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【見仏入門】No.21 奈良西ノ京・薬師寺の仏像・見どころ/薬師三尊像・聖観音像・東塔に仏足石や写経など

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 今回は奈良の西部「西ノ京」に佇む有名な薬師寺(やくしじ)を紹介します。

西ノ京は奈良の都(平城京)朱雀大路(すざくおおじ)の西にあることで名づけられた名前ですが、かつては西大寺・喜光寺・唐招提寺・薬師寺などの大寺が連なっていました。

 

しかし現在残されているのは、この薬師寺鑑真和尚が建てた唐招提寺だけです。

 

この薬師寺も当時の建物は有名な東塔のみですが、近年になって昔の伽藍が復興され、当時の反映していた頃の面影を偲ぶ事ができるようになりました。

仏像としては白鳳・天平時代を代表する黒光りの金銅仏が国宝に指定され、多くの参拝客で賑わいます。今回は薬師寺のガイドです!

薬師寺の見どころ

薬師寺の見どころはなんといっても白鳳時代を代表する金銅仏の数々が圧倒的な存在感を放ちますが、仏像の紹介は最後にして、それ以外の見どころについて紹介したいと思います。

薬師寺の東塔

修学旅行などで行かれた方も、薬師寺の古塔(東塔)とまわりの景色をこの和歌と共に思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。

佐佐木信綱が詠んだ句が有名
「ゆく秋の 大和の国の 薬師寺の 塔の上なる一ひらの雲」

大小の屋根がリズミカルに並ぶ美しさを、明治時代にアメリカ人の東洋美術史家・フェノロサは、「凍れる音楽」と絶賛しました。「凍りついた音楽」の美しさとはいったいどういう意味でしょう。

人それぞれ解釈はあるでしょうが、確かに天に向かってそびえるこの塔のリズミカルな美しい造形美はまさに音楽の旋律を思い起こさせるものがあります。

そしてその塔の姿が古都の里の中にピーンと張りつめて建っていて、とても存在感のある気品あふれる姿を感じさせてくれます。そして、その塔を中心とした凛とした姿が、その回りの動きを瞬間的に凍らせてしまったように感じたのかもしれません。

 

東塔もさることながら、西塔も有名です。
この2つの塔を並べて見てみると、実際は3重の塔ですが、各層に裳階(もこし)が付けられているため、塔が6重に見えます。

相輪上部には水煙があり、4枚から成るもので、その中に24体の飛天が透かし彫りされています。

水煙とは、塔の相輪上部に付けられた火焔形の金属製の飾り彫刻のことを指します。ここでは、雷や火災から塔を守る水がモチーフになっています。塔の高さは34m。各層に見る垂木なども、圧巻です。

薬師寺は三蔵法師とゆかりがある

 

 

薬師寺の伽藍の北側には「玄奘三蔵院」があります。玄奘三蔵は孫悟空などに登場する三蔵法師のモデルといわれますが、629年(27歳)に中国から密出国し、3年かけてインドへ旅します。そして、仏像・仏舎利のほかサンスクリット(梵語)の仏経原典657部を携えて、645年に長安の都に戻ってきました。玄奘は帰国後、持ち帰った仏典の翻訳(漢訳)に残りの生涯を賭けますが、全体の1/3ほどに過ぎなかったといわれています。また玄奘三蔵法相宗の始祖に当たります。

 

1942に南京に駐屯していた日本軍が土中から玄奘三蔵の頂骨を発見し、その一部を1944年に全日本仏教会にも分骨されました。この骨を納骨するために薬師寺「玄奘三蔵院」が建設されたのです。ここにはシルクロード画家として名高い「平山郁夫」画伯が描いた、玄奘三蔵求法の旅をたどる「大唐西域壁画」があります。場所は、玄奘塔北側にある大唐西域壁画殿ですが、公開は期間限定ですので寺のHPなどで確認してからお出かけください。

