【見仏入門】No.32 奈良・興福寺の仏像・見どころ/国宝館阿修羅像、中金堂、南円堂、北円堂、東金堂の仏像など


 興福寺(こうふくじ)は東大寺と並ぶ古都奈良を代表する寺院です。国宝などの文化財の数も多く仏像ファンにとっては見落とせないものばかり。あの阿修羅像もこの興福寺です!後ほど紹介する国宝館にいけば、いつでも会えるのです。

 

美少年の阿修羅像のみならず、筋肉ムキムキの男らしい金剛力士像、コミカルな表情を見せる天燈鬼・龍燈鬼もほほえましく阿修羅像を以外にも魅力的な仏像もたくさんあって目移りしてしまうこと間違いなし!

 

そんな特別な興福寺の紹介です!今回この記事も紹介すべきスポットがたくさんあるのでたっぷりのボリュームになっています。下にある目次なども利用しながら見ていきましょう。

さぁ、いにしえの奈良の町の代表的な寺院、興福寺の魅力をみていきましょう!

もくじ

興福寺の見どころ

興福寺は東大寺が時の天皇の官寺(国が運営するお寺)なのに対し、奈良・平安時代に権力の全盛を極めた藤原氏の氏寺(民間のお寺)でした。そのため興福寺から徳一法師などの多くの名僧が全国に旅たち、仏教を広げ、当時仏教界では比叡山延暦寺と並ぶ大きな力を持っていました。それゆえ現代においても奈良のまちにおける興福寺の存在感は特別です。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されています。

 

 

ただ興福寺は奈良の町の真ん中にあり、交通も便利でいつでもいけるのに、意外とその歴史なども知られていないようです。最近は奈良のまちのなかにはオシャレなお店や食べ物がおいしい店など立ち並んでいて、奈良の町も国内外問わずたくさんの観光客が訪問しています。興福寺の歴史や仏像について少しでも知っていると、ちょっと自慢できるかもしれませんね。

 

興福寺には北円堂(ほくえんどう)南円堂(なんえんどう)という2つの八角円堂がありこちらも見どころです。興福寺の中心伽藍のあった場所の西側になります。

北円堂は南円堂にくらべてひとまわり小さく、高さも低いですが鎌倉期に再興された時のお堂で、国宝に指定されています。一方南円堂はその後に再建され、現在の建物は江戸時代中期の1741に建てられたものです。こちらは国の重要文化財に指定されています。ともに落ち着きのある優美な建物で、きっとこの建物を見て法隆寺の夢殿を思い浮かべる方も多いことでしょう。

 北円堂、南円堂ともに通常内部は非公開で、北円堂は春秋の時期に、南円堂は年に1度、10月17日だけお堂が開放されて内部の仏像を拝観することができますので、この日を狙って興福寺に訪問することもおすすめ。

 

2018年にはかつての興福寺の中心的な建築であった中金堂が再建され落慶法要も行われました。かつての姿を徐々に取り戻しつつある興福寺を大事にしていきたいですね。

 

興福寺の歴史などを踏まえて仏像に対面すると、遠く飛鳥、奈良、平安の時代をきっとよみがえらせてくれると思います。

仏像も仏教建築も盛りだくさん!奈良に行ったなら奈良大仏とともにすぐ近くの興福寺に足を伸ばしていただければと思います。

興福寺へのアクセス

 興福寺は近鉄奈良駅から東に歩いて5分ほど。JR奈良駅からは少し離れるので循環バスを利用しましょう。奈良県庁の目の前です。興福寺の境内はかなり広かったのですが、東側の境内に奈良国立博物館が建てられましたので現在の敷地は少し小さくなっています。

また、「国宝館」「東金堂」「五重塔」「本坊」のあるエリアと真ん中に南大門跡や中門跡、仮講堂などがあり、その西側に「北円堂」「南円堂」「三重塔」のあるエリアに分けることができます。真ん中の南大門跡は猿沢の池の北側です。

寺の伽藍(がらん)配置は南の猿沢池の方から境内に入るのが正式なものです。こちらにはJR奈良駅から来るとこの南側から行くことになります。また奈良ホテルなどのホテルも多くが寺の南側の池のまわりに点在しています。

興福寺北円堂、南円堂には近鉄奈良駅からでもJR奈良駅からでも非常に近い場所にあります。歩いてもそれぞれ5分~10分ほどで行くことができます。猿沢池の北側にある大きな八角形のお堂が西国三十三観音の札所でもある南円堂で、北円堂はそのすぐ北にあります。興福寺の東金堂や五重塔の東側のエリアとは200mほど離れています。

興福寺の駐車場

興福寺の駐車場は国宝館のところに最大収容46台の駐車場があります。利用時間は9:00~17:00。駐車料金は1,000円です。

ただ、興福寺は奈良の中心部にあるということもあり、観光シーズンではすぐに埋まってしまうことも予想されますので、その際は周囲の駐車場を利用しましょう。観光シーズンの奈良中心部は本当に駐車場を確保するのが難しいです。少し離れた駅に駐車し、電車を利用して行くこともご検討ください。

興福寺の歴史

 

