【見仏入門】No.6 奈良・東大寺Part.2/二月堂、三月堂(法華堂)、四月堂、東大寺ミュージアムの仏像


 東大寺の大仏殿・戒壇院の紹介に引き続いて、三月堂二月堂などの東大寺の前身寺院があったといわれる東側のエリアを紹介をします。東大寺Part1の記事はこちらをご参照ください。

【見仏入門】No.5 奈良・東大寺Part.1/奈良の大仏と戒壇堂の四天王像、南大門の金...
奈良県の象徴で、仏像といえばと聞かれて日本人の多くが想像するのはこの「奈良の大仏」という人も多いのではないでしょうか? 奈良の大仏があるお寺は「東大寺(...

このエリアは「奈良の大仏」とは少し離れた丘のうえにあるエリアで、ぶっちゃけ、つい忘れられてしまうしまうエリアでその存在を知る人は少ないかもしれません(笑)

私自身、中学校も高校も修学旅行で東大寺に訪問しているにも関わらず、奈良の大仏へのルートをそれた、これらのお堂の存在は気付きませんでした。

 

 

でもこのエリアは東大寺が出来た当時のままを残すエリアで、二月堂から奈良の町並みを見下ろす絶景も感じられるエリアです。京都の絢爛豪華な町並みとはまた違った、奈良ならではののびのびとおおらかな景色を堪能できるエリアです。(ダジャレすみません…(笑))

 

 奈良の大仏さんがいる大仏殿やかっこいい仁王さんがいる南大門などの建物は1180年の平重衡(たいらのしげひら)という武将の兵火と、1567年の三好・松永という武将の兵火によって、残念ながらお寺ができた創建当時の建物の大部分が失われてしまいました…

 

しかし鎌倉時代の重源(ちょうげん)というエラいお坊さま、江戸時代の公慶(こうけい)というエラいお坊さまによる復興とで現在まで昔の姿がいまに再現されてきました。つまりお寺はリフォームされている状態なのですが、今回ご紹介する若草山の麓側に立つ二月堂、三月堂、四月堂などと呼ばれる建物は幸いにも戦火にはあわず、昔の姿を現在も残してきているんです。

 

この月がつく名前はそれぞれのお堂で行われる行事の開催月(旧暦)によるもので、二月堂(仏堂)は旧暦2月に有名な「お水取り」(修二会、修二月会)があり、また三月堂(法華堂)は旧暦3月に法華会(ほっけえ)がおこなわれます。また寺の案内などにはあまり載っていない四月堂(三昧堂:ざんまいどう)は旧暦4月に「法華三昧会(ほっけさんまいえ)」が行われています。

 

これらのお堂に安置されている仏像のほとんどが東大寺創建当時のまま残っています。

個人的にはとくに三月堂の仏像群は東大寺創建当時の雄大な奈良の都やおおらかな大陸の文化を想像させてくれる素晴らしい仏像たちなので、ぜひ多くの方にふれていただきたい仏像です!

 

ただ古い仏像を当時の建物内にこれからも安置し続けるには問題もあり、例えば三月堂に安置されていた両脇侍の国宝
日光・月光菩薩立像(奈良時代)、などは粘土を使った塑造であるためとってももろいんです。大切な仏像をこれから先もずっとまもっていくためには、湿度のコントロールも保存の重要なポイントでした。

このためこれから長い間これらの仏像たちをよりよい環境で保管し、人々にも公開しようと東大寺ミュージアムが2011年10月にオープンしました。東大寺ミュージアムは東大寺の入り口にあたる、南大門のそばにあります。

 

今回は若草山のふもとにある色々なお堂と東大寺ミュージアムにある仏像についてご紹介をしていきたいと思います。

もくじ

二月堂・三月堂・四月堂へのアクセス

 

 東大寺の二月堂(仏堂)、三月堂(法華堂)、四月堂(三昧堂:ざんまいどう)などのエリアは大仏殿東方の若草山の麓(丘陵地)にあります。また奈良公園(春日大社)の北側にあたります。

 

これらの堂があるエリアは「上院」(じょういん)と呼ばれ、大仏が造られる前からあった東大寺の前身寺院があった場所です。

 

