しかし、破損が大きく、かなりの部分が無くなっていて博物館に現存しているのもごく一部だけだといいます。

それを復元しようという話が持ち上がり、西陣織で再現されたものが公開されましたが、これもまだごく一部の公開のようです。時によってはこの西陣織光背と一緒に仏像を拝観できることもあるのかもしれません。

十一面観音像ですから、当初は頭上には最上部に仏面1面とその下に菩薩面3、牙上出相3、忿怒相3、大笑面1の10面、全部で11面を表していたものですが、このうち菩薩面、牙上出相、大笑面各1面が無くなってしまっています。

この像は、明治11年に来日したアメリカの哲学者で美術研究家のアーネスト・フェノロサが明治20年にこの寺を訪れ、初めて秘仏のベールが開けられたのです。

そしてこの時、フェノロサはこの像に大層驚き門前から大和盆地を指して、「この界隈にどれ程の素封家(そほうか=大金持ち)がいるか知らないが、この仏さま一体にとうてい及ぶものでない」と述べたと伝えられています。

そして、この像を何かあった時にすぐに持ち出せるようにと、可動式の厨子(ずし)を寄進しました。この厨子は今に残る本堂脇の厨子で、一度も使われることがないまま1959年に鉄筋コンクリートの堂を造りそこに安置されました。厨子は堂に建て付けられているのではなく、床下に台車が仕込まれているといわれ、この石製の軌道を伝い、像背面の扉の向こうに避難させるように設計されていました。現在も扉の下から2本の石製軌道が突き出していますのでまだ動かせるのでしょうか?まあ鉄筋コンクリート製の建屋の中に安置されているので、今はもう使われることは無くなりましたので、可動式の厨子は封印されているのかもしれません。

この聖林寺十一面観音立像は、左手に水瓶(すいびょう)を持ち、右手は一般的な十一面観音の与願印(よがんいんではなく柔らかく指をまげています。この微妙に変化した手の表情は、柔らかくて優美で素敵ですね。

また均整がとれ、厚くどっしりとした体、美しくバランスとれたプロポーション、引き締まった表情もどこか穏やかで優雅です。

和辻哲郎が「古寺巡礼」の中で友人が三月堂不空羂索観音を、天平随一の名作と主張したことに対し次のように書いています。

「天平随一の名作を選ぶということであれば、わたくしはむしろ聖林寺の十一面観音を取るのである。」

天平期仏像の写実と理想化の結晶として詳細を書き記し、岩波文庫版では約10ページを割いて絶賛しているのです。木心乾漆造の代表的なものであり、いわゆる天平様式、八世紀の日本の彫刻を代表する名作といえるでしょう。ただ和辻哲郎さんがこの像を拝観したのは聖林寺ではなく、奈良博物館に展示されているのを拝観したようです。

今では古都歩きの古典的なバイブルとなったこの本も、若いときの和辻哲郎の思いが読む人に伝わってきます。

では続いて大御輪寺にこの十一面観音像と同じように明治初期の廃仏毀釈によって他の寺に移されて安置されている仏像がありますので、その諸仏を紹介します。

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聖林寺 本堂 本尊:子安延命地蔵菩薩坐像 (江戸時代中期)〈石造、彩色〉

聖林寺は江戸時代に性亮玄心(しょうりょうげんしん)が三輪山平等寺の遍照院を移して再興したとされており、その後江戸時代中期に寺の住職「文春諦玄」がこの寺の本尊として「大石仏造像」を造ることとすべての女性のお産が無事にいくことを願って、全国行脚の旅に出たとされています。そして4年7ヵ月の托鉢によって浄財を蓄え、この石像を但馬の国の石工・佐吉に依頼して造らせ、本堂に本尊として安置したといいます。

高さも丈六坐像(2.43m)でしょうか。かなり大きな石像です。奈良で一番大きな石の地蔵さんとも言われています。

この石像はそれ以降、安産と子授けのお地蔵さまとして人々に親しまれてきた。

聖林寺の子授けの祈祷は大要を真言密教の法則に拠っているが、この寺独自のものがあるといいます。それにしても白い細長な大きな顔がとても印象的な地蔵像ですね。

両脇には、かわいい白色の掌善童子、赤色の掌悪童子が配置されています。

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【番外編】大御輪寺の旧仏たち

これから紹介する仏像は聖林寺には安置されておりませんのでご注意ください!