また、玄奘三蔵の弟子で法相宗の始祖「慈恩大師」像があり、国宝に指定されていますが、こちらの像は一般公開されていません。

 

薬師寺へのアクセス

 

 薬師寺へのアクセスは京都駅または近鉄難波駅から近鉄の快速急行または特急で「大和西大寺」乗り換え、各駅停車天理行きまたは橿原神宮前行きに乗り、「西ノ京駅」で下車。

西ノ京駅東側の目の前が薬師寺の裏門です。

しかし、裏門から入らずに、線路の西側に沿って100mほど南に行き、線路を渡りなおして少し東に行ったところにある「南門」が寺の正門ですので、こちらから入ることをお勧めします。

 

この南門は江戸時代初期の1650年に西院の西門を移築したものです。

寺の伽藍配置はこの南門からはいるとすぐに「中門」があり、正面に「金堂」、左右に「西塔」「東塔」があります。

 

この中門も1984年に、西塔に引き続き復興されたものです。また、1991年に「二天王像」も復元されました。中門・講堂を巡る回廊も再現されています。

 

薬師寺の駐車場

薬師寺には、境内の道路を挟んで南側に大規模な駐車場が整備されています。周辺に無料駐車場はなく、全て有料です。

 

薬師寺の歴史

 

 薬師寺は680年に、天武天皇皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して、飛鳥藤原京に創建され、698年に持統天皇によって本尊開眼が行われました。

 

そして、710年に都が平城京に遷都されたため、薬師寺は718年に現在の地に移建されます。その後、現在も残る東塔(国宝)が730年に建設されました。

 

 

奈良時代の最盛期であった「天平時代」には、南都七大寺(東大寺,西大寺,法隆寺,薬師寺,大安寺,元興寺,興福寺)の一つに数えられました。薬師寺興福寺とならんで法相宗(ほっそうしゅう)の大本山です。

その後、973年の火災で食堂(食堂)、講堂、三面僧坊、回廊、経蔵、鐘楼、中門、南大門などが焼けてしまいました。

 

その後1013年までに各建物は再興されましたが、地震による倒壊などもあり、さらに1528年の戦火で、東塔(730年建設、【国宝】高さ約34m、三重塔)を残して、ほとんどの建物は失われました。

 

西塔は、1981年に再建されたものです。「青(あお)」「丹(に)」の色使いがされており、一般に奈良の枕詞でもある「あおによし」を再現したものといわれています。

 

万葉集に「青丹よし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり」(小野
老:おののおゆ)と歌われている通り、昔の文化が花開いた平城京の当時を思い出させてくれるでしょう。

 

 

さて、この国宝の東塔は三重塔なのですが、実際は各層に小屋根(裳階:もこし)を付けているため六重塔に見えます。記事を執筆した2018年現在、東塔は解体修理されており、修理の完成は2020年とのことです。

薬師寺も奈良の修学旅行の見学先の定番で、訪れた方も多いと思います。特に高田好胤(たかだこういん)薬師寺の副住職になった1949年以降、好胤は修学旅行生に分かりやすい法話をすることで大変親しまれ、「話の面白いお坊さん」、「究極の語りのエンタテイナー」とも呼ばれました。1998年(平成10年)に病気で亡くなられ(遷化)ますが、最後まで薬師寺の復興に力を注いでいました。

「高田好胤」の画像検索結果

 

この好胤師が亡くなられた平成10年に、薬師寺はユネスコ世界遺産に登録されています。また薬師寺のすぐ北側には唐招提寺がありますので、是非同時に拝観されると良いと思います。

薬師寺の仏像の詳細

いよいよ仏像の紹介です!薬師寺にはイケメン・美仏と称された白鳳時代の仏像がなんといっても見どころです!