春日大社の側からこのエリアに入っていくと、一番手前(南)にあるのが三月堂(法華堂)です。三月堂は南を正面として建っています。建物の規模は正面5間(柱の間が5面)・奥行8間(柱の間が8面)あります。奥行奥の半分が本尊などの諸仏が安置されている場所で正堂(しょうどう)と呼ばれます。そして手前側に仏像を拝む礼堂(らいどう)があり、正堂との間に空間部分を設けています。正堂は寄棟造、礼堂は入母屋造で共に本瓦葺きとなっています。

 

二月堂は、三月堂のすぐ北側の坂道を上り詰めた場所に建っています。このお堂は十一面観音を本尊とする仏堂です。二月堂からは奈良市街がとてもキレイに一望できます。

撮影者HIROさん

手前に大仏殿、遠くに奈良市街が広がります。奈良は高層ビルがないので古都奈良の雄大な趣(おもむき)を感じることのできる場所でオススメです。

 

この二月堂の建物の手前には1本の杉の木があり、「良弁杉(ろうべんすぎ)」と呼ばれています。歌舞伎の演目で「二月堂良弁杉由来」というのがあり、これがその杉です。でも見ると、それほど古い木ではありません。それもそのはずで、昔の杉は1961年に台風で倒れてしまい、現在の杉は2代目なのです。

 

 

良弁(ろうべん)は聖武天皇が亡くなった子供の菩提を弔うために建てたといわれている東大寺前身の「金鍾山寺(きんしょうさんじ)」の実質的な開山僧です。東大寺が建てられると東大寺の初代別当となりました。

 

さて、この杉の話のおおまかなストーリーは

「母親が野良仕事の最中目を離したすきに、小さな子供だった良弁は鷲(わし)にさらわれてしまいました。 そして、奈良の二月堂前の杉の木に引っかかっているのを義淵(ぎえん)という僧侶に助けられ、良弁はこの義淵に僧として育てられました。そして立派な僧侶となりますが、自分の親がどこにいるのかさえ分からずにいて知りたい・会いたいという思いが募り、春日大社に毎日お詣りしていました。

 

そんな中ある日、杉の木に、昔鷲にさらわれた子供を探しているという紙が貼ってありました。もしかしたら母親かもしれないとおつきの人に探させ、ついに母親と再会します。母は貴族の奥様だったのですが、子供をさがして旅をして、身をやつし乞食のようになっていたのです。

 

30年という月日が経っていましたが母と子が再会できた」

というものです。

 さて、この杉の近くに「開山堂」と「三昧堂(ざんまいどう:四月堂ともいう)」があります。開山堂は良弁堂とも呼ばれ、東大寺開山の良弁(ろうべん)をまつるお堂です。

建立されたのは良弁僧正が亡くなった773年の246年後の初めて法要が営まれたときに建てられたものとみられています。現在国宝に指定されています。

 

中には中央に八角形の厨子がありその中に国宝の良弁像が安置されています。

 

通常は一般公開されていませんので建物の中に入ることはできませんが、良弁忌の12月16日のみ公開されます。

 

 

四月堂

 四月堂(三昧堂)は開山堂のすぐ南にあります。比較的小さな二重屋根の四角いお堂です。1021年創建とされ、1681年に改築されたとされる建物です。お堂の中では少し前までは木造千手観音立像(本尊)、木造阿弥陀如来坐像、木造の普賢菩薩像が安置されていました。

 

 

ただ本尊の千手観音菩薩像は現在東大寺ミュージアムに移され展示されています。代わって本尊としてやはり収納庫に保管されていた重要文化財に指定されている十一面間観音像がまつられています。このお堂は仏像拝観も含めて無料です。

 

昔は、普賢菩薩がこのお堂のご本尊でしたが、1903年に法華堂(三月堂)から移された千手観音立像がご本尊となりました。この普賢菩薩像は、厨子の中ですが、お願いすれば堂守さんがご開帳してくれるかもしれません。

 

東大寺二月堂、三月堂、東大寺ミュージアムの歴史

三月堂の歴史

東大寺三月堂は正式には「東大寺法華堂(ほっけどう)」といい、国宝に指定されています。奈良時代に建てられた東大寺の建物で現在残されている数少ないもののうちの一つです。