東大寺とともに奈良の都の中心にある「興福寺」は、法相宗の大本山です。この寺からは多くの名僧を世に送り出してきました。

またこの寺は春日大社が藤原氏の神をまつる神社であるのと同じように、奈良に移った都での藤原氏の氏寺でした。

 

669年に中臣(藤原)鎌足が重い病気を患った際に、夫人である鏡女王(かがみのおおきみ)が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置するために山階陶原(やましなすえはら)に「山階陶原家付属の持仏堂」(山階寺(やましなでら))を造営しました。現在の京都市山科区御陵大津畑町あたりになります。

 

 

鎌足はその年に亡くなりますが、亡くなる直前に天智天皇(前の中大兄皇子)より藤原姓をいただいて藤原鎌足となり、その後、藤原氏全盛時代が始まります。藤原氏全盛の祖となる藤原不比等(ふじわらのふひと)は鎌足と鏡王女の長男です。

 

当時天智天皇は667年に都を飛鳥(奈良)から近江大津宮(おうみおおつのみや)に移していたのですが、壬申の乱(672年)の後、飛鳥に都を戻しました。この時、山階寺も大和国高市郡厩坂(うまやさか)に移建され、その地名を取って厩坂寺(うまさかでら)とされました。

710年の平城遷都で、鎌足の息子藤原不比等(ふひと)が厩坂寺を平城京左京3条7坊に移して寺も興福寺と呼ばれるようになります。そして興福寺の広大な寺の敷地に次々と塔や建物が建てられていきました。

当時の全盛だった法相宗(ほっそうしゅう)の一大寺院として賢憬(けんけい)、修円(しゅえん)、徳一(とくいつ)など多くの僧侶を育てています。

 

 

都が794年に京都(平安京)に移ってから(平安時代)も、藤原家は広大な荘園を持っていましたので、興福寺の僧侶の集団は「南都の僧兵(そうへい)」と呼ばれ、壮大な勢力を持つまでになります。

 

当時奈良は京都に対して南にあるので「南都」と呼ばれていたのです。平安時代末期にもなると興福寺の僧兵は、「南都北嶺(なんとほくれい:南都は奈良の興福寺、北嶺は比叡山延暦寺です)」と称されるほどに拡大し、日本の政治にも深く影響を及ぼすまでになりました。

 

 

特に力を持っていた興福寺の僧は奈良法師、比叡山延暦寺の僧は山法師、園城寺の僧を寺法師などと呼ばれていました。

 

この力は武士の時代となった鎌倉・室町でも続いていました。鎌倉幕府も興福寺が事実上支配している大和国には手を出せないほど、興福寺の僧兵の軍事力を持っていたのです。

 

そして戦国時代末に織田信長の「比叡山焼き討ち」や豊臣秀吉による「刀狩」などでこれらの僧兵の力が無くなっていったのです。現在の仏像がこの寺に移った理由などを見ていくとこれらの時代背景も忘れてはいけない歴史だと思われます。

 

さて、奈良時代から平安時代にかけて、ここで学んだ僧侶によって地方にも山岳信仰に伴って、法相宗の寺がたくさん建てられました。しかしこれらの寺院の多くが途中で天台宗や真言宗などの寺院に変わっていきます。また法相宗としては奈良や京都には興福寺の他に薬師寺、法隆寺、清水寺などがありました。しかし、法隆寺や清水寺が北法相宗となり分かれたため、現在では興福寺と薬師寺の2つの寺院が法相宗の大本山となっています。

 

その後、明治時代にまきおこった廃仏毀釈運動でも大変な被害を受け、廃寺同然になってしまったといいます。廃仏毀釈運動がおさまったあと、徐々に再興に向け活動が行われ、修理・整備がされていきます。そして1998年には世界遺産に登録され現在の姿を残しているのです。

興福寺の伽藍

国宝館

 この場所には興福寺の食堂(じきどう:僧侶が食事をするところ)がありましたが、昭和34年(1959)に耐火コンクリート造りの宝物収納庫を建て、「国宝館」としました。建設に当たっては奈良時代当時の食堂の外観を復元するため、屋根は本瓦葺き(ほんがわらぶき)としました。また、地下には、旧食堂の奈良時代以降の遺構がそのままの形で保存されています。

東金堂(とうこんどう)(国宝)

 中金堂(ちゅうこんどう)の東にある金堂で、726年に聖武天皇が叔母元正(げんしょう)太上天皇の病気全快を願って造立したものです。建物は西向きに建てられています。創建当初には床に緑色のタイルを敷き、薬師如来(やくしにょらい)の浄瑠璃光(じょうるりこう)世界をこの世にあらわしたものだったといわれています。それから数度の被災、再建を繰り返し、今の建物は1415年に再建されたものです。寄棟造り、本瓦葺きの建物で奈良時代の雰囲気を伝えています。

北円堂(ほくえんどう)(国宝)

 日本に現存する八角円堂のうち、最も美しいと賞賛されるこの堂は、興福寺創建者藤原不比等(ふひと)の一周忌にあたる721年に、元明(げんめい)太上天皇と元正(げんしょう)天皇が建立しました。

