奈良・興福寺の仏像|国宝館の阿修羅・北円堂の運慶・天燈鬼と龍燈鬼に会う(拝観料・時間つき)

初めて仏像を見に行く人に、どこをすすめるか。私は東寺、三十三間堂、そして興福寺を挙げます。
近鉄奈良駅から東へ歩くと、奈良県庁の目の前に境内が広がります。猿沢池の水面に五重塔が映る、あの眺めのある寺です。人通りの絶えない奈良の町の真ん中に、奈良時代の漆の像と、鎌倉時代の木の像が、同じ敷地で並んでいます。

ただ、この寺は何度も焼けています。いま会える像は、焼け跡から運び出されたり、頭だけ残ったり、持ち物を失ったりしたまま、それでも立っている像が多い。その目で歩いてみます。
国宝が多すぎて全部は追えないので、まず見る3つを決めておきます。阿修羅像、天燈鬼・龍燈鬼、北円堂の無著・世親像。そのあとに、余裕があれば国宝館と各堂へ足を伸ばしてください。

興福寺・阿修羅像:空の手は、持っていたものを覚えている

国宝館の中に、八部衆立像が並んでいます。阿修羅像はそのうちの1体です。
八部衆は、古代インドで信じられていた神々が、仏教を守る側に回った存在です。五部浄、沙羯羅、鳩槃荼、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、畢婆迦羅の8体。もとは西金堂(いまはありません)の本尊・釈迦如来の周りに安置されていました。


阿修羅さんの顔は3つ。少年のような細い体に、眉を寄せた表情です。戦いの神なのに、よろいを着ていません。
私が足を止めてほしいのは、手です。6本の腕のうち、いま何かを持っているものはありません。ところが作られたころは、第二の手に太陽と月、第三の手に弓と矢をかかげていたそうです。空になった手が、持っていたものの形のまま上がっている。そう見ると、あの細い体が少し違って見えてきます。

仏像リンク編集部MEMO 📝




阿修羅という名は、古代インドのアスラに由来します。帝釈天(インドラ)と戦い続ける神として語られ、争いの場を「修羅場」と呼ぶ言葉にもつながります。仏教に取り入れられてからは、釈迦を守る神になりました。くわしくは阿修羅の解説にまとめています。

八部衆は乾漆造です。漆に浸した麻布を重ねて形をつくる技法で、木の像より軽く、表面がなめらかに仕上がります。作者は仏師の将軍万福と伝わります。
名称: 乾漆八部衆立像のうち阿修羅像(国宝)
時代: 奈良時代
像高: 153.4cm
材質: 乾漆(漆と麻布を重ねる)
特徴: 3つの顔と6本の腕。少年のような細い体。合掌する1組以外の手は、いま何も持っていない。
興福寺・天燈鬼・龍燈鬼:踏まれていた鬼が、灯りをかかげる

四天王さんの足の下には、たいてい邪鬼がいます。踏まれて、顔をゆがめている鬼です。その邪鬼が独立して、仏前を照らす役に就いたのが、この2体です。
天燈鬼は2本の角と3つの目を持ち、口を大きく開いて、灯籠を左肩にのせています。龍燈鬼は、上半身に巻きついた龍の尾をつかみ、頭の上の灯籠を上目づかいににらみます。阿と吽、赤と青、動と静。2体を並べると、あちこちが対になっています。

踏まれ役だった鬼は、ここでは重い灯籠を支える側です。罰を受ける役から、仕事を任される役へ。この2体の顔が、どこか誇らしげに見えるのは、そのせいだと私は思っています。
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鎌倉時代の慶派らしく、筋肉や血管まで木で彫り出されています。龍燈鬼は、運慶の三男・康弁の作と伝わります。ふだんは脇役の邪鬼に、ここまで細かく手をかけた。そこに、作った人の遊び心が見えます。

名称: 木造天燈鬼立像・龍燈鬼立像(国宝)
時代: 鎌倉時代
像高: 天燈鬼 78.2cm/龍燈鬼 77.8cm
材質: 桧の寄木造、彩色、玉眼
特徴: 天燈鬼は2本の角と3つの目で、灯籠を左肩にのせる。龍燈鬼は龍の尾をつかみ、灯籠を頭にのせる。
興福寺北円堂・無著・世親像:運慶が彫った、人の顔