 

この法華堂がいつ建立されたのかは正確にはわかっていませんが、不空羂索観音(ふくうけんさく(または、けんじゃく)かんのん)を本尊とする「羂索堂(けんさくどう)」と呼ばれていた時期があり、この周りも含めて「羂索院」という記録もあることから東大寺の初代別当である良弁(ろうべん)が733年に建立したとする説や、740年代という説などもあります。

 

いずれにしても大仏建立よりも前です。このため、聖武天皇が皇太子(基親王)の菩提を弔うために728年に若草山の麓に建立した金鍾山寺(きんしょうさんじ)の寺院の建物(仏堂)の一部であったことが考えられます。この金鍾山寺が現在の東大寺に発展します。

 

この若草山の麓には、東大寺に関係の深い福寿寺・金光明寺などの寺院もあったことも知られていてそれらが時代により少しずつ変わっていったものと考えられています。

二月堂の歴史

東大寺は1180年の平重衡の兵火と、1567年の三好・松永の兵乱とにより、創建時の建物の大部分を失っています。二月堂はこれらの大きな兵火では類焼をまぬがれたのですが、1667年のお水取りの行事中の2月13日に失火で焼失してしまいました。

 

今の二月堂はその直後の1669年に江戸幕府から援助を受けて、それまでの建物をそのまま再現して建てたものです。

東大寺ミュージアムの歴史

 東大寺ミュージアムは2011年10月にオープンした新しい博物館で、「平成の正倉院」を目指すというコンセプトで作られた博物館です。

 

東大寺では一般に公開している国宝や、重要文化財などの文化財を非常に多く所有しており、これらを古くからあるお堂などに保存しています。しかしこれらの建物は火災の危険もあり、また保存を考えると、あまり良い環境とは必ずしも言えません。

 

これから何百年や何千年と、これらの文化財を維持管理していくにはできるだけ良い環境にこれらの文化財を置かなければなりません。また一方では価値ある文化財はできるだけ多くに方に見てもらいたいというのもまた事実です。これらの矛盾する考えを実現するために、新たな博物館を建設して、空調や照明などができるだけ整った環境に文化財を安置して、また一般公開もできるだけ行っていくことにするという目的で東大寺ミュージアムが建設されました。

 

仏像の詳細

三月堂(法華堂)の仏像

先ほどもいいましたが三月堂は東大寺建築のなかで最も古く、東大寺が創建される前にあった金鍾寺(きんしょうじ)の遺構といわれています。752年に書かれた東大寺山堺四至図(さんかいしいしず)には「羂索堂(けんさくどう)」とあり、本尊に「不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)」を祀るお堂で不空羂索観音を中心に、創建当時の貴重な仏像がまつられ続けています。

 

不空羂索観音立像【国宝】(747年頃天平時代) 像高362cm

脱活乾漆像(だっかつかんしつぞう:内側を空白にし、中心となる部分には木の芯を入れ、これを土台として、その周囲を漆(うるし)などの素材で固めて乾かして造った像)で造られています。

 

不空羂索観音とは、不空=空しい思いをさせない、羂索(けんさく)=狩猟に使う縄で、これで多くの人を救う という意味を持つ観音様です。

 

この不空羂索観音像の左手(下の手)に持っている鎖のような物が羂索です。不空羂索観音は天平時代(奈良時代)から平安時代初頭にかけて数多く造立されたのですが、藤原氏による「国家を護る仏」として崇拝されたため、一般庶民の崇拝からは姿を消しました。

不空羂索観音像は、3つの目と8本の腕を持つ「三目八臂(さんもくはっぴ)」と呼ばれる姿の仏像で、穏やかで優しい表情をもち、全体はどっしりとした威圧感があるすばらしいお姿です。

 

この像の注目すべきポイントは「宝冠」にあるのです。

 