薬師三尊像【国宝】(奈良時代 銅造)〈像高:薬師如来254.7cm 日光菩薩317.3cm 月光菩薩315.3cm〉金堂安置

(向かって左から、右脇侍:月光菩立像、中尊:薬師如来坐像、左脇侍:日光菩薩立像)

 

 金堂内の白大理石須弥檀(しゅみだん)の上に、本尊の薬師如来像と両脇に日光・月光菩薩(全て銅像)が配置されています。

度重なる火災によって今現在は黒光りする姿になっていますが元々は金メッキ加工によって金色に輝いて人々を照らしていたと考えられています。蝋型の鋳造方法によって作られていて均整の取れた体肉の弾力感、薄い衣それを透かして見えるやわらかな体の線、どれをとっても写実性が高く、金属で作られていることを感じさせません。日本随一の金銅仏と表されていて美人だともイケメンだとも言われています。和辻哲郎さんは「古寺巡礼」の中で、“とろけるような美しさだ”と表現しました。

 

胸板も厚く男性的ともいえる堂々とした本尊(薬師如来坐像)に対し、両脇侍である日光菩薩・月光菩薩は少し首と腰をひねって、すらっとした立ち姿です。

頭、上半身、下半身がそれぞれ異なった方向に傾いており、これは「三曲法」と呼ばれています。このポーズについては、インド・グプタ朝の彫刻様式の影響が、唐(中国)を経て日本へ伝わったものと言われています。

薬師三尊の安置されているこの内陣は1015年に書かれた薬師寺縁起では「瑪瑙(めのう)を以て鬘石(かつらいし)となし、瑠璃(るり)を以て地となし之を敷く、黄金を以て縄となし、道を堺し蘇芳(すおう)以て高欄(こうらん)をつくり紫檀(したん)を以て内陣天井障子となす」とありますので、当時は、かなり豪華で輝く内陣に黄金の輝くばかりの薬師如来像であったことがわかります。

像の制作年代についてはいくつかの説があり明確ではありませんが、天武天皇皇后の病気の回復を願って、飛鳥時代に創建、その後平城遷都に伴って現在の場所に移転、そして今日に至ります。そのため薬師三尊像の制作年代は白鳳時代に飛鳥から移してきたと言われる説と天平時代に真鋳したという説に分かれています。

 

この制作時期は日本の仏像彫刻が、まだ中国(六朝や唐)の影響を受けながら独自の古典様式が完成された、最高傑作の1つというのは間違いない事実のようです。

 

 また、中尊の薬師如来については、東塔の屋上にある相輪支柱に刻まれた「東塔檫銘(さつめい)」に「巍巍蕩蕩(ぎぎとうとう)たり薬師如来、大いに誓願を発し、広く慈哀を運(めぐら)す」と彫られています。

巍巍(ぎぎ)」とは高い峰のように大きく堂々としている様子であり、「蕩蕩」は大河のように広くゆったりとした様子を表しています。

飛鳥時代初期の仏像に比べて、より人間に近い肉感的な表現がされており、また衣文の模様ははっきりと深く刻まれて下り、中国のの初期の様式が影響していると思われます。

また台座も国宝に指定されています。

この台座には、奈良時代における世界の文様が集約されています。各面の中央には、インドから伝わった力神(蕃人:ばんじん)の裸像が浮彫りされ、一番上の框(かまち)にはギリシャの葡萄唐草文様(ぶどうからくさもんよう)があり、その下にはペルシャの蓮華文様(れんげもんよう)が見られます。

さらに、下框には、中国の四方四神(東に青龍:せいりゅう、南に朱雀:しゅじゃく、西に白虎:びゃっこ、北に玄武:げんぶ)の彫刻がなされています。これはまさに、シルクロードが奈良まで続いていた証拠だと考えられています。

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聖観音立像【国宝】(奈良時代 銅造)〈像高:188.9cm〉 東院堂安置

 

 東院堂の本尊です。飛鳥時代後期(白鳳期)または奈良時代(7 -8世紀)の作で、この像は東院堂が養老年間(721年頃)に元明太上天皇の病気平癒のために建立された時より前の制作ではないかと見られています。(現在の東院堂は鎌倉時代に再建された)。

