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【見仏入門】No.14 岩手県花巻・成島毘沙門堂の仏像/兜跋毘沙門天立像・伝吉祥天像など

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 成島毘沙門堂(なるしまびしゃもんどう)は岩手県花巻市にあります。平安時代の初めに坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)蝦夷(えぞ)を征伐し北上川(きたかみがわ)をさかのぼって、この辺りまでを制圧した場所です。このためこの周辺には独特の仏像文化が花開きました。

 

蝦夷というのはこの当時は、大和朝廷に従わない、このあたりに昔から住んでいた人々のいる土地を呼んでいました。その後徐々に北へ移り、北海道を蝦夷地と言っていた時代もありました。したがって、平安時代にはこの北上地方が蝦夷地との境となる地域になっていたのです。また平安時代中期には、その後、少し南の平泉を中心として、華麗な藤原文化が花開きました。そんなことを考えながらこの地方の仏像を訪れてみてください。きっと何か独特の文化を感じることができると思いますよ!

成島毘沙門堂へのアクセス

 

 東北新幹線「新花巻」駅、または「土沢駅」からタクシーなら15分ほどです。駅にはレンタサイクルもありますので自転車で行かれるのも良いかもしれません。

 

車なら釜石自動車道の東和ICから5分くらいでいけます。

成島毘沙門堂は、岩手県の渓流・猿ヶ石川(さるがいしがわ)に沿った高台にあります。

 

この川は岩手県を西から東に流れており、上流側(西)には宮沢賢治の記念館などがあり、下流側(東)は河童などの民話の里で知られる遠野市があります。

 

この毘沙門堂入口に立つと、向かって右に「毘沙門堂」左に「熊野神社」と書かれた2本の大きな石柱が立てられています。

 

そこから登る階段の途中にある鳥居の扁額のも毘沙門天・熊野神社と2つの名前が書かれています。階段を上った先にある境内に入ると大きな杉の木に抱えられるようにして右に成島毘沙門堂(寺)と左に三熊野神社(神)が並んで建っています。神仏習合(神道である神社と、仏教である寺が一緒になって祀られていること)の象徴ともいえる光景です。

 

また、階段の下の入口から歩いて5分ほどのところに「成島和紙工芸館」があります。

ここは、日本の和紙北限の地とも言われ、300年以上前から伝わる和紙の展示と和紙漉き体験などができます。

成島毘沙門堂の歴史

 

 平安時代の797年に大和朝廷(桓武天皇)坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命し、当時東北地方で勢力を持っていた蝦夷(えぞ)討伐を命じました。この戦いは数年間攻防が続き、802年にやっと蝦夷征伐(えぞせいばつ)に成功しました。

この時に得た大和朝廷の勢力範囲に802年胆沢城(いさわじょう:現在の岩手県奥州市)を築き、803年には現在の盛岡市に志波城(しわじょう)という北からの侵入を防ぐ城柵を作り、大和朝廷の勢力をここまで広げたのです。

 

この蝦夷征伐時に戦った北上川に沿った場所で、盛岡市の少し南にこの毘沙門堂があります。地元の言い伝えでは、坂上田村麻呂がこの地の征矢立(せいやたて)の森に登り戦勝を祈願し、戦争に勝利した後の802年に熊野三山の神(和歌山県熊野地方の熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)を祀り「三熊野神社」を建てたのが始まりだといわれています。そして古くからこの神社には別当として熊野山成島寺(じょうとうじ)という寺とこの成島毘沙門堂がありました。

 

 

成島毘沙門堂はいつ建てられたのかはわかっていません。言い伝えではこの三熊野神社の創建(802年)に坂上田村麻呂が建立した説や、山形の立石寺、松島の瑞巌寺(ずいがんじ)などを建立した慈覚大師(じかくだいし)とも呼ばれる天台宗の名僧円仁(えんにん)によって建立された説などがあります。しかし建築様式からは室町時代後期の建立と見られています。

 

 鎌倉時代から戦国時代にかけては和賀(わが)氏から、また江戸時代には南部藩から社領を寄進されて保護されてきました。

 

しかし江戸時代初期に成島寺で火災が発生し、寺の建物はこの毘沙門堂を除いて皆焼失してしまいました。また熊野神社も残り、古くからこの神社はこの毘沙門堂を守るため神様(鎮守の神)と見られてきました。

 

明治になり、政府が出した仏教排除・神道統一運動の「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」令により三熊野神社と成島毘沙門堂(成島寺は廃寺)は分離されて別々な管理体制となり現在に至っています。