この頭に乗っている宝冠は銀製で、高さ88cmもあります。2万数千個のコハクやヒスイなどの宝石で飾られ、繊細な模様も彫られている大変なお宝です。

この宝冠は、ツタンカーメン(エジプト)またはクレオパトラ像の宝冠、ルイ14世(フランス)の宝冠とともに「世界三大宝冠」の1つともいわれています。

放射状に光を放つように見える光背のデザインとともにこの宝冠にも是非着目してください。

またもう一つは、目玉となる宝石には「翡翠(ひすい)」が使われていますが、これは新潟県・糸魚川(いといがわ)で採れたヒスイということがわかっています。

当時の日本では、糸魚川のヒスイは最高級品で、三種の神器の1つである「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」も糸魚川産のヒスイであるといわれています。また、宝冠には約23cmの化仏(けぶつ:小さな仏様であり仏様が変化した姿)が乗っています。この化仏は当時では唯一の銀製でした。

 

このように高価な宝冠でしたが、その価値であるあまり1937年に盗難にあってしまいました…。

犯人は盗んだ宝冠を押入れに隠したのですが、犯人の妻が急にお腹が痛くなり、押入れの前で倒れ込んでしまい、慌てて東大寺へ返したそうです。盗まれてから6年後のことです。

 

残念なことに宝冠に付いていた宝石などの飾りは、ほとんど取られてしまい、闇マーケットへ流れてしまいました。

 

現在の宝冠の宝石の一部は、同じ材料を用いて「東京国立博物館」にて復元されました。

この大きな不空羂索観音像の左右に有名な日光・月光菩薩像が安置されていましたが、こちらの像は現在、東大寺ミュージアムに移されました。

 

でも私は昔修学旅行でここを訪れたときにこの前にたってじっと細目で拝んでいたら、2つの菩薩像からスウッ~と光が差してきたのを覚えています。

これらはやはりこのお堂の中で組み合わせて拝観できたら良いと思うのですが、これから先、末長い保存も大切ですね。

 

梵天・帝釈天立像【国宝】(奈良時代)

 梵天像:像高402.0cm 乾漆造 奈良時代の作

帝釈天と対になっている仏像であり衣の下には鎧をつけて左手には巻物を持っています。重厚な広幅の体が悠然とした風格を漂わせていて三月堂の中にある四天王像や金剛力士像と同じ仏師や同じ工房の作品だと考えられています。

 帝釈天立像【国宝】(奈良時代8世紀):像高403.0cm 乾漆造

奈良時代8世紀頃と考えられています。本尊の不空羂索観音の右側に立っていて
本来帝釈天は武装する形で表現されることが多いのですが3月堂では帝釈天ではなく梵天像が武装しており帝釈天は貴族の格好を身につけています。

本尊(不空羂索観音像)が安置されている八角形の仏壇(本尊と日光・月光菩薩の3体が安置されていた)に向かって右側に梵天像、左側に帝釈天立像が安置されています。ただ梵天が大衣の下に甲(よろい)をつけていて、一般には帝釈天が甲をつけるため呼び名が逆の可能性があります。

乾漆四天王立像(持国天・増長天・広目天・多聞天) 【国宝】(奈良時代)

四天王(してんのう)像は須弥壇の四隅には立っています。四天王とは「仏を守護する四方の神(東方:持国天(像高309cm)、南方:増長天(300cm)、西方:広目天(304cm)、北方:多聞天(310cm))のことです。やはり乾漆造の像です。

四天王立像 持国天は脱乾漆作りの像高308 cm
奈良時代8世紀頃の作と考えられています。持国天のみ口を開いて多聞天と同じく手甲をつけています。前方の持国天と増長天は右足を上げて腰をひねる動きのあるポーズを取っていますが後方の広目天と多聞天は正面に直立する動きのない姿勢で前衛と後衛で変化をつけています。

 

増長天は脱乾漆作りの像高300 cm
奈良時代8世紀中頃の策と考えられていますこの増長天のみ左右の吹き返しのついた兜をかぶっているのが特徴で、この増長天と対角に位置する多聞天は細に目つきで、凝らすよう鋭い目つきをしているのが特徴的です。

 

広目天の鎧には制作当初の華麗な文様が残っており、唐花文や唐草文様などの模様が今なお残っています。

 

北は敵からの守り処ですから戦に一番強い多聞天(別名:毘沙門天(びしゃもんてん))が配置されています。またこれらの四天王はすべて足で「邪鬼(じゃき):人の悪い心から生れた悪いやつ」を踏みつけています。