 興福寺境内の中では西隅に位置しますが、ここは平城京を一望の下に見渡すことのできる一等地で、平城京造営の推進者であった不比等(ふひと)の霊をなぐさめる最良の場所だったのです。

本尊は弥勒(みろく)像で、ほかに、両脇侍像(2)、羅漢像(2)、四天王像(4)のあわせて9躰が安置されていました。しかし、創建時の堂と像は11世紀なかばに焼失し、中尊の弥勒像の頭部のみが残されました。お堂と像は、まもなく再興され、頭部のみとなった中尊の頭部は新造仏の像内に収められたと記録されています。

しかし、この再建された北円堂と仏像も、1180年に平氏が放った火によって興福寺の他の建物と共に焼け落ちてしまいました。まもなく復興が取り組まれたのですが、北円堂の再建は他の堂よりも少し遅く1210年ごろに再建が完了しています。

北円堂の仏像は仏師運慶一門により1208年から作られ始めています。この時運慶一門が手がけた北円堂内安置仏は創建当初とまったく同じ組み合わせで、弥勒三尊像、二羅漢(らかん)像(無著、世親像)、四天王像の9躰でした。各像ともに運慶が指揮をとり、運慶の子どもたちや一門の実力派の仏師たちが制作を担当しました。中尊の弥勒像は、源慶静慶(もしくは浄慶)が担当し、北円堂の造仏にあたり、運慶の6人の子供たちも四天王像、無著(むちゃく)、世親(せしん)の各像を1躰ずつ引き受け、脇侍の菩薩像は一門の運覚と、もう一人が担当したようです。現在の北円堂はこの鎌倉再建時のものです。

しかしながら、中に安置されている仏像のうち、両脇侍像と四天王像が入れ替わり、運慶一門の作は中尊の弥勒仏と羅漢像の無著、世親像だけと考えられています。現在の両脇侍像は室町時代ごろの作で、中尊に比べてやはり力量が劣るようです。四天王像も寄木ではなく平安時代前期の一木造の像にかわっています。現在南円堂に安置されている四天王像がこちらの北円堂に安置されていた像であるという見方も出ています。

南円堂(なんえんどう)(国重要文化財)

ここは西国三十三観音霊場の第九番札所です。

813年に藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父内麻呂(うちまろ)の冥福を願って建立したお堂で北円堂と同じ八角円堂です。基壇(きだん)を築造する際の地鎮祭で、和同開珎(わどうかいちん)や隆平永宝(りゅうへいえいほう)などの硬貨がまかれたということが発掘調査でわかりました。この儀式には弘法大師(空海)が深く係わったことが伝えられています。

不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)菩薩像を本尊とし法相六祖像(ほっそうろくそぞう:法相宗の高僧6人の像)、四天王像が安置されました。

南円堂を建立した藤原冬嗣(ふゆつぐ)は藤原氏の摂関家北家の祖と言われています。この北家はかなり力を持っていましたのでこの南円堂は、興福寺の中でも特殊な位置を占めていました。さらに不空羂索観音菩薩像が身にまとう鹿の皮は、藤原氏の氏神春日社(鹿島神宮の神:タケミカヅチ)との関係で特に藤原氏の信仰を集めました。

現在の建物は、創建以来4度目の建物で、江戸時代中期の1741に建てられたものです。

江戸時代とはいえその姿は強く北円堂を意識したものと言えるでしょう。

 

五重塔(国宝)

 730年に藤原不比等(ふひと)の娘光明(こうみょう)皇后が建立しました。初層の東に薬師浄土変(やくしじょうどへん:浄土変は浄土における仏や荘厳のさまを描いた図絵のこと)、南に釈迦浄土変(しゃかじょうどへん)、西に阿弥陀浄土変(あみだじょうどへん)、北に弥勒浄土変(みろくじょうどへん)を安置し、また各層に水晶の小塔と垢浄光陀羅尼経(くじょうこうだらにきょう)を安置していたと伝えられています。

その後5回の再建をへて、現在の塔は1426年頃に再建されたものです。高さは50.1mあります。初層の四方には、創建当初の伝統を受け継いで、薬師三尊像釈迦三尊像阿弥陀三尊像弥勒三尊像を安置しています。

また、こちらの興福寺東側のエリアには興福寺の寺務所となる「本坊」や、寺の風呂場である「大湯屋(おおゆや)」(重要文化財)があります。大湯屋には2つの鉄釜があり、南の湯釜は鎌倉時代、北の湯釜は平安時代のものと見られています。

大湯屋のすぐ南に「菩提院大御堂(ぼだいいんおおみどう)」というお堂があります。ここは法相宗を中国(唐)から伝えた玄昉(げんぼう)僧正が住んでいたと伝えられていますが、現在の建物は1580年に建てられたものです。

興福寺の仏像の詳細

興福寺は安置されている国宝の数だけでもかなりの数に上ります。

その多くは国宝館(30組以上の国宝仏があります)に保存展示されていますが、それぞれの各お堂にもたくさんの国宝が安置されています。ここではエリアごとに仏像を見ていきましょう。