三輪玄賓庵(げんぴあん)不動明王坐像【重文】(平安中期)〈像高 94.2cm ヒノキの一木造 彩色〉

聖林寺の十一面観音の左脇侍として大御輪寺本堂に祀られていた不動明王とされますが、護摩堂に伝わったものであるとも言われています。

玄賓庵(げんぴあん)は奈良県桜井市の三輪山麓に建つ真言宗の寺院で、平安時代初期に高僧で名医でも有った玄賓僧都が俗世界を嫌って、人里は慣れた里に構えた「」が始まりとされます。玄賓は弓削道鏡(ゆげのどうきょう)と同じ弓削(ゆげ)氏出身です。

また世阿弥の作と伝えられる謡曲「三輪」という話に登場します。この謡曲の概略の筋書きは、「三輪山の庵に住む玄賓の許へ、日々花とお供えの水を持って通ってくる里の女がいましたが、この女性が実は三輪明神が姿を変えて現れたものということを後で知る」というものです。

この玄賓庵は、もと三輪山の檜原谷(ひのはらたに)にあったのですが、明治の神仏分離で現在地(桜井市茅原)に移されました。

重要文化財に指定されているこの「不動明王坐像」は、現在この寺の本尊です。庵は山の辺の道沿いにありますが、三輪駅からも歩いて30分ほどかかります。仏像の拝観をする場合は、事前に連絡した方がよいでしょう。

この像は平安中期の藤原時代に作られたもので、一般の怒りの表情の不動明王像としては、どちらかといえばやや穏やかな表情のように感じます。口は確かに上の歯で下のくちびるを噛んでいて、体も力強さがあります。

でもこの像のヘアスタイル?は少し変わっていますね。帽子をすっぽりかぶったようで、頭を巻くバンド(金冠)があり、頭頂には大きな蓮の花が飾られています。全体に不動明王としては、明るい感じです。

玄賓庵ではこの不動明王が本尊で、その向って左には金剛界大日如来坐像が安置されています。こちらは鎌倉時代の作でヒノキの寄木造の像です。像高は不動明王座像とほぼ同じ90cmくらいです。

法隆寺・大宝蔵院 地蔵菩薩立像 【国宝】(平安初期)

〈像高172cm 榧(かや)の一木造〉

聖林寺の十一面観音の右脇侍として祀られていた「地蔵菩薩立像」です。

この像も十一面観音像と同じく一旦聖林寺に移されたのちに法隆寺に移されています。当初は法隆寺の金堂に安置されていましたが、大宝蔵院ができてからはそちらに移されました。

法隆寺の大宝蔵院は平成10年に完成した新しい建物で、国宝の百済観音や夢違観音、九面観音、橘夫人厨子及び阿弥陀三尊像、玉虫厨子など超一級品の国宝がそろっています。

2017年現在、国宝に指定されている唯一の地蔵菩薩像です。地蔵菩薩が作られ始めた平安時代初期の作と言われています。

この初期の頃の地蔵菩薩像は、左手に宝珠を持っており、右手は与願印で何も持っていません。後世の地蔵菩薩像では左手は同じですが、右手は錫杖を持っているのがおおいようです。こちらの地蔵菩薩は訪問すれば基本的にはいつでもお会いできる仏様です。

平等寺 十一面観音 【国宝】

三輪山平等寺は、その開基を聖徳太子と伝えますが、大御輪寺と同じく大神神社(おおみわじんじゃ)の神宮寺です。空海(弘法大師)が建立したともいわれるこの寺の「遍照院」は、聖林寺の本殿として移されています。このお寺も、大御輪寺と同様に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で大きなダメージを受けました。