北円堂は、ふだんは扉が閉じている堂です。春や秋などの特別公開のときに開きます。日程は公式サイトで確かめてから行ってください。公開中の情報はいま見られる秘仏・特別公開にもまとめています。
八角形の堂は、興福寺をつくった藤原不比等の一周忌にあたる721年に建てられました。境内の西のはずれで、平城京を見渡せる場所です。創建時の堂と像は11世紀なかばに焼け、中尊の弥勒像は頭部だけが残ったと伝わります。再建された堂も、1180年にまた焼けました。いまの北円堂は、鎌倉時代に再建されたものです。

焼けた弥勒像の頭は、新しく造られた像の中に納められたと記録されています。壊れたものを捨てずに、次の像の中へ入れる。この寺の人たちの手つきが、ここによく出ています。

堂の中でまず目に入るのが、無著像と世親像です。インドに実在した兄弟のお坊さんで、法相宗の教えを築いた人として敬われました。仏の姿ではなく、人の姿で表されています。
無著像は老人の顔で、手に箱を持ち、右下を見ています。世親像は壮年の顔で、左の遠くを見ています。目には水晶をはめる玉眼が使われ、光が当たると、まなざしが濡れたように見えます。

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無著・世親像は、国の指定名に「運慶作」とあります(国指定文化財等データベース、1208年)。鎌倉時代初期の写実的な肖像彫刻として、屈指の像です。
名称: 木造無著菩薩立像・世親菩薩立像(国宝)
時代: 鎌倉時代(1208年)
像高: 無著 194.7cm/世親 191.6cm
材質: 桂の寄木造、彩色、玉眼
特徴: 老いた無著は箱を持ち、壮年の世親は遠くを見る。インドの兄弟僧を、人の姿で表した肖像彫刻。
中央の弥勒如来坐像

この2体に挟まれるように、中央に座るのが本尊の弥勒如来坐像です。運慶が中心になって造りました。弥勒は56億7千万年後に悟りを開くとされる仏で、この像は、はるか未来にその姿に至った弥勒如来を表しています。
頭は堂々として、目、ほお、口もとの輪郭がしっかりと彫られています。同じ北円堂の無著・世親像と比べると、人の顔を彫った像と、悟った仏の顔を彫った像が、同じ堂の中で向かい合っているのが分かります。弥勒の解説は弥勒如来とはにあります。
名称: 木造弥勒如来坐像(国宝)
時代: 鎌倉時代の初め
像高: 141.9cm
材質: 桧の寄木造、彩色
特徴: はるか未来に悟りを開いた弥勒如来の姿。北円堂の本尊。
その他の見どころ
国宝館:頭だけの仏頭と、5mの千手観音

国宝館は、かつてあった食堂(僧が食事をした堂)の姿を復元して、1959年に建てられました。外観の屋根は本瓦葺きで、地下には旧食堂の遺構がそのまま保存されています。
阿修羅像のほかにも、国宝が並びます。

銅造仏頭(国宝・白鳳時代)は、飛鳥の山田寺の本尊の頭部と伝わります。685年の造像で、書物によって年が分かることから、白鳳彫刻の基準になる像です。東金堂の本尊として迎えられたのは1187年。1411年の火災で堂とともに被災し、頭だけが残りました。
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同じ台座から、銀造の仏手も見つかっています。ひじから手首までが42.2cm。奈良時代の銀の仏像で、いま残っているのは、東大寺法華堂本尊の宝冠の化仏と、この手だけです。ひじの大きさから、もとの像は2m前後あったと考えられています。

国宝館の中央に立つのが、木造千手観音菩薩立像(国宝)です。像高520.5cm。鎌倉時代に再建された食堂の本尊です。頭の上に仏面が1つ、その上に10の仏面を重ねた十一面の観音で、38本の脇手が左右3段に取りつけられています。像内の年紀から、1229年ごろに完成したと考えられています。千手観音の解説は千手観音とはへ。

金剛力士立像(国宝)は、門に立つ仁王像とは違い、西金堂の須弥壇にあった像です。ほぼ等身大で、阿形154.0cm、吽形153.7cm。胸から腹にかけての筋肉と、浮き出た血管が、近くで見ると細かく彫られています。1288年に善増と観実が修理したことが分かっています。仁王像の見分け方は仁王像の解説にあります。

板彫十二神将立像(国宝・平安時代)は、厚さ3cmほどの1枚の桧板に浮き彫りされた12面です。東金堂の本尊・薬師如来の台座の周りに貼られていたと考えられています。彩色ははがれて木肌が出ていますが、武器を構え、全身で動くようすが残っています。絵と彫刻のあいだのような像で、類例が少なく、どこか笑いを誘う表情もあります。
東金堂:向かい合う維摩居士と文殊菩薩

