【見仏入門】No.42 岐阜・横蔵寺の仏像・見どころ/本尊薬師如来坐像、大日如来坐像、深沙大将立像、即身仏、御朱印など


横蔵寺(よこくらじ)は岐阜県の揖斐川上流の山間にあります。ここは紅葉の名所として知られていて、秋には多くの観光客が訪れます。また実際のミイラ(即身仏)があるお寺としても有名です。しかもそれをすぐそばから見られるのですから少しぞっとしますね。

でもこのお寺は「美濃の正倉院」と呼ばれていることを忘れてはいけません。平安時代から鎌倉時代にかけての国の重要文化財の仏像の数は20体を超え、それらが寺の宝物殿に安置されています。

また、このお寺の創建時に安置されていたご本尊の薬師如来像が、現在の比叡山延暦寺の薬師如来像なのです。

このお寺は、紅葉シーズンに訪れるのも良し、それ以外の季節に訪れてもきっと良い思い出になるでしょう。

そしてなぜこれほど奥まったところにたくさんの仏像が安置されているのか、昔の人の思いに触れてみるのも良いのではないでしょうか。

横蔵寺へのアクセス

横蔵寺(よここらじ)へは、JR東海道線の大垣駅から、または近鉄名古屋線の桑名駅から養老鉄道(養老線)に乗り換えて北へ終点「揖斐(いび)駅」下車、揖斐川町コミュニティバス横蔵線で終点・横蔵下車(乗車時間42分)すぐです。バスの本数は1~2時間に1本くらい出ています。

揖斐駅から寺までの距離は10kmほどですので、時間がない方は駅からタクシーでも20分くらいで行けます。

車の場合は名神高速「大垣IC」から国道258号、国道21号、国道157号を経て県道40号へでて横蔵へは更に少し山へ入ります。

この寺のある場所を東海自然歩道(東京都高尾の「明治の森高尾国定公園」から大阪府箕面の「明治の森箕面国定公園」までの長さ1,697
kmの自然歩道)が通っていて、遊歩道も整備されています。

また寺近辺は紅葉の名所として有名で、秋の行楽シーズンには「横蔵寺もみじまつり」が開催され、多くの参拝客、観光客が訪れます。

またこの時期には夜に、紅葉のライトアップが行われて、古刹の寺に映える紅葉の色が幻想的な雰囲気をかもし出しています。

また、横蔵寺の東側少し離れた所に西国三十三観音霊場の最後の札所である「華厳寺(けごんじ)」があります。

なぜこの美濃の山奥にこのような古くからのお寺が残されているのでしょうか。

この両寺とも岐阜の県道40号線近くにありますが、この県道を西へ進むと揖斐川に出て川沿いを北へ進み、途中から日坂川(ひさかがわ)に沿って滋賀県との県境の峠越えになります。

しかし現在はこの県境付近は通れなくなっていますが、昔は山道を歩いてきたのでしょう。この道の滋賀県側は琵琶湖の湖北地域の十一面観音の里へと続いています。

横蔵寺は天台宗の寺で、比叡山延暦寺ととても関係の深い寺です。

京の都の東北(鬼門方向)にある比叡山と、更にその先の湖北地域(木ノ本)に観音信仰が伝わり、更に一部は日本海側へ出て白山へ続く道と、こちらの東に進んでこの美濃の山奥に進む2つの信仰の道が見えてくるように思えます。

現在は車の道は、県道40号線から国道303号線に出て湖北の「木ノ本」へつながっています。

横蔵寺の歴史

横蔵寺(よこくらじ)の創建については正確な資料がなくはっきりしませんが、寺伝によると、801年または803年(他も説があります)に桓武天皇の勅願によりこの地の長者「三輪次太夫藤原助基」が開基となり天台宗の宗祖である伝教大師最澄(さいちょう)が比叡山延暦寺の本尊と同じ霊木で彫った自作の薬師如来を安置して創建したといわれています。