 

三月堂・金剛力士立像【国宝】(奈良時代)

 

奈良時代 像高は阿形が326.4cm、吽形が306.0cmの脱活乾漆((だっかつかんしつ:内部が空洞で周りを漆で固めて乾かしたいわゆる張子)の像です。

 

本尊の手前に左右に2体ずつ像が立っていますが、その中の内側の2体が金剛力士像です。よく寺の山門に置かれている阿吽(あうん:口を開けているものときつく閉じたもの)の仁王像と同じです。しかし、山門に置かれる仁王像は裸身ですが、こちらは甲(よろい)を着ています。また2つの像の左右の配置も逆で、向かって右が吽形像、向かって左が阿形像です。金剛力士像(阿形)

 

秘仏・執金剛神立像(しつこんごうしんりつぞう)【国宝】<奈良時代>

 像高170.4cmの塑造(さくぞう:粘土)で天平時代(奈良時代)の作です。

堂内の本尊(不空羂索観音像)の背後の厨子内に北向きに立っていますが、通常時は非公開です。毎年、良弁忌の12月16日にのみ開扉されます。

 

この時代の塑造では秘仏としてほとんど公開されてこなかったために像の色落ちも少なく昔の姿を良く残しているといわれています。執金剛神(しゅこんごうしん)とは仏敵や煩悩を打ち砕く武器である金剛杵(こんごうしょ)という法具を持つ護法神のことです。

 三月堂の内部にはこれらの仏像以外にも、たくさんの仏像が安置されていましたが、2011年にできた東大寺ミュージアムが完成した時に一部がこのミュージアムに移されました。2011年に移された像は、塑造の(伝)日光菩薩・月光菩薩立像、同じく塑造の吉祥天・弁才天立像(一対)、木造の不動明王及び二童子像、木造の地蔵菩薩坐像です。まだこれからも移されるものが出てくるかもしれません。

二月堂(法華堂)の絶対秘仏・十一面観音について

 二月堂の正式名称は「法華堂(ほっけどう)」といい、旧暦2月にお水取り(修二会)行事が行われるために二月堂と呼ばれます。このお水取り行事も春を告げる行事として752年の東大寺が建立された時から欠かしたことがないといわれています。ここには絶対秘仏といわれる大小2体の本尊十一面観音像が安置されています。

 

1体は内陣中央に安置され、「大観音」(おおがんのん)と呼ばれ、もう1体「小観音」(こがんのん)と呼ばれ、厨子に納められ、通常は大観音の手前に安置されています(ただし、修二会(しゅにえ)の前半7日間は大観音の後方へ移動されます)。この2体の十一面観音像はともに絶対秘仏で、修二会(お水取り)の法要を務める練行衆(修二会を執り行う11人の僧侶)でさえその姿を見ることは許されません。

 

修二会(しゅにえ)は旧暦の2月、現在では3月1日から14日までの2週間行われますが、その14日間のうち、上七日(じょうしちにち・前半の7日間)は大観音が本尊とされ、下七日(げしちにち・後半の7日間)は代わって小観音が本尊となります。

 

現在では2体とも絶対秘仏で、小観音の納められている厨子には扉がありません。しかし中世以前に書かれた仏画が残されていて、仏教図像集には大観音・小観音の図像もみられます。小観音の図像は東寺観智院旧蔵の『十一面抄』という図像集にみられます。

 

上の画が小観音図です

また十一面観音の光背がなら仏像館に展示されています。光背は仏像の大きさに合わせて作られるので十一面観音がこのぐらいの大きさがあるんだなぁ、と目の前で想像することができます。

 

修二会(お水取り)のクライマックスは12日深夜、籠松明(かごたいまつ)がたかれ、練行衆は祈りの合間に、二月堂下にある若狭井(わかさい)に水をくみにいきます。これがいわゆるお水取りの儀式で、くみあげた水は「香水」と呼ばれ、本尊である十一面観音に供えられます。

秘仏についてはこちらの記事にまとめてありますのでご参考ください。

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四月堂(三昧堂)の仏像

四月堂・木造十一面観音立像【重文】(平安時代)

 

 