東金堂は、726年に聖武天皇が、叔母の元正太上天皇の病気の回復を願って建てたお堂です。いまの建物は1415年の再建で、奈良時代の雰囲気を伝える寄棟造りです。


維摩居士坐像(国宝・鎌倉時代)は、定慶の作とされます。維摩は古くから、仏教徒の手本とされてきた人物です。像は老人の顔で、深いしわや浮き出た血管まで写実的に表されています。人々の苦しみを背負うあまり病に伏した、という経典の一節を、そのまま形にしたものです。

向かい合う文殊菩薩坐像(国宝・鎌倉時代)は、若々しい顔です。維摩の見舞いに、釈迦の代理で訪れた文殊だけが、対等に話ができた。そのやりとりを表した組み合わせだとされます。文殊菩薩の解説は文殊菩薩とはにあります。
南円堂:不空羂索観音と、猿沢池の伝え

南円堂は、西国三十三所の第9番札所です。813年に藤原冬嗣が、父の内麻呂の冥福を願って建てました。基壇を築く地鎮祭で、和同開珎などの硬貨がまかれたことが、発掘調査で分かっています。いまの建物は江戸時代中期の1741年に建てられた、4度目のものです。

本尊の不空羂索観音菩薩坐像は、像高336.0cm。眉間に1つ、あわせて3つの目を持ちます。不空羂索は「願いをむなしくさせない縄」の意味で、すべての人をもれなく救う観音です。肩から斜めにかけた鹿の皮は、藤原氏の氏神・春日社との結びつきを表しています。康慶らの作とされる鎌倉時代の像です。公開は年に1日と案内されてきましたので、日付は公式サイトで確かめてください。不空羂索観音の解説もあわせてどうぞ。


この堂は、鎌倉再建のあとに2度、火災にあっています。それでも本尊は無事でした。大きな像なので、火事のときは分解して猿沢池に沈め、類焼を免れた、という話が伝わります。

名称: 木造不空羂索観音菩薩坐像(国宝、南円堂)
時代: 鎌倉時代
像高: 336.0cm
材質: 桧の寄木造、漆箔、彫眼(瞳は玉眼)
特徴: 眉間の目を含めて3つの目。肩から鹿の皮をかけ、光背とともに大きな三角形に収まる姿。
中金堂と五重塔

中金堂は、かつて興福寺の中心だった堂です。2018年に再建され、落慶法要が行われました。


五重塔(国宝)は、730年に光明皇后が建てました。現在の塔は1426年ごろの再建で、高さは50.1mです。初層の四方には、薬師、釈迦、阿弥陀、弥勒の三尊が安置されています。
御朱印と、町歩き

御朱印は境内でいただけます。参拝のあとは、ならまちを歩くのもおすすめです。

歩き方
近鉄奈良駅から東へ歩くのが近道です。JR奈良駅からは少し離れるので、循環バスを使うと楽です。伽藍の正式な入り口は、猿沢池のほうの南側にあたります。
境内は、国宝館・東金堂・五重塔のある東のエリアと、北円堂・南円堂・三重塔のある西のエリアに分かれ、200mほど離れています。中央の南大門跡は、猿沢池の北側です。順番は、国宝館(阿修羅、天燈鬼・龍燈鬼)、東金堂、中金堂、南円堂と北円堂の外観。北円堂の公開日なら、そこで内部へ。そのまま奈良公園を東へ歩けば、東大寺の南大門に出ます。
お寺の歴史と伝承

興福寺は、東大寺が国の官寺だったのに対し、奈良・平安時代に権力の頂点にいた藤原氏の氏寺でした。法相宗の大本山です。

始まりは669年。藤原鎌足が重い病にかかったとき、夫人の鏡女王が、回復を願って山階寺を造ったと伝わります。壬申の乱のあとに飛鳥へ移され、710年の平城京への遷都で、鎌足の息子の藤原不比等が、いまの場所に移して興福寺と呼ばれるようになりました。賢憬、修円、徳一など、多くの僧がここから育ちました。


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その力は、戦国時代の終わりに削がれました。織田信長の比叡山焼き討ちや、豊臣秀吉の刀狩で、僧兵の勢いはなくなっていきます。さらに明治の廃仏毀釈では、廃寺同然になるほどの被害を受けました。

それでも修理と整備が重ねられ、1998年には「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されました。