興福寺国宝館の仏像

興福寺国宝館/銅造仏頭(飛鳥山田寺) 【国宝】  <白鳳時代(685年)>

鍍金(ときん)総高 98.3cm

685年に、大化の改新後に飛鳥山田寺で自害したといわれる蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)のために天皇(天武天皇?)が造ったといわれる飛鳥山田寺講堂の本尊像の頭部(本体は火災で焼失)です。この像は興福寺の鎌倉再興期の1187年に東金堂本尊の薬師如来像として迎えられましたが、1411年の火災で堂とともに被災し、この頭部のみが残ったものです。

 

そして残った頭部は1415年に再興された現在の東金堂本尊台座に納められていました。しかしこれに長い間気が付かずにいて、発見されたのは昭和になってからの1937年でした。

書物により造立年代(685年)が明らかであるため、白鳳彫刻の基準作として高く評価されています。

蝋(ろう)型原型から銅を鋳造(ちゅうぞう)したもので、表面には鍍金(ときん)が施されています。伸び伸びと弧を描きながら大きく流れる眉、額から直線的に伸びる鼻、ふっくらとした頬に唇、どこかたくまさを感じさせる面持など、若々しくもあり、すがすがしさを感じさせてくれますね!

白鳳期の仏像が目白押し!
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興福寺国宝館/八部衆立像(はちぶしゅうりゅうぞう)【国宝】乾漆・彩色<奈良時代(734年)>

この八部衆像は、734年に創建された西金堂本尊の釈迦如来像の周囲に安置されていた像です。 中は空洞で漆を塗り固めて乾かした乾漆(かんしつ)造の像です。八部衆はインドで古くから信じられてきた異教の八つの神を集めて、仏教を保護し、仏に捧げ物をする役目を与えるもので、異教の神の姿のまま表現されることが多くいろいろな姿をしています。

 

興福寺の八部衆は興福寺の場合は「五部浄(ごぶじょう)、沙羯羅(さから)、鳩槃荼(くばんだ)、乾闥婆(けんだつば)、阿修羅(あしゅら)、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、畢婆迦羅(ひばから)」の8つです。この中で阿修羅像はとくに有名です。

阿修羅像(あしゅらぞう) 像高 153.4cm

出ました阿修羅さま!日本一美しいともいわれる仏像です。

2009年に東京国立博物館で開催された「国宝 阿修羅展」は数十万人の来場者でいつも満員状態でした。また東京博物館で行われた「興福寺
国宝 阿修羅像」という映像作品でも、「阿修羅像の表情は、謎めいた憂いと力強さが表現され、不思議な魅力で観る人を惹きつけています。

 

この表情はどのようにして生まれたのでしょうか。バーチャルリアリティだからできる、実際には近づくことのできない視点や距離から阿修羅像と向き合い、その謎を解き明かしていきます。阿修羅像に込められた想いと仏像制作の技法が生み出した稀有な表情を映します」と大スクリーンでの鑑賞にも新たな阿修羅像の魅力が表現されました。

 

この像の作者は百済人であったともいわれている仏師の将軍万福(しょうぐんまんぷく)と言われています。像は三面六臂(さんめんろっぴ)、上半身裸で条帛(じょうはく)と天衣(てんね)をかけ、胸飾りと臂釧(ひせん)や腕釧(わんせん)をつけ、裳(も)をまとい、板金剛(いたこんごう)をはいています。腕は6本(3組)ですが、第一手胸前で合掌し、他の手には現在何も持っていません。しかし製作当時は、第二手の左手に日輪、右手に月輪を持ち、第三手の左手に弓、右手に矢を掲げていたそうです。

この阿修羅像にはなんとモデルがいたといわれています。それは光明皇后(こうみょうこうごう)の娘の阿倍内親王です。阿倍内親王は、後に第46代孝謙天皇(こうけんてんのう)、第48代(重祚:ちょうそ 再び天皇になること)称徳天皇(しょうとくてんのう)となります。阿修羅像は光明天皇が母の県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)の一周忌に興福寺西金堂(現在は無い)を建立して、この阿修羅像を八部衆の中の1体として安置したといわれています。

阿修羅像は三方にそれぞれ少し違った表情の顔を持ち、またこの顔に当たる光の微妙な変化でまったく違った表情にも見えます。子供のようでもあり、清楚で優しいといった見方が多いのですが、引き締まった表情が、徐々に神秘的な表情に変わっていくのです。こんな魅力が多くに人に感動を与え続けているのでしょう。

 

阿修羅(あしゅら)は梵語(ぼんご:古代インド語)のアスラ(Asura)からきており、「生命を与える者」という意味であるとされています。また同時に「非(a)天(sura)」という意味も持っています。

 

ペルシャなどでは大地にめぐみを与える太陽神として信仰されており、インドでは大地を干上がらせる太陽神として、常にインドラ(帝釈天)と戦う悪の戦闘神になります。仏教に取り入れられてからは、釈迦を守護する神と説かれるようになりました。