像高175.2cm、一木割矧造で、頭体の主要部はヒノキの一材から彫成しています。また割矧(わぎはぎ)で内刳(うちぐり)(一旦半分に像を割って、中をくりぬいてからまたつなぎ合わせること)が行われています。三昧堂の本尊であった千手観音像は2013年に堂の改修時に東大寺ミュージアムに移され、代わってこの十一面観音像が三昧堂の本尊となりました。

 

この十一面観音像は、奈良市狭川町にあった廃寺「桃尾寺」から明治の初めに東大寺に移されたものです。移された当時は二月堂に安置されていましたが、その後収納庫に保管されていました。四月堂の本尊が東大寺ミュージアムに移されたため、この像が代わりに四月堂の本尊となりました。拝観は常時、また無料で可能です。

 

四月堂・木造阿弥陀如来坐像【重文】(平安時代)

 

像高85.0cm、堂内向かって右側に安置されている阿弥陀像で、ヒノキ材を用いた一木割矧造です。定印(じょういん、腹前で両手を組む)をむすんでいます。

 

東大寺ミュージアムの仏像について

東大寺ミュージアム(旧三月堂)塑造伝日光・月光菩薩立像【国宝】(奈良時代)

像高:日光菩薩207.2cm月光菩薩204.8cm

(伝日光菩薩立像)              (伝月光菩薩立像)

もと法華堂(三月堂)の本尊不空羂索観音像の脇に安置されていました。向かって右が日光菩薩、左を月光(がっこう)菩薩と呼んでいますが、これは本来の名称ではありません。しかし本来の名称についても「梵天・帝釈天」とか、「縁覚」(えんがく:仏の教えによらず、自ら悟りを開いた者)の像などといくつかの説がありはっきりしていません。材質は塑造で、もとは彩色されていましたが、当初の色彩はそでの内側などに一部残るのみで大部分は剥落(はくらく)しています。

[重]塑造吉祥天・弁才天立像(奈良時代)/東大寺ミュージアム

像高は吉祥天202.0cm、弁才天219.0cm

こちらも法華堂(三月堂)に安置されていた仏像です。本尊(不空羂索観音像)の斜め後方の左右に、厨子に納めた状態で安置されていました。この2像は954年に焼失した東大寺吉祥院から法華堂に移されたものであると考えられています。

 

 

【国宝】木造弥勒仏坐像(平安時代)/東大寺ミュージアム

像高39.0cmカヤ材(ヒノキ材とも)の一木造で、像底を浅く刳る以外に内刳はありません。また螺髪(らほつ)は別製のものを植え付けています。日本では香りのよい香木のビャクダン(白檀)が採れないため、ビャクダン製の仏像を模した「代用檀像」と思われます。

ミュージアムに移される前は、法華堂(三月堂)に安置されていた像で、良弁の念持仏と伝えられています。

 

また、大仏の試作のために作られたともいわれ「試み(こころみ)の大仏」とも呼ばれていますが、時期的には大仏建立よりも後の、平安時代初期(9世紀)の作と見られています。日本の他の時代の仏像にはない独特な表現がされており、その時期の仏像を代表する典型作として国宝に指定されています。

 

【国宝】銅造誕生釈迦仏立像及び灌仏盤(奈良時代)/東大寺ミュージアム

像高47.5cm 灌仏盤(かんぶつばん:お釈迦様は生まれてすぐ四方に7歩ずつ歩んだとされ、その歩いた範囲)径88.7 – 89.2cm

 

本像は大仏や八角燈籠と同じ頃(8世紀半ば頃)の作とみられています。数を多く作られた釈迦誕生仏の中でも最も大きい仏像です。誕生釈迦仏としてはかなり大きな像であるため752年の大仏開眼会に合わせて制作されたものとする説や、聖武天皇の一周忌以降の制作とする説などがあります。この灌仏盤に線刻された山岳や樹木、鳥獣、鶴に乗る仙人などは正倉院宝物にも見られる吉祥をモチーフに表したものだと考えられています。