言い伝えでは、最澄がこの「薬師如来像」を笈(おい:修験僧などが仏具などを入れて背負う箱や背負い板)に入れて背負って諸国を旅し、この地まで来た時に薬師如来像を入れた笈が動かなくなったので、ここにお堂を建てて薬師如来像を祀ることとして、地元の豪族の「三和次郎大夫藤原助基」が寺を建立したと伝わっています。

この寺の名前「横蔵(よこくら)」もこの薬師観音像を入れた笈箱が横になって動かなくなったことから名づけられたとも言われています。

その後、鎌倉時代には38坊、末寺の数も300ほどの大寺院だったとされていますが、詳しいことは資料が焼失したりしてわかりません。

戦国時代になり1571年に織田信長による兵火で寺の建物のほとんどが焼失してしまいました。また、織田信長は「比叡山焼き討ち」を行い、比叡山延暦寺も焼けてしまい、延暦寺の本尊である薬師如来像も焼けてしまいました。

しかし、横蔵寺の本尊(延暦寺の本尊と同じ霊木で最澄により作られたといわれている)は奇跡的に焼けずに残ったのです。このため、1585年に延暦寺が再興されたときに、後陽成天皇の勅願により、この横蔵寺の本尊の薬師如来像を延暦寺の本尊として移し、代わりに、洛北の御菩薩池(みぞろがいけ、現・京都市北区の深泥池)にあった「薬師如来像」を横蔵寺に移して、現在の横蔵寺の本尊としました。

その後寺は、一時衰退していきましたが、江戸時代には、徳川家康の庇護(ひご)を受け、寺領も寄進され、1.5kmほど奥に入った円山の山の上にあった寺を、現在の場所に移して、寛永年間(1624~1644年)には三重塔を、また寛文年間(1661~1673年)に本堂と仁王門、庫裏などが再建されました。

また、舎利堂(しゃりどう)には有名な実際の舎利仏(ミイラ)が祀られています。

このミイラは横蔵出身の妙心法師という方が、1813年に当時「養蚕の神の山」として慕われていた山梨県都留市にある御正体山(みしょうたいやま)に入り、1817年にこの御正体山の山中で即身仏(そくしんぶつ:修行者が瞑想を続けて絶命し、原型を保ったままミイラの状態になること)となりました。

その後このミイラは御正体山内の上人堂に祀られ、山梨県都留郡鹿留村にて管理されてきました。その後、明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により1874年に山梨県がこのミイラを引き取り、県病院で保管されていました。

それを1890年に、妙心法師の親族から即身仏(ミイラ)の下付(かふ:官から民間に下げ渡すこと)の嘆願がなされ、即身仏(ミイラ)は妙心法師の出身地の横蔵寺に移されたのです。

妙心法師は1781年に横蔵寺の地元の村で生まれ、仏道修行のため諸国を巡っていました。そしてまだ37歳の1817年に断食修行の後、今の山梨県都留市の御正体山で即身成仏したといわれています。遺体は自然にミイラ化したもので、日本のミイラ仏の中では最も若い人物だとされています。

横蔵寺の仏像の詳細

薬師如来坐像【重文】(鎌倉時代後期 桧材 寄木造 玉眼 漆箔)〈像高87.7cm〉

現在の横蔵寺の本尊です。当初横蔵寺の本尊であった薬師如来像は、伝教大師最澄が延暦寺の本尊と同じ霊木で彫ったといわれた像でしたが、これは比叡山延暦寺が信長に焼き討ちされたときに延暦寺の本尊が焼失してしまったために、この横蔵寺の薬師如来像を延暦寺の本尊として移し、代わりに洛北の御菩薩池(みぞろがいけ、現・京都市北区の深泥池)にあった「薬師如来像」を横蔵寺に移したものです。

この像は舎利堂(しゃりどう)の一段下にある旧宝物館に安置されていますが、秘仏であり六十年に一回開帳されています。

<宝物殿>

横蔵寺の仏像は主に宝物殿に安置されています。

宝物館の中に入ると、入り口両側に定慶作といわれる仁王像(金剛力士像)がにらみを利かせ、その隣には十二神将像が並んでいます。

正面の厨子の中には本尊の胎内仏と伝える金銅仏を祀る小さな厨子があり、その左側に立つ
深沙大将像は特に異彩を放っています。館内には大小22体の仏像が安置されています。