さて、このアシュラとインドラの2つの神については物語があります。それは、

「アシュラにはシャーチーという美しい娘がいました。この娘を見たインドラはこの娘が好きになってしまい自分の宮殿に娘を連れてきてしまったのです。このインドラは力の神でたいそう強く、アシュラは娘を奪い返そうとインドラに戦いを挑みますが勝てません。しかしアシュラはあきらめずに何度も何度も繰り返し戦いを挑み続けるのです。面倒になったインドラはアシュラを天界から追放してしまいます。日本でも争いが絶えない状況のことを「修羅場(しゅらば)」修羅場といいますよね。

 

アシュラは「太陽神」とか「火の神」などと呼ばれていて、正義の神と解釈されます。一方インドラは力の神で日本では「帝釈天」となっています。このあたりの話は阿修羅像の仏さま紹介ページで詳しく書いていますので、こちらもあわせてみてみてくださいね。

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興福寺国宝館/金剛力士立像【国宝】(鎌倉時代 )

桧(ヒノキ)材の寄木造 彩色 玉眼 像高 阿形像 154.0cm 吽形像 153.7cm

 

 金剛力士は仁王ともいわれ、南大門などの寺の入口の門の左右に安置されますが、これは鎌倉時代再興期の西金堂(現存していません)須弥壇上に安置されていました。

 

鎌倉彫刻の特徴を遺憾なく発揮する像として知られます。像からは1288年に大仏師善増と絵所大仏師観実によって修復されたことがわかっています。

 

大きさはほぼ等身大で、仁王門などに置かれる像よりは小さめですが、細かでリアルな筋肉表現やバランスのよさなどは目を見張るものがあります。ぜひ近くで筋肉表現をじっくり見てみてください!

 

 

また、像の形から向かって右に阿形(あぎょう)を、左に吽形(うんぎょう)が安置されていたことが分かります。

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興福寺国宝館/天燈鬼(てんとうき)・龍燈鬼(りゅうとうき)立像【国宝】

桧(ヒノキ)材の寄木造 彩色 玉眼 鎌倉時代(1215年)の作 像高は 天燈鬼像78.2cm、 龍燈鬼像77.8cm

 これらの像は金剛力士像とともに、鎌倉時代再興期の西金堂須弥壇に安置されていた像です。四天王像に踏みつけられる邪鬼(じゃき)を独立させ、西金堂の仏前を照らすものとして作られた像です。鎌倉時代を代表する仏師である運慶の三男、康弁(こうべん)の作と言われています。

愛嬌あふれる表情からは、康弁の遊び心と高い表現力が見て取れます。普段は踏みつけられてる邪鬼が解放されて生き生きしています!

天燈鬼(てんとうき)像:2本の角と3つの目を持ち、口を大きく開き、やや横目で前方をにらみ、左肩に乗せた燈籠(とうろう)を左手で支えます。

龍燈鬼(りゅうとうき)像:腹前にて左手で右手の手首を握り、右手は上半身に巻きついた龍の尻尾をつかみ、頭上に乗せた燈籠を上目づかいににらみます。

愛嬌あふれる二体の鬼は悪事を働いていたのですが、心を入れ替え仏に仕える姿を現したといわれています。2つの像を比べると、阿と吽、赤と青、動と静とが対比的に表現されています。

 

天部の仏像のすべてがここに!

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興福寺国宝館/銀造仏手(ぎんぞうぶつしゅ) 重要文化財 銀造 奈良時代

ひじから手首まで42.2cm

今残されている奈良時代の銀仏は、東大寺法華堂本尊の宝冠化仏(ほうかんけぶつ)と、この仏手(ぶっしゅ)だけです。臂(ひじ)の大きさから像高が2m程はあったと考えられています。「興福寺流記(るき)」に書かれている東金堂に安置されていた「銀造弥勒仏」に相当するものと思われます。

製造方法は蝋(ろう)型または土型に銀を鋳造したもので、銅造仏頭とともに1937年に東金堂本尊台座の中から発見されたものです。

興福寺国宝館/木造千手観音菩薩立像【国宝】〈鎌倉時代(1229年頃) 〉

桧(ヒノキ)材の寄木造 漆箔 玉眼 像高 520.5cm

 高さ5mにもおよぶ鎌倉時代再興期の食堂(じきどう)の本尊です。食堂は現在の国宝館の位置にあり、国宝館はこの食堂を再現する姿に作られたものです。国宝館の中央にあって、最も大きな存在感を示しています。丈六(じょうろく)の巨像ですが、バランスよくまとめあげ、安定した像容をみせています。

頭上に1箇の仏面と、その上に10個の仏面の十一面観音像です。手は、合掌手と宝鉢手以外の脇手38手は、左右各前列に6本、中列7本、後列6本を3段に取りつけています。

1217年から1229年までの年紀を記録等が像内に残されており、鎌倉時代再興期の寛喜(かんぎ:1229~1231年)頃に完成したものと考えられています。

仏師は当初奈良の仏師成朝(せいちょう)が行っていましたが、途中で変更になり、別系の仏師によって完成されたといわれています。

千手の意味は、それぞれの手に目を持っていて、あらゆる方法で人々を救う観音菩薩の慈悲を象徴しています。実際の千手観音菩薩像は42手が多いのですが、これは中央の合掌した2手を除く40手の各手が、仏教で言う25有世界の生き物を救うとされるので、40×25=1000と考えるのです。詳しくは千手観音のエントリーもチェックしてみてください!