[重]旧四月堂・木造千手観音菩薩立像(平安時代前期)/東大寺ミュージアム

像高266.5cm制作時期は8世紀前半としていますがもう少し後という見方もあるようです。2013年までは三昧堂(四月堂)の本尊としてまつられていました。三昧堂の前は1903年に法華堂(三月堂)の礼堂から移されたものです。その前の記録は判明していませんが、1698年に東大寺の浄土堂(現存していません)から移されたという記録や、東大寺境内東方の山麓にあった千手堂の本尊であったという言い伝えもあります。

 

 

全体二に丸みを帯びた形をしており、胴が長く、腹部のふくよかな肉付きをしています。残る彩色は当初のもので、42本の脇手はまさに存在感十分です。また持物を持つ手先の表現はやわらかで優美です。

[重]銅造弥勒菩薩半跏像(奈良時代<8世紀頃>) /東大寺ミュージアム

像高32.8cm。この像は戒壇院にあったものですが、その前は丸山西地区の堂宇にあったといわれています。丸山西地区は、東大寺境内北西の山麓にあり、東大寺の前身の一つである金鐘山房があったと推定される場所です。

[重]木造阿弥陀如来坐像(平安時代)/東大寺ミュージアム

像高88.5cm。ヒノキ材の寄木造で、典型的な定朝様式(平安後期の仏師・定朝の作風)の像です。大仏殿西方の勧進所阿弥陀堂に安置されていました。定印をむすんで坐した阿弥陀像です。

[重]木造十二神将立像(平安時代)/東大寺ミュージアム

像高95.0 – 110.6cm ヒノキ材の寄木造です。東大寺南大門東方にある本坊(旧東南院)の天皇殿に安置されていたものです。

[重]木造地蔵菩薩立像(鎌倉時代)

像高89.8cm、勧進所公慶堂に安置されていた像で、東大寺に伝わる快慶作の仏像の一つです。いわゆる僧形地蔵の典型的な姿をしています。目は彫眼で表面は彩色と切金文様、胸飾や腕釧(わんせん)などは銅製鍍金の服装です。快慶作とされる仏像は数多く残されていますが、法橋時代(1203~1208年)に製作された数少ない仏像の一つです。

 

その他東大寺ミュージアムに保管されている仏像は

 

[重]木造聖観音立像(鎌倉時代): 重要文化財 鎌倉時代

 

 

像高183.0cm、天理市にあった廃寺「内山永久寺」に伝来した像で、廃仏毀釈で東大寺二月堂に移されていた仏像です。

 

[重]木造持国天立像、木造多聞天立像(平安時代)

像高は各201.0cmと186.5cm これらは前述の木造聖観音立像と同じく天理市の廃寺「内山永久寺」に伝来した像で、廃仏毀釈で東大寺二月堂に保管されていた像です。

 

 

[重]木造青面金剛立像(平安時代) 像高169.4cm

東大寺俊乗堂にあった像で、1890年に三昧堂に移され、さらに大正時代に念仏堂に移されていた像です。

 

 

[重]木造釈迦如来坐像(鎌倉時代) 像高29.0cm

大仏殿西側にある指図堂(さしずどう)に安置されていた像です。

他にも東大寺ミュージアムにはたくさんの仏像が安置されています。

【その他の国宝の仏像たち】

木造俊乗上人坐像(重源上人坐像) 国宝 鎌倉時代 像高82.5cm

 

大仏殿東方にある俊乗堂((しゅんじょうどう)に安置される像です。俊乗上人とは鎌倉時代に東大寺(大仏)を再興した重源(ちょうげん)上人のことです。通常は非公開で、毎年7月5日の俊乗忌と12月16日の良弁忌にのみ一般公開されます。ヒノキ材の寄木造の肖像彫刻です。作者については明らかではなく「運慶」または「快慶」の作ともいわれています。

 

木造良弁上人坐像 国宝 平安時代 像高92.4cm

大仏殿東方にある開山堂の八角厨子内に安置されている像で、通常時は非公開です。毎年12月16日の良弁(ろうべん)忌にのみ一般に開放されます。

 

ヒノキ材(カヤ材とも)の一木造で、両肩の外側、腰部、脚、手先などは別材を矧(は)ぎ接いでいます。

 

 

木造僧形八幡神坐像 国宝 鎌倉時代の仏師・快慶の作。像高87.1cm

 

大仏殿の西方にある勧進所八幡殿に安置されていますが、通常時は非公開です。毎年毎年10月5日のみ公開されます。

 