また、神社の境内で毎年9月19日の例祭に奉納される相撲は幼児の「泣き相撲」として全国的に知られています。正式には十二番角力式(じゅうにばんすもうしき)と呼ばれるもので、南北二つの部落に分かれ、数え年2歳の幼児が力士になります。そして早く泣き出したほうが負けとなります。これも五穀豊穣を祈願した祭りですが幼児が強く健やかに育つような願いが込められているようです。

 

 

成島毘沙門堂の仏像の詳細

 

兜跋毘沙門天立像(とばつびしゃもんてん)【国重文|平安時代中期】

 

 

 この毘沙門天像は毘沙門堂の本尊で、国の重要文化財に指定されています。昔は毘沙門堂に安置されていましたが、現在はコンクリート造りの収納庫に移されています。

ケヤキ材の一木造で平安中期(10世紀末~11世紀初頭)の作とみられています。また像高が足下の像を含んで4.73mと丈六(1丈6尺)の高さであり、日本一の高さの毘沙門天といわれています。形相は厳しい、引き締まった顔をしており、大変強い武人を表しているようです。誰でも、この大きな像の前に立つと、その大きさや姿・表情などに圧倒されると思います。

 

 

兜跋毘沙門天は一般的な毘沙門天とは異なり、西域(さいいき:中国から見て西の地域)の兜跋国(とばつこく:現在の中国新疆ウイグル自治区トルファン付近と見られる)で城を守るために出現したといわれる像で、目を大きく見開き,左手に宝塔,右手に鉾(ほこ)をもって,西域風の鎧(よろい)を着け,足の下には座った地天女(ちてんにょ)がいて毘沙門天を下から支える姿となっているのが特徴です。

 

一般の毘沙門天は足元にいる邪鬼を踏みつけるように立っていますのですぐに違いがわかります。この成島兜跋毘沙門天は座った地天女が肩の辺りに差し出した手のひらの上に勇ましい姿で立っています。また両脇には少し離れて尼藍婆(にらんば:鎧をまとい手に剣を持った女神)と毘藍婆(びらんば:ハチを手に持ちすべてを破壊する大風を吹かせる女神)という2つの邪鬼の座像が置かれています。

 

毘沙門天はこちらで詳しく!

 

また成島毘沙門堂から奥の収納庫に向かう途中に「御味噌奉納堂」という小さなお堂があります。これは昔、人々が祈願で毘沙門天の脛(すね)に味噌を塗って願い事をしたことに由来しているそうです。

 

この兜跋毘沙門天の特徴のもう一つに、毘沙門天が身に着ける武具(ぶぐ:戦の防具)があります。金属の鎖を編んだ鎧(よろい)を着て、腕や脛(すね)には海老の甲羅(こうら)のような防具をつけています。

味噌のイラスト(赤味噌)

このため、毘沙門天の脛に味噌を塗るということはこの防具に何か意味があるのでしょうか? 昔は怪我をして傷を負うと味噌を傷口にすり込んだとも言われていますので、この防具と味噌とがどこかで強く、健康になる象徴として考えられたものかもしれません。

それにしても西域兜跋国に出現し、唐に伝わったとされるこの兜跋毘沙門天が、この東北の地にどのようにして伝わったのでしょうか?

 

一般に「日本三大兜跋毘沙門天」と呼ばれているのは、京都の東寺、九州太宰府の観世音寺とここ成島毘沙門堂の毘沙門天だといわれています。

東寺の毘沙門天について

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東寺の毘沙門天像は平安京の入り口にあったといわれる羅城門(羅生門)の楼上におかれていた像だと伝わっています。羅城門も平安京を守る門でした。また大宰府も南(朝鮮半島や中国など)からの侵略を防ぐ場所だったように思われます。

 

伝吉祥天像

 兜跋毘沙門天像に向かって左側の像です。像高約180センチの比較的大きなケヤキ材の一木造の立像で、平安時代前半の作と見られています。像は一部失われた部分もありはっきりしませんが、優しい顔をしており毘沙門天との対比から吉祥天像といわれていきましたが、服装は菩薩の特徴があり、頭上に牙を持った2つの象頭が乗った特異な姿の像です。2つの象頭でぴーんと来たかたもいるかもしれませんが、歓喜天という説もあります。

胸の前に出した二つの手も印象的であまり類を見ない姿です。ただ顔立ちや腰の辺りを少しひねった立ち姿もどこか女性的な不思議な雰囲気をもった像です。著者はこの仏像を見て日本各地にある仏像の素晴らしさに気付かされ、地方の仏像を訪ねるようになったきっかけとなった仏像です。

