No.45:岐阜・飛騨国分寺の仏像/薬師如来坐像、阿弥陀如来坐像、聖観音菩薩立像、御朱印など


飛騨国分寺は奈良時代に全国に建てられた官寺である「国分寺(国分僧寺)」の一つです。現在ではそれらの国分寺はほとんどが姿を消してしまいましたが、姿は変われども建設当時の寺を継承していると考えられる全国でも珍しい貴重な寺です。

本尊の薬師如来像と近くに建設された国分尼寺(高山駅の西、岡本町2丁目)に伝わっていたとされる聖観音像がこちらに残されているという大変珍しい寺です。

飛騨高山といえば昔の街並みや商店にグルメ、そして白川郷や山の美しさなど観光には事欠きませんので、是非、飛騨観光がてらこちらのお寺で平安古仏を拝顔してみてください。

 

飛騨国分寺へのアクセス

飛騨国分寺はJR高山本線高山駅から北東方向に歩いて5分くらいの町中にあります。

境内には樹齢1250年ほどといわれている大イチョウ(国の天然記念物)があります。

このイチョウはこの国分寺が建立されたころに植えられ、残されてきたものだといわれています。

入口山門を潜ると、鐘楼門(高山城より移設)があり、その後ろに大きなイチョウの木がそびえています。樹勢もよくすばらしいイチョウの木です。鐘楼門の右手には岐阜県で唯一の三重塔が建っています。

境内はそれほど広くはありませんが、奈良時代に建てられた頃の金堂の礎石の上に現在の本堂が建っているのです。

寺の場所は駅から近い高山の市内ですので、昔の趣を残す飛騨の街並みやグルメ食べ歩きなどの楽しみもありますが、江戸時代に取り壊された高山城の跡(城山公園)なども比較的近いので飛騨高山観光のついでに立ち寄ってみるのもよいかもしれません。

仏像の拝観は本堂に向って左手の庫裏(くり)に申し出てください。仏像は本堂内の内陣に安置されています。中央に薬師如来坐像と、その向って右に聖観音立像、左に阿弥陀如来像がそれぞれ厨子内安置されています。明かりに照らされていて比較的近くで拝観できます。

この国分寺の大イチョウには、次のような昔話があります。

「国分寺を建立する時に、同時に七重塔を建てたのですが、この塔を建てるときに、棟梁は毎日精魂込めて建築部材の準備をしていました。さあ木取りも終わり、これから塔を組み立てることになったのですが、寸法を確認すると、どの柱も本の少し短いのです。

すっかり血の気がうせてしまった棟梁をみて娘の八重菊が訳を尋ねました。

訳を話した棟梁に娘の八重菊はある提案をしました。それは「短い分だけの桝組(ますぐみ)を造ったらいかがですか」というものでした。

枡組はいまでもお寺や神社の建物に使われていて、見たことがあると思いますが板を十字に組み込んで屋根などを支えている建築部材です。

この提案で、早速試してみるとちょうど良い寸法になったのです。そして七重塔は見事に完成し無事を得たのです。しかし、このことが知られては困ると、棟梁は娘の八重菊を殺して、この塔の近くに埋め、そこにイチョウの木を植えたのです。今もこの大イチョウがそびえ、このイチョウからは女性の乳に似たようなコブが垂れ下がっています。この木を拝むと、乳の出が悪い女性も乳の出がよくなるといわれています。」

さて、こんな話は他のお寺にもありましたね。イチョウも古木になると乳のような枝がたくさん垂れ下がり、乳根(ちちね)と呼ばれています。

飛騨国分寺の歴史

奈良朝を開いた聖武天皇は仏教を日本全国に広めて、この国の人心の安定を図ろうと計画しました。そして741年に全国(68カ国)の国府に国分寺(国分僧寺)七重の塔、それに国分尼寺を建てるように命令を出したのです。そして自身の都には国分寺の総本山として東大寺を、国分尼寺の総本山として法華寺(聖武天皇の妻である光明皇后が開基)を建立しました。

この国分寺(僧寺)や国分尼寺は地方財政の負担もあり、建設するための人数も足りず命令とおりにはなかなか進まなかったようです。747年には督促命令も出しています。

この時に、飛騨国(現在の岐阜県北部)にも現在の高山市に「飛騨国分寺」建設されたのです。

実際に建立されたのがいつなのかは明確ではありませんが、寺伝では757年に行基菩薩により建立されたとされています。

さて、飛騨国の国府はいまだ場所が特定されていないようですが、当初はもう少し北の国府町という辺りにあったらしく、JR高山線でも2駅先が「飛騨国府」という駅になっています。しかし、総社といわれる神社も現在の高山市内にあり、国分寺もこちらにあります。

これは仙台の国府が多賀城なのに対し、国分寺、国分尼寺が仙台にあるのと似ています。

記録ではその後、819年8月に飛騨国分寺炎上という記録が江戸時代の歴史書「日本逸史(1692年)」に書かれており、七重の塔はじめ本堂(金堂)などのほとんどが炎上してしまったようです。

そして、寺が再建されたのは30年ほど後の855年前後だと見られています。この時に国分寺の金堂の礎石の上に本堂(現在残されている【重文】)が建てられ、七重の塔の場所には、替りに三重塔が建てられました。

また応永年間(1394年から1428年)には兵火でやはり被害を受けたようですが、すぐに再建されています。その後また、戦国末期(1585年)に戦火で被害を受けています。