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板彫十二神将立像(いたぼりじゅうにしんしょうりゅうぞう)国宝

桧(ヒノキ)材の一材製 板彫り 彩色 平安時代

像高 縦100.3~88.9cm 横42.7~33.6cm 厚3.3~2.2cm

厚さ3cmほどの1枚の桧板(ひのきいた)に浮き彫りしたものです。(ただし因達羅(いんだら)大将像のみ2枚)。

これらの像は東金堂本尊薬師如来像の台座周囲に貼りつけられていたと考えられています。

正面を向く像1体、右を向く像5体、左を向く像6体で、彩色ははがれて素地があらわれていますが、12面がほぼ完全な姿で残っています。迷企羅(めきら)大将が短い衣をつけて裸足で立つ以外は、いずれも武装します。頭部は炎髪、巻髪、また兜をかぶったり、天冠をつけたりします。武器をとり、身構え、全身で生き生きとした動きのあるものなどがあります。

絵画と彫刻の要素、面白味、そしてそれ自体がかもし出す一種独特のユーモア感など、類例の少ない日本の板彫り彫刻の中で、きわめて珍しい像です。

各像が頭上につける干支(えと)の動物は次の通りです。

1(子)毘羯羅(びから)大将像    2(丑)招杜羅(しょうとら)大将像

3(寅)真達羅(しんだら)大将像  4(卯)摩虎羅(まこら)大将像

5(辰)波夷羅(はいら)大将像   6(巳)因達羅(いんだら)大将像

7(午)珊底羅(さんていら)大将像  8(未)あに羅(あにら)大将像

9(申)安底羅(あんていら)大将像  10(酉)迷企羅(めきら)大将像

11(戌)伐折羅(ばさら)大将像  12(亥)宮毘羅(くびら)大将像

 

東金堂の仏像

興福寺東金堂/木造維摩居士坐像(もくぞうゆいまこじざぞう)【国宝】〈鎌倉時代(1196年) 〉

桧(ヒノキ)材の寄木造 彩色 玉眼 像高 88.1cm

 

維摩居士(ゆいまこじ)は古くから仏教徒の模範とされてきた人物で、小説を始めいろいろな書物に登場します。有名な「維摩詰所説経(ゆいまきつしょせつきょう)」は仏教徒に理解を深めることを述べた経典として、今日でも広く読まれます。

 

次に紹介する若く溌剌(はつらつ)とした表現の文殊菩薩(もんじゅぼさつ)像に対して、維摩居士像は老人の顔で厳しいそうな様相の姿を表現しています。これは衆生の苦悩を背負う余り病に伏したという経文の一節があり、老人で病弱な姿を深い皺や浮き出る血管などで写実的に表現したものです。

この像は維摩会(ゆいまえ:興福寺の代表的な法会で、「維摩経」を講読して供養する法会のこと。興福寺では陰暦10月10日から16日までの7日間行われる)の本尊として造像したものです。1196年に仏師定慶(じょうけい)が53日で彫り、法橋幸円が50日で彩色を施して造られました。1460年に補彩されています。

興福寺東金堂/木造文殊菩薩坐像(もくぞうもんじゅぼさつざぞう)【国宝】〈鎌倉時代〉

桧(ニノキ)材の寄木造 彩色 玉眼 像高 94.0cm

この像は本尊に向かって右脇に安置されています。

文殊菩薩は学問・智慧の神様ですから古くから学問僧の祈願仏として信仰されてきました。製作されたのは維摩居士(ゆいまこじ)像と同じく頃にやはり仏師定慶(じょうけい)によると見られています。維摩居士へ釈迦の代理で見舞った文殊菩薩だけが、対等に彼と話しをすることができたというエピソードをあらわしています。詳しくはこちらの記事をチェックしてください。

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興福寺東金堂/木造四天王立像(もくぞうしてんのうりゅうぞう)国宝 (平安時代)

桧(ヒノキ)材の一木造 彩色 瞳は黒漆 像高  持国天像162.5cm 増長天像161.0cm 広目天像164.0cm 多聞天像153.0cm

東金堂須弥壇(しゅみだん)の四方に安置されています。持国天像と増長天像は正面を向き、広目天像と多聞天像は互に内側を向きます。

像や邪鬼(じゃき)の頭髪、体の一部に漆を盛り上げて肉づけし、瞳には黒漆を用いています。頭上から足下の邪鬼、台座まで1木の桧材で彫りおこされていて、どっしりとした重量感あふれる像です。

このような四天王像は興福寺では東金堂の他に、南円堂、仮講堂、北円堂などにも安置されており、製法などの違いもありますので、これらを比較して見られるのも参考になると思います。

ポケットに入る仏像の本

北円堂の仏像

この北円堂には国宝の仏像が3組7体安置されています。

興福寺北円堂/無着(むちゃく)・世親(せしん)菩薩立像【国宝】(鎌倉時代)