大日如来坐像【重文】(1183年・筑前講師作 桧材、割矧造 玉眼 彩色)〈像高70.1cm〉

この像は、三重塔内に安置されていた像で、三重塔の本尊です。

宝物殿の正面厨子の右側に安置されています。

平安末期の作でそれほど大きな像ではありませんが、高く結い上げた宝髻(ほうけい)や流れるような衣紋など鮮やかな腕の確かな仏師が彫ったものと見られます。

作者は「筑前講師」と記録されていますが、この仏師は謎に包まれています。またこの像の発願者は平氏の名前が書かれていますが、1183年には源氏と平家の戦いが始まっていますのでこの像がどのような経緯で製作されたのかとても興味深いものがあります。

また表情もやさしく穏やかなものがあります。

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深沙大将立像【重文】(平安時代後期 くすのき材 一木造 彩色)〈像高: 175.5cm〉

宝物殿の正面厨子の左側に安置されている像で、この独特な像の姿が特徴的で、また金剛峰寺の快慶作より古い深沙大将(じんじゃだいしょう)像ということでこの像は仏像ファンにはよく知られた像です。

深沙大将は、仏教の守護神で、大般若経を守護する十六善神の一つです。また玄奘三蔵(げんじょうさんぞう=三蔵法師)がインドへの旅の途中の砂漠で玄奘を守護したと伝えられている守護神で、

観音菩薩または多聞天の化身であるともいわれてもいます。

一般的にその姿は怒りをあらわにした顔で、腰布だけを身に着けた裸形で、腹部には子供の顔が現われています。

この横蔵寺の「深沙大将像」は、金剛力士像のようなたくましさはなく、ギョロリとした大きな目と太くつり上がった眉に、横に開いた口など独特の表情をした少しエキゾチックな趣のある像です。

制作されたのは平安時代後期と言われていますが、この時期に同じような表情や雰囲気を持った他の像は見当たりません。

金剛力士立像【重文】(鎌倉時代 1256年 定慶等の作 彩色)〈像高:278.5~279.0cm〉

金剛力士(仁王)像には、建長8年(1256年)の銘があり、作者は鎌倉時代を代表する仏師の一人である法眼定慶が4人の小仏師を率いて造立したことがわかっています。定慶が73歳の晩年の作です。また、玉眼は後補のものです。

その他、国の重要文化財に指定されているのは次の仏像です。

四天王立像【重文】 (室町時代 寄木造 玉眼 彩色)〈像高約75cm〉

持国天・増長天・広目天・多聞天の4躯

十二神将立像【重文】12躯(平安後期~室町時代 寄木造 彩色)〈像高:84.8~110.5cm〉

また、秘仏として公開されていませんが次の胎内仏があります。

銅造薬師如来立像  35cm 唐時代 (秘仏)

宝物殿正面の厨子の中に安置されていますが、普段は扉が閉まっていて拝むことができません。

この像は横蔵寺の創建時の薬師如来像(現在の比叡山・根本中堂の薬師如来像)の胎内仏であったといわれています。

最澄が唐より持ち帰った薬師如来像だとされていますが、詳しいことは不明です。

横蔵寺の舎利仏(ミイラ)

宝物殿向かいの舎利 堂に安置されています。

妙心上人のミイラで、断食修行で自然にミイラ化したものといわれています。

ガラスケースに入れられていますが、すぐ前まで近づけるため、 ミイラの表情までよく拝することが出来ます。

横蔵寺の御朱印

横蔵寺の拝観料金、時間、宗派、電話など

正式名称

両界山横蔵寺医王院

宗派

天台宗

住所

〒501-1317 岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲神原1160

電話

0585-55-2811

拝観時間

10:00~16:30

拝観料金

300円

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