 

このため、この像が当初から東院堂の本尊であったかどうかは確証されていないということです。

製法は蝋型鋳造による銅像で、右手先や天衣遊離部などを別鋳しています。また、光背は木造で、近世に後補されたものです。

この聖観世音菩薩は日本屈指の美しい観音像といわれ、薄い衣を身に着けていて、その美しい襞(ひだ)の流れの下から足が透けて見える彫刻法が行われており、これはインドのグプタ王朝(4~6世紀)の影響を受けたものと見られます。また体の表現も薬師如来像よりも更に人体的な表現が進んでおり、中国の初唐末期から盛唐初期(7世紀末)頃の影響も見て取れます。

 

その一方で腰のくびれやひねりなどの要素が無く、飛鳥時代前期様式を思わせる古い要素もみられます。

休ヶ岡の神像【国宝】三体<奈良国立博物館寄託>

神功皇后(じんぐうこうごう)像【国宝】(平安時代 木造彩色)〈像高:35.8cm〉

僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)像【国宝】(平安時代 木造彩色)〈像高:38.6cm〉

仲津姫命(なかつひめのみこと)像【国宝】(平安時代 木造彩色)〈像高:36.0cm〉

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(左から仲津姫命像、僧形八幡神像、神功皇后像)

 

 南大門の少し南に薬師寺を守護する休ケ岡八幡宮があります。ここに三体の国宝指定の神像が安置されています。神像三体はいずれも30~40cmほどの小像で一木彫の彩色像です。またこれらの像は神社の奥深く安置されていたために彩色が良く残されています。

休ヶ岡八幡宮は、寛平年間(889~898)に薬師寺を守護する鎮守社として、薬師寺別当の栄紹(えいしょう)大法師により、大分県宇佐八幡から現在地に勧請(かんじょう)されました。そして八幡宮の祭神である「僧形八幡神・神功皇后・仲津姫命」を祀ったものといわれています。三像とも平安時代前期の寛平年間(889~898)の八幡宮創建の時に作られた物と見られています。

現在、これらの神像は奈良国立博物館に寄託されています。奈良国立博物館では「なら仏像館」でほぼ毎年数ヶ月間展示されていますので、拝観するならそちらの情報をウォッチしておく必要があります。

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また「休ヶ岡」の名前の由来は九州宇佐八幡から東大寺八幡(手向山神社)に向かう途中にここで休まれたという古事から名づけられたものです。

現在の休ヶ岡八幡宮の社殿は豊臣秀頼により1603年に建てられた建物です。

本殿・脇殿とも小高い石積みの壇上に建っており、中世に始まった宮座(みやざ:氏子の代表たちが氏神の神事を行う祭祀(さいし)の集団)が受け継がれている貴重な歴史文化遺産とされています。

神功皇后(じんぐうこうごう)は、仲哀天皇の皇后で応神天皇の母とされています。また実在したかどうかは諸説あります。また仲津姫命(なかつひめのみこと)応神天皇の皇后で仁徳天皇の母といわれています。

神功皇后は左膝を立て、仲津姫命は右膝を浮かせて座っており、両像ともに頭上には髻(もとどり)を結い、豊かな髪を長く垂らしています。また肌の色は両者異なりますが、衣服もほぼ共通しています。

講堂三尊像【重文】(奈良時代 銅造)〈像高:中尊267.5cm 左脇侍288.7cm 右脇侍301.4cm〉

 大講堂安置

 

この講堂に祀られている三尊像は、阿弥陀三尊像とか薬師如来三尊像と呼ばれていましたが、薬師寺は法相宗の大本山ですので、本尊としては弥勒仏(みろくぶつ)をお祀りするのが本来の在り方ということで、弥勒三尊像といわれています。呼び名も、向かって右は法苑林菩薩(ほうおんりんぼさつ)(左脇侍)で、左は大妙相菩薩(だいみょうそうぼさつ)(右脇侍)です。