多くの堂宇が壊され、仏像などもよそに運び出されました。寺の名前も変え何とか法灯を守り、地道な努力で復興して、昭和52年になって元の「平等寺」を名乗ることができたのです。

また守られた中に、本尊秘仏十一面観世音菩薩、三輪不動尊、慶円上人像、仏足石などがあります。

寺の説明によれば、この像はこの寺を創建した聖徳太子が平和を祈願して自ら作ったとされ、現在の像は、平安期に復元したものといわれているとされています。文化財の登録がされていませんので詳細は分かりません。

また、また、この像も大御輪寺で、現在聖林寺の十一面観音像のお前立ち像であったもので、共に、一旦聖林寺に移され、のちにこのお立ち前像が平等寺に移されたという話もあるのですが詳細は不明です。現在、この平等寺の十一面観音像は秘仏でこの本尊の厨子の前にやはり十一面観音像が置かれています。お前立の像というわけですが、これが聖林寺の十一面観音像とそっくりなのです。

この像は聖林寺の十一面観音像のX線データをもとにして檜の大木から削り出して制作されたものらしいです。そっくりなわけですね。ただ本尊はこの像の後ろの厨子の中です。

天理市長岳寺(ちょうがくじ) 増長天像と多聞天像 【重文】(平安中期 藤原時代)

〈増長天立像:彩色 玉眼 像高185cm〉〈多門天立像:彩色 玉眼 像高187cm〉

この多聞天と増長天立像は、平安時代中期の作で、明治初めの廃仏稀釈の時に大御輪寺から移された像で、護摩堂に伝わる像とされています。いずれも邪鬼を踏みつけています。 現在も色彩が良く残っています。

現在、長岳寺(ちょうがくじ)の本尊の阿弥陀三尊を守るように本堂に安置されています。大御輪寺には四天王として残りの二天王像も当初はあったのかもしれませんが、現在わかっているのはこの多聞天と増長天だけです。

長岳寺は山の辺の道のほぼ中間にある真言宗の寺で、824年に淳和天皇の勅願により空海(弘法大師)が大和神社の神宮寺として創建したといいます。平安時代末期の1151年に作られた阿弥陀如来両脇侍像(阿弥陀三尊像)【重文】
が安置されています。この阿弥陀三尊像は制作年代がわかっている仏像の中では日本で最初に玉眼を入れた像と言われています。

奈良市正暦寺(しょうりゃくじ)菩薩立像2体(平安中期)【県指定】

県指定の登録名称は「木造菩薩立像(大御輪寺伝来)」です。一般には「日光菩薩」「月光菩薩」と呼ばれています。像高はそれぞれ160cmほどです。

 

両像とも腕が無くなっていましたが、復元されました。この寺に移されたのは1867年だそうです。

長らく、文化財登録は無指定の仏像だったのですが、2013年に、新たに県指定文化財に指定されました。文化財指定を機に、腕が無くなっているなどの損傷を復元修理が行われました。これらの日光・月光菩薩像は、近年新造された中尊・薬師如来像の両脇侍として、安置されています。

 

正暦寺本堂に安置される薬師如来像(新造)日光月光菩薩像。大きな薬師如来像が新しく造られ、その裏に本尊の重文である薬師如来倚像が安置されています。

こちらが修理前の日光月光菩薩と本尊の薬師如来倚像です。この薬師如来像は白鳳時代の作で、台座に腰を掛けるという倚像の形をとり、像高が約30cmの小さな金銅仏です。足は踏み割り蓮華に乗せています。