桂(かつら)材の寄木造 彩色 玉眼 像高 無著像194.7cm 世親像191.6cm

等身大より少し大きな像です。これらの像は本尊弥勒如来(みろくにょらい)像の両脇に安置されています。

無著世親は4世紀頃に北インドで活躍し、法相(ほっそう)の教学を確立したインドの兄弟僧です。無著(長男)と世親(次男)の兄弟にはもう一人弟(三男)がいました。三人ともに大乗仏教を極めた僧といわれています。この中で上の兄弟二人の彫刻です。

これらの像は法相宗の祖として崇拝されていたこの2人の高僧を表したもので、北円堂が鎌倉時代に復興されたとき(1212年ころ)に鎌倉を代表する仏師運慶の指導のもとに無著像は運助(運慶の6男)、世親像は運賀(運慶の5男)が担当したことがわかっています。

鎌倉時代初期の写実的な肖像彫刻として屈指の名作といわれるものです。

 

両像ともに2段に組んだ洲浜座(すはまざ:海岸の波土際を思わせるような台座板の組み方)に、本尊側の足をわずかに踏み出して立っています。無著像(向かって右)は老人の顔で手に箱を持ち右下を見ており、世親像(向かって左)は壮年の顔で左を向き、遠くを見ています(持ち物は失われてありません)。写実性と、たくましい量感あふれる表現力は、日本肖像彫刻の最高傑作とも言われています。

興福寺北円堂/四天王立像【国宝】 (平安時代)

木心乾漆造 漆箔 彩色 像高  持国天像136.6cm 増長天像136.6cm 広目天像139.7cm 多聞天像134.7cm

北円堂八角須弥壇(しゅみだん:仏像等を安置している一段高くなった壇)の四隅に安置されています。桧(ヒノキ)材を荒彫りし、麻布を漆(うるし)で1層または2層貼りつけ、木粉を混ぜた漆を盛り彩色を施した木心乾漆(もくしんかんしつ)造という技法が使われています。北円堂壇上で弥勒三尊像、無著・世親像を囲んで4隅に立つこの四天王像は、鎌倉時代に運慶たちによって造られた他の像よりもずっと古いものです。

またこれらの像は記録によると大安寺(だいあんじ)四天王像でした。大安寺は聖徳太子が開基と伝えられている奈良の古い寺院で、南都七大寺の1つであり、奈良時代から平安時代前半は東大寺、興福寺と並ぶ大寺でした。この像がいつどのようにして興福寺に来たかは不明ですが、像は791年4月に造立され、興福寺僧経玄得業によって1285年に修理されたことが墨書で確認されています。造立年代がはっきりしていることから、平安時代初期の木心乾漆(もくしんかんしつ)像の基準作品として注目されています。

 

大きな身振りや、下半身に重点が置かれていて手の動きも独特で少しユーモラスな感じを受けます。北円堂には、もと鎌倉復興期の運慶派が造った四天王像があったはずですが、いつ頃かはわかりませんが現在の像に入れ替わってしまったようです。現在中金堂内に安置されている四天王像が北円堂にあった本来の四天王像ではないかという意見も研究者たちの間で考えられています。

興福寺北円堂/弥勒如来坐像(みろくにょらいざぞう)【国宝】(鎌倉時代)

桧(ヒノキ)材の寄木造 彩色 彫眼  像高141.9cm

 北円堂の本尊像で、弥勒菩薩(みろくぼさつ)が56億7千万年後に成仏(じょうぶつ)した姿を現しています。

 像内には1212年の年号が書かれた願文などが納入されており、また台座内枠には源慶、静慶、運賀、運助、運覚、湛慶、康弁、慶運、康勝ら慶派仏師の名が墨書されています。この像は源慶と静慶(もしくは浄慶)が担当したものと言われていますが、運慶が総指揮をとっていました。このため運慶晩年の名作として知られています。

 脇侍(わきじ)に法苑林(ほうおんりん)菩薩像と大妙相(だいみょうそう)菩薩像(室町時代 桧材 寄木造 漆箔 玉眼)を従えていますが、鎌倉時代の復興時のものではありません。

この本尊像は菩薩形でなく、はるか未来に成道した弥勒如来の姿を表現しています。

堂々とした頭部、目やほお、口もとなどの輪郭がしっかりと彫られていて力強い仏像です。

この北円堂の諸仏をつくり上げた時には、運慶は50代半ばから60歳くらいでした。

やはり若いときの運慶の像と比べると全体に力強さが薄れていますが、像全体はゆったりとした落ち着いた雰囲気となっています。人間も円熟味が増してくると丸みを帯びて、仏の悟りの世界に近づいてくるのかもしれません。

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南円堂の仏像

南円堂には2組5体の国宝仏が安置されています。

 

興福寺南円堂/不空羂索観音菩薩坐像(ふくうけんさくかんのんぼさつざぞう)【国宝】(鎌倉時代)

桧(ヒノキ)材 寄木造 漆箔 彫眼で瞳は玉眼  像高336.0cm

不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)は変化観音(へんげかんのん)の一つで、手に羂索(けんさく:狩猟用の投げ縄)を持ち、救済を願うすべての人をもれなく救う(願いを空しくさせない)といわれる観音様です。