主な歴史年表
669年: 鏡女王が、夫の藤原鎌足の病気回復を願って山階寺を造ると伝わる
710年: 平城京への遷都で、いまの場所に移り興福寺となる
721年: 北円堂が建てられる
726年: 東金堂が建てられる
730年: 五重塔が建てられる
813年: 藤原冬嗣が南円堂を建てる
1180年: 平氏の火で、境内の多くの堂が焼ける
1210年ごろ: 鎌倉再建の北円堂が完成する
戦国時代の終わり: 僧兵の勢力が失われる
明治時代: 廃仏毀釈で大きな被害を受ける
1998年: 世界遺産に登録される
2018年: 中金堂が再建される
なぜ、興福寺には四天王像が4組もあるのか
興福寺を歩くと、四天王さんにやたらと出会います。東金堂、北円堂、中金堂、南円堂。堂ごとに、四天王が立っています。四天王は四隅を守る像ですから、1つの堂に1組あれば足ります。それなのに、なぜ4組もあるのでしょうか。

東金堂の四天王立像(国宝・平安時代)は、約160cmの一木造です。頭上から足元の邪鬼、台座までを、1本の桧から彫り出しています。瞳には黒漆が使われています。


北円堂の四天王立像(国宝・平安時代)は、約135から140cmの木心乾漆造です。鎌倉の運慶たちが造った像よりも、ずっと古い。大安寺の四天王像だったと記録されています。大きな身振りで、下半身に力を入れた立ち方で、どこか少しユーモラスです。


中金堂の四天王立像(国宝・鎌倉時代)は、約200cmの桂の寄木造です。南円堂にあった像で、2018年の中金堂の落慶にあわせて移されました。南円堂には、いま別の四天王(鎌倉時代、桧の寄木造、約200cm)が安置されています。四天王の解説は四天王とはにあります。
北円堂には、もとは鎌倉の再建のときに、運慶一門が造った四天王がいたはずです。いつのまにか現在の像に入れ替わったようで、中金堂の四天王が本来の北円堂の像ではないか、という見方も研究者のあいだにあります。
ここからは私の想像です。
四天王は四隅を守る役目ですから、どの堂に置いても務めは同じです。堂が焼けるたびに、焼け残った像を、足りない堂へ回して、役目を続けさせた。そう考えると、4組になった理由も、入れ替わった理由も、同じ線でつながります。像は堂に属しているのではなく、人が運んで、守ってきたものなのかもしれません。
まとめ:興福寺は、欠けたものと一緒に立っている
空になった阿修羅さんの手。台座の中で500年以上忘れられた仏頭。入れ替わった北円堂の四天王。踏まれる役から灯りの役に回った鬼。この寺の像は、どれも完全な姿のまま残ったわけではありません。
それでも、人は堂が焼けるたびに、像の頭だけでも運び出し、次の像の中に納め、堂を建て直してきました。興福寺は、できあがった姿を見る寺ではなく、受け継がれてきた姿を見る寺だと、私は思います。
さて、北円堂の無著・世親像は1208年です。平氏が興福寺を焼いたのは1180年。では、奈良が焼けた6年後、運慶はどこで、どんな像を造っていたのでしょうか。


次に会いに行くなら
奈良が焼けた6年後に、運慶が都の外で造った像を見るなら、静岡の願成就院。北円堂の像より20年ほど前の仕事です。不動明王像と毘沙門天像の内側から見つかった木札で、1186年に運慶が北条時政の願いで造ったことが分かっています。奈良の運慶と見比べると、運慶が地方で何を造ったかが見えます。
そのまま奈良公園を東へ歩くなら、東大寺。鎌倉の復興は東大寺でも進みました。南大門の仁王像は、運慶・快慶らが69日で造ったとされる像です。
運慶の姿と伝わる像に会うなら、京都の六波羅蜜寺。運慶の姿を写したと伝わる伝運慶坐像があります。北円堂の像を見たあとに、運慶という仏師の顔を想像してみてください。
同じコース「奈良の基本をおさえる」で、こんなところはどうでしょう
興福寺の拝観料金、時間、宗派、電話など
正式名称 | 興福寺(こうふくじ) |
宗派 | 法相宗大本山 |
住所・アクセス | 〒630-8213 奈良県奈良市登大路町48/近鉄奈良駅から東へ歩いてすぐ。奈良県庁の目の前 |
電話 | 0742-22-7755 |
拝観時間・拝観方法 | 9:00〜17:00(受付は16:45まで)。国宝館・東金堂・中金堂。北円堂は春や秋などの特別公開、南円堂は年に1日の公開のみ。日程は公式サイトで確認 |
拝観料金 | 国宝館・東金堂・中金堂それぞれに拝観料がかかります。金額は改定されることがあるため、お出かけ前に公式サイトでご確認ください |
拝観時間・料金・公開日は変わることがあります。お出かけ前にご確認ください。参考:興福寺公式サイト
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地域タグ:奈良県の仏像

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