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 薬師寺がこの地に移された天平時代には、西院正堂(さいいんしょうどう)の本尊は弥勒浄土相の障子絵でした。またこの大講堂に安置されている三尊像は、近世の早い頃から西院弥勒堂に安置されていた仏像でした。

ところが江戸時代になって講堂を再建する時に、もとの講堂本尊の阿弥陀繍帳にちなんで阿弥陀三尊と名称を変えて安置されました。さらに明治以降は、本薬師寺旧仏とのからみから薬師三尊と名称を変えて安置されてきたのです。

そして2003年に大講堂が復興された時に、法相宗の薬師寺ということで、もとの西院弥勒堂のご本尊の由緒を継いで本来の正しい名前(弥勒三尊)に戻されたものです。

佛足石【国宝】(奈良時代 753年 石造)〈高さ 69.0cm 奥行 74.5cm 幅 108.0cm〉

佛足跡歌碑【国宝】(奈良時代 石造)〈高さ 194.0cm 幅 48.5cm〉大講堂安置

仏足石は、お釈迦様の足跡を刻んだ石です。お釈迦様の死後数百年の間は、仏像ではなく仏さまの足跡を石に彫ったり、菩提樹(ぼだいじゅ)や法輪に祈りを捧げてきました。

この仏足石は753年の制作と刻まれた年代から判っていますが、奈良時代に宮廷に仕えた官人の黄書本実(きぶみのほんじつ)が唐で写し持ち帰った仏足跡を、天武天皇の第7皇子である長皇子(ながのみこと)も子とされる文室真人智努(ぶんやのまひとちぬ)が夫人の追善のために写させたものです。

仏足跡歌碑は、この仏足石とともに伝来したもので、高さ194cmの石碑に仏足跡を称える歌など21首の歌を万葉仮名で刻んでいます。

ここに刻まれた歌はいずれも通常の和歌より1句多い「五・七・五・七・七・七」の歌体になっていて、「仏足跡歌体」と言われています。

その他薬師寺には以下の重要文化財に指定されている仏像(木造)があります。

文殊菩薩坐像(奈良時代、乾漆盛上 漆箔 像高 62.5cm)

 

弥勒菩薩坐像(鎌倉時代、漆箔 像高 87.5cm)

 

これらの他にも歴史ある薬師寺にはたくさんの仏像が伝わっています。

その他の薬師寺伝来の仏像

地蔵菩薩立像(平安時代、彩色 像高 95.7cm)

地蔵菩薩立像(鎌倉時代 1240年、彩色 像高 97.3cm)

地蔵菩薩立像(室町時代 1564年、像高 153.5cm)

四天王立像(三軀)(平安時代、彩色 漆箔 像高 110.0、113.3、91.0cm)

吉祥天立像(平安時代、古色 像高 60.3cm)

十一面観音菩薩立像(奈良時代、古色 像高 191.5cm)

十一面観音菩薩立像(平安時代、彩色 像高 165.5cm)

十一面観音菩薩立像(平安時代、彩色 像高 180.3cm)

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以上、薬師寺の歴史や仏像のご紹介でした。

薬師寺は、南都七大寺の1つです。1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されています。是非訪れられ、歴史を感じてみてはいかがでしょうか。

 

薬師寺をもっと知りたい

薬師寺の御朱印

薬師寺の拝観料金、時間、宗派、電話など

正式名称

薬師寺

宗派

法相宗大本山

住所

〒630-8563 奈良県奈良市西ノ京町457

電話

0742-33-6001

拝観時間・料金

8:30~17:00(拝観受付16:30分まで)

1/1~1/8、3/1~6/30、8/13~8/15、9/16~11/30を除く通常拝観券
(白鳳伽藍のみ拝観可)

大人800円(720)、中高生500円(450)、小学生200円(180)
※()は25名以上の団体料金

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