江戸時代になり、1615年に修理・再建されています。

現在の三重塔ですが、1791年に暴風雨で倒壊し、1821年に現在の三重塔【県指定文化財】が再建されました。

 また江戸初期より7代にわたって高山城を預かっていた金森氏が1692年に出羽国上山藩への国替えとなり、その後高山城主は加賀藩主前田綱紀が兼務と成りました。

しかし、1695年には飛騨地方が天領(江戸徳川幕府が管理する領地)となったため、高山城は幕府の命令により取り壊されたのです。この取り壊しの際に城の建物の一部が飛騨国分寺に移築され、鐘楼門などとして残されています。

この国分寺(僧寺)は中央政府が人心の掌握を目的に建てられたもので、全国的に見ると一定の役目をしましたが、所詮、官寺(お上の寺)であり、律令体制がゆるんでくると、次第に民間信仰に移っていき、平安時代半ばまでの200~300年の間に徐々に廃れていったようです。

そのため、全国の国分寺や国分尼寺が基礎を残してほとんど姿を消しています。そんな中で、「飛騨国分寺」は国分寺が元あった場所に再建され、大変貴重な存在だと思われます。

樹齢1250年以上といわれる大イチョウが境内にあり、飛騨地方唯一の三重塔があります。

また平安時代の仏像が、国分寺本尊の「薬師如来坐像」をはじめ、国分尼寺の本尊といわれる「聖観音菩薩像」が残されているのも大変珍しく、貴重なものです。

飛騨国分寺の仏像の詳細

飛騨国分寺で住職ご説明で平安時代の仏像を参拝させていただ中央の薬師如来坐像は昭和まで 秘仏であったためとても綺麗な姿。右隣の聖観音立像は非常に大きな観音像で同じ岐阜の願興寺の諸像が思い浮かびました。国分寺はやはりすごい!

薬師如来坐像【重文】(平安時代 一木造)〈像高145.7cm〉

薬師如来像はこの国分寺の本像で、寺伝によると、寺の開祖といわれる「行基菩薩」が一刀三礼して彫った像と伝えられています。

しかし、実際の制作は平安時代に制作されたものだと見られています。

光背と蓮台は江戸時代の1715年に後補されたものです。

また長い間秘仏として公開されてきませんでしたので、比較的保存状態がよい像です。

 病気にご利益があるという薬師如来は東方浄瑠璃界の教主ですが、全国の国分寺の多くにこの薬師如来が祀られていました。

丸い穏やかな顔つきにはっきりした目鼻立ち。平安時代後期の一木造りの像で、中央から持ってくるには大変であるため、こちらの地元で中央の仏師により製作されたものだと考えられます。どっしりとした体つきですが、横から見ると少し体は少し平たく感じます。

聖観音菩薩立像【重文】(平安時代中期 一木造)〈像高204cm〉

 像高が2mもある大きな一木造の仏像です。伝承ではありますが、近くにあった飛騨国分尼寺の本尊で春日仏師の作と伝えられています。

この像は戦国時代末期の天正年間に、市内上岡本地内にある「辻ヶ森観音堂」より移されたといわれています。この辻ヶ森観音堂跡にはたくさんの礎石が存在し、国分尼寺が会ったと推定されています。

丸顔の直立姿勢の聖観音像ですが、当時の国分尼寺に伝わる像はほとんど無く、この肉つきの良い優美な姿は当時の国分尼寺の仏像の姿を今に伝えるものとしてたいへん貴重な存在です。

阿弥陀如来坐像【県指定】(平安末期~鎌倉時代初期? 伝恵心僧都作)〈像高 約60cm〉

 

 

平安時代中期に恵心僧都(えしんそうず)と呼ばれた天台宗の僧「源信(げんしん)」の作と伝えられる阿弥陀如来像です。

ただ、制作されたのは定朝様式の室町末期から鎌倉時代にかけての頃ではないかと考えられます。

昔、国分寺の持仏堂にあった本尊で、持仏堂が1791年に焼けてしまい、こちらの本堂に安置されるようになったと見られます。この持仏堂が炎上したときに、この像は自ら庭の桜の木の下に避難して無事だったと言い伝えられています。の

比較的小さな像ですが、螺髪(らほつ)は比較的大きく、なで肩で胸は大きく引き締まった腰をしており、おだやかな眼つきの像です。また翻波式文様がはっきりと刻まれており、定朝様式の先駆をなす様式とも言われています。

不動明王立像【県指定】(鎌倉時代) 〈像高 約110cm〉

不動明王像は護摩堂の本尊で、秘仏とされています。

怖い顔をした不動明王ですが、バランスよい整った像だといえます。台座に江戸時代中期の年号が書かれていますが、鎌倉時代の作と考えられています。

弁財天像(江戸時代、円空作)〈像高 約1m〉

この飛騨国分寺でもっとも有名な像はこの円空仏かも知れません。

円空上人は江戸時代前期の僧で、日本全国をまわり、たくさんの仏像を彫っています。一説では生涯に12万体もの仏像を彫ったとも言われ、見つかっているだけでも5000体以上になり、岐阜県にも1000体ほどの円空仏が残されています。

地元では、円空上人は飛騨の山奥で修行をし、ナタ1本でたくさんの仏像を彫刻したたが、貞享(1684年~1688年)の末頃に高山城が壊されることを予見し、この地を去ったと伝わっています。

この弁財天は飛騨に在留していた頃の作で、