 南円堂の本尊像で、髪を高く結い、宝冠に阿弥陀如来(あみだにょらい)の化仏(けぶつ)をつけます。眉間に1目をつけ合計3つの目を持っています。上半身に鹿皮(鹿は藤原氏のシンボルです)を斜にまとっています。第一手は胸前で合掌し、第2手左手に蓮華(れんげ)、右手に錫杖(しゃくじょう)を持ち、第3手は両手とも脇下に垂らし掌を前に向け、第4手は左手に羂索(けんさく)、右手に払子(ほっす:長い馬の尾毛などの動物の毛や麻を束ねて柄をつけた仏具)を持ちます。

 

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1189年に約15ヶ月を費やして、仏師康慶とその弟子達が造ったもので、顔の目鼻立ちなどもしっかりと力強く、全体に迫力感があふれています。また正面から見て頭と膝を結んだ三角形の中に手もきれいにおさまっています。また光り輝く背後の光背もこの三角形に配した像全体をうまく包み込んで全体としてバランスがすばらしいと感じます。また台座なども含めて随所に消失した昔の像の姿を再現していて、天平時代や平安時代初期彫刻の伝統を伝えているのも特徴です。

鎌倉再建後に、この南円堂は2度火災にあっています。しかしこの本尊像は無事でした。

話によると、これほど大きな像ですから火災の時は、この仏像を分解して猿沢池に投げ込んで類焼を免れたと言われています。昔の人々が必死の想いで大事してきたことがうかがえます。これからも大切にしていきたいですね。

 

興福寺南円堂/木造四天王立像(もくぞうしてんのうりゅうぞう)【国宝】(鎌倉時代)

運慶一派の康慶一門の手になる四天王像です。近年の研究で仮講堂(興福寺の講堂跡に1975年に薬師寺旧金堂(室町時代)を移築した建物)に安置されていた四天王像がここ南円寺にあったものではないかと見られていたため、旧南円堂の四天王が中金堂に移設されたことをキッカケに南円堂の四天王として迎えられました。

中金堂の仏像

興福寺中金堂/木造四天王立像(もくぞうしてんのうりゅうぞう)【国宝】(鎌倉時代)

桂(かつら)材の寄木造 彩色 彫眼、像高 持国天像206.6cm 増長天像197.5cm 広目天像200.0cm 多聞天像197.2cm

南円堂須弥壇(しゅみだんの)四方に安置されていましたが、2018年の中金堂の落慶にあわせて移設されました。いずれも沓(くつ)をはき、岩座に立ち、持国天像と増長天像は腰を右に、広目天像と多聞天像は腰を左にひねっています。動きも大きく力強く、鎌倉再興期を特徴づける像です。この寄木造の四天王像(鎌倉復興期の作)は北円堂(または東金堂)にあったものではないかとも言われています。

現在興福寺にある四天王像は以下の通りです。

  1. 北円堂 国宝 平安時代 木心乾漆造 約135~140cm

  2. 中金堂 国宝 鎌倉時代 桂材の寄木造 約200cm

  3. 東金堂 国宝 平安時代 一木造 約160cm

  4. 南円堂 国宝 鎌倉時代 桧材の寄木造 約200cm

 

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以上、とどーっと興福寺の歴史や仏像についてガイドして参りました。どうですか興福寺に行きたくなりましたか?実はここでは興福寺の仏像を紹介しきれませんでした。まだまだ仏像がたくさんありますので、残りの仏像は実際に興福寺を訪問してみなさんの目で確認してください。

 

最近の興福寺の活動は眼を見張るものがあります。次の世代に仏教や仏像、興福寺をつなげていきたいという強い想いを感じるようです。

 

京都の華やかできらびやかな古都とは対照的などこかホッとするような懐かしい気持ちにさせてくれる奈良。その象徴となる興福寺は奈良の楽しみ方、奈良の仏像の入門のお寺として最適です。

 

興福寺の仏像を堪能したら、近くの東大寺や奈良国立博物館でさらに仏像を楽しむのも良し、ならまちでグルメや買い物を楽しむも良し、みなさんそれぞれ思い思いの楽しみ方、奈良時間をすごしてくださいませ!

仏像を初めて勉強する方に…

 

興福寺の御朱印

興福寺の拝観料金、時間、宗派、電話など

正式名称

興福寺

宗派

法相宗大本山

住所

〒630-8213 奈良市登大路町48

電話

0742-22-7755

拝観時間

9:00~17:00 受付は16:45まで(国宝館・東金堂・中金堂)

北円堂は春と秋に公開イベントで御開帳(詳細は興福寺のHPなどでご確認ください)

南円堂は毎年10月17日のみ御開帳となります。

★拝観時間は上記の通りですが、境内はいつでも開放されていて夜の興福寺の風景や、早朝の興福寺を歩くのもとても気持ちいいのでおすすめです!

拝観料金

大人: 国宝館700円、東金堂300円、共通券900円

高校生: 国宝館600円、東金堂200円、共通券700円

中学生: 国宝館600円、東金堂200円、共通券700円

小学生: 国宝館300円、東金堂100円、共通券350円

【中金堂のみ】※中金堂は共通券はありません

大人500円、中高生300円、小学生100円

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