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成島毘沙門堂の伝・吉祥天についてはこちらの記事でもさらに紹介しています。

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伝阿弥陀如来像

伝阿弥陀如来像は兜跋毘沙門天像の右奥に安置された像で、像高は約160センチのケヤキ材の割矧(わりは)ぎ造の坐像です。

制作年代は像内部にかかれた銘文より室町時代後期の作と見られています。

またこの銘文には十一面観音像として作られたのではないかと考えられています。しかしこちらも頭部は大仏に見られるような螺髪(らほつ)の髪型であり、体には斜めに布をたらした条帛(じょうはつ)の姿をしているため、こちらも菩薩を思わせる像です。毘沙門像以外もこのようになぞに満ちた姿であり、この東北の地に伝わった仏像形式が特異な文化を持っているものとも考えられます。

【番外編】岩手県北上川流域に伝わる毘沙門天信仰

東北にこれだけ兜跋毘沙門天があるのは中国の唐から大宰府や平安京に伝わって、その後すぐに蝦夷征伐の最前地区である東北の北上地方に伝わっていったものと考えられます。北上川流域にはたくさんの兜跋毘沙門天が祀られていたようでこの北上地方に今も残る、毘沙門天像を見てみましょう。

岩手県奥州市江刺区の「藤里毘沙門堂」

 岩手県奥州市江刺区にある藤里毘沙門堂です。ここも地図には蔵王権現堂と表示されている場所で、山の丘陵にいくつかの建屋が建っており神仏が混合されているようです。ここの毘沙門天像は兜跋毘沙門天像で、鍵のかかった収納庫に安置されています。またこの像は国の重要文化財で、製作年代は成島と同じく平安時代中期とみられます。像高さは2.3m、トチの木の一木造で鉈彫(なたぼり)の形式です。毘沙門天は地天女の肩にあてがった手のひらの上に乗って立っている姿です。

この藤里毘沙門堂にはその他に邪鬼の上に立つ躍動感あふれる立派な毘沙門天像や素朴な吉祥天像なども安置されていますので対比するととてもおもしろいかと思います。ぜひ予約をして成島毘沙門堂や後に紹介する立花毘沙門堂と一緒にお参りすることをおすすめいたします。

 

岩手県北上市の「立花毘沙門堂」

 

こちらには国の重要文化財に指定された「木造毘沙門天立像」と「木造二天王立像(2体)」が安置されています。この木造毘沙門天像は慈覚大師の作と伝えられるもので10世紀の作といわれる鉈(なた)彫りの一木造です。一度国宝に指定されましたが、法改正により現在は重要文化財となっています。また兜跋ではなく、邪鬼を踏みつけるように立つ毘沙門天像です。また木造二天王立像についても両方とも邪鬼の上に乗って立っています。

857年に胆沢城(いさわじょう)の真北に極楽寺が大和朝廷の官寺に準ずる寺として建設されました。そしてその寺の周辺に東谷、西谷、北谷など36坊もの寺があり文化(国見山極楽寺文化)が花開いたといわれています。この毘沙門堂は北谷にあり平安時代の仏像を残す貴重な場所だといえます。

[aside type=”warning”]「藤里毘沙門堂」「立花毘沙門堂」ともに要予約拝観となります。ご注意ください。[/aside]

 

このように北上地方にこのような平安時代の毘沙門天像が多く残されており、この地方でしか見られない神将像であることなど特筆されるべきものです。またこの地の蝦夷を征伐したといっても多くの蝦夷の人々は大和民族の中に融合されていったものと思われます。毘沙門天は大和朝廷の坂上田村麻呂などの武人の象徴として、また下で支える地天女は蝦夷の人々をこの天女にあらわしているのかもしれません。

 

以上、成島毘沙門堂の歴史や仏像のご紹介でした。

成島毘沙門堂の毘沙門天像は、現在は収蔵庫に安置されていますが、かつては境内に祀られていました。けやきの一木造として日本一の高さ4.73mを誇る仏像です。歴史に興味のある方は、一度足を運ばれてみてはいかがでしょうか。

 

東北の仏像をもっとめぐりたい!

 

 

成島毘沙門堂の御朱印

 

 

毘沙門堂の拝観料金、時間、宗派、電話など

正式名称

三熊野神社 毘沙門堂(成島毘沙門堂)

宗派

真言宗(旧成島寺)

住所

〒028-0116 岩手県花巻市東和町北成島5-1

電話

0198-42-2083

拝観時間・料金

9:00~16:30(年中無休)

大人300円、高校生200円、小・中学生100円

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