本尊薬師如来倚像の一般公開は年3回です。

・春季特別公開 (毎年4月18日~5月8日迄)、瑠璃殿

・秋季特別公開 (毎年11月初旬~12月初旬迄)、本堂

・12月22日 瑠璃殿

このお寺は紅葉の名所でもあり、秋には観光客が多くなるため本尊は本堂での公開となるようです。ほかにも収蔵庫(瑠璃殿)には、多くの仏像が安置されているので、この公開時期に合わせて訪れのが良いでしょう。正暦寺(しょうりゃくじ)は奈良市東南の山間にある寺です。最寄り駅は桜井線の帯解(おびとけ)ですが、駅から歩いて1時間近くかかります。「柳茶屋」バス停(奈良駅から出ています)からでも30分くらい歩かなければなりません。

992年、一条天皇の勅命を受けて藤原兼家の子、兼俊僧正によって創建されました。創建当初は、かなり多くの塔や堂が立ち並ぶ大きな寺だったそうです。しかし、1180年の平重衡による南都焼き討ちにより全山全焼してしまいました。

その後、1218年に信円僧正が法相宗の学問所として再興してまた隆盛を極めましたが、江戸時代以降は衰退し、現在では、福寿院客殿と本堂・鐘楼を残すのみとなっています。

しかし、正暦寺は多くの自然に囲まれた山里にあり、昔からの紅葉の鮮やかさから『錦の里』と呼ばれ、紅葉の名所となっています。このため秋には多くの観光客が訪れるようになっています。

あとがき

聖林寺の国宝十一面観音像は、明治時代にアメリカの哲学者のアーネスト・フェノロサが訪れて、この十一面観音を絶賛したことからその存在が知られ、国宝にも指定されました。また大正時代に書かれた古寺ブームのさきがけとなった和辻哲郎んの「古寺巡礼」では、天平随一の傑作と絶賛されています。和辻哲郎さんが奈良を訪れたのは大正7年5月のことで、古都を訪れたのは、まだ29歳の青年の時でした。このため、青年であった和辻さんの書かれたその感想や思いなどは、今までにないみずみずしい響きを持って若者たちにも受け入れられていったはずです。書物の出版は大正時代というずっと昔のものですが、今でも十分に力強い思いを感じることができます。

また、昭和になってからでは昭和17年に発行された亀井勝一郎さんの「大和古寺風物誌」や、昭和57年に発行された白洲正子さんの「私の古寺巡礼」なども出版され、聖林寺の名前が綴られることになります。現在でも文庫本も出ていますのでどれか手にして古寺を訪れるときのお供に加えてみてもいいかもしれませんね。

聖林寺の十一面観音像法華寺の十一面観音像とは良く比較されて議論されています。和辻哲郎さんは聖林寺の方、亀井勝一郎さんは法華寺の方をべた褒めなんです。

この聖林寺の観音像と法華寺の観音像を比べてみることにそれほど意味があるかどうかはわかりませんが、天平時代の仏像を理解するうえでもぜひ一度は訪れてみてください。

春の桜の季節が特におすすめです。私が初めてこの寺を訪れた時は、4月の山桜がヒラヒラ舞い落ちる季節でした。あたりの畑(田んぼ?)にレンゲの花畑が広がり今でもその風景がよみがえってきます。和辻哲郎の「古寺巡礼」を読んで、あの十一面観音に会いたくて行ったのですが、お寺でも私一人でした。独りで何十分も観音様と対峙してお会いしているとどこかその優しさに涙が溢れそうになりました。

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関連書籍の紹介

私の古寺巡礼 (講談社文芸文庫) 白洲 正子

大和古寺風物誌 (新潮文庫) 亀井 勝一郎

聖林寺の拝観料金、時間、宗派、電話など

正式名称

霊園山聖林寺

宗派

真言宗室生寺派

住所

〒633-0042 奈良県桜井市下692

電話

0744-43-0005

拝観時間

9:00 ~ 16:30(年中無休)

拝観料金

通常拝観料:大人(中学生以上)400円・小学生200円・団体(30人以上)360円

11月の曼荼羅公開中のみ:大人(中学生以上)500円・小学生250円・団体(30人以上)450円

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地図