もとは東大寺鎮守の八幡宮(現・手向山八幡宮)の神体として祀られていた像で、明治初めの神仏分離の時に東大寺に移されたものです。「八幡大菩薩画像」をもとに重源が快慶に依頼してつくらせたものです。

 

五劫思惟阿弥陀如来坐像【重文】(室町時代)像高106cm

阿弥陀如来が修行中に五劫という長い年月考え続けたため頭髪が伸びたとされる像です。こちらも僧形八幡像と同じく10月5日のみ公開される仏像です。

 

 

東大寺周辺にはなぜたくさんの鹿がいるのか

 

奈良公園といえば皆さんやはりすぐに公園のシンボル「鹿」を思い出しますよね。

この鹿はいつからこの公園にいたのか。これははっきりしません。646年に大化の改新で力を発揮した「中臣鎌足(なかとみのかまたり)」は亡くなる間際に「藤原姓」を戴き、その後の藤原氏の全盛時代が始まります。

この中臣鎌足=藤原鎌足の長男の藤原不比等(ふひと)が藤原氏の守り神(力の象徴)として現在の奈良の公園の一角(春日山)に春日大社を建立して(768年)、藤原氏(元の中臣氏)の氏神を祀りました。

 

この一番の氏神が常陸国(茨城県)の鹿島神宮の祭神である「武甕槌(タケミカヅチ)命です。そしてこの神格化のためにタケミカヅチが白い鹿に乗って春日山に降り立ったとされています。そのため鹿は神の使いであるとされ、大切に保護されてきています。

 

でも今では1000頭近くいる鹿も必ずしも順調に守られて来たわけではありません。鹿島神宮側の記録などによれば、768年に奈良の春日大社に奉納するために多くの鹿を1年がかりで陸路で奈良の都に運んだとされています。また鹿島から奈良までの道中に鹿が途中で死んでしまったための地名など(東京都江戸川区の鹿骨(ししぼね)など)の痕跡がいくつも残されています。

 

また、春日大社側の記録によると、948年に常陸国府(現石岡市)より鹿7頭が春日大社へ送られています。また現在30頭ほどの鹿が鹿島神宮でも飼われていますが、この鹿島の鹿も絶滅の危機があり、その時は春日大社の鹿を譲り受けて現在に至っています。

 

最後に

このように東大寺の大仏殿ではないエリアにもたくさんの素晴らしい仏像が祀られていることを分かっていただけたのではないでしょうか。逆にこれだけたくさんの仏像があることを知ってしまうとたくさんの時間を確保しなければなりませんね。

仏像だけでなく春の訪れを伝えるお水取りは必見の行事です。十一面観音に対して捧げている儀式であったことを知る人はあまり多くないかもしれません。日本人であれば一生に一度訪問していただきたい行事の一つです。闇夜に火の粉が激しく舞い散る迫力もさることながらそれは仏像に対しての神事であったことを知るとより神秘的に感じると思います。

 

かつての東大寺はいわば国会議事堂や富士山と同じように国を象徴する施設や名所だったわけでひとつのお寺をピックアップするにもみどころと仏像のボリュームがありすぎて2回に分けざるを得ませんでした。ここまで読んでいただきまして誠にありがとうございます。

 

以上東大寺の歴史と仏像にまつわるレポートでした。是非、四季折々の東大寺を訪ねてみてください。

 

ならの大仏で有名な東大寺大仏殿や戒壇院の四天王の記事はこちらをご参照ください。

【見仏入門】No.5 奈良・東大寺Part.1/奈良の大仏と戒壇堂の四天王像、南大門の金...
奈良県の象徴で、仏像といえばと聞かれて日本人の多くが想像するのはこの「奈良の大仏」という人も多いのではないでしょうか? 奈良の大仏があるお寺は「東大寺(...

※この記事は日本の仏像・東大寺、東大寺HPより写真などを引用させて頂いております。

 

正式名称

金光明四天王護国之寺(東大寺)

宗派

華厳宗大本山

住所

〒630-8587 奈良県奈良市雑司町406-1 (東大寺寺務所)

電話

0742-22-5511

拝観可能時間

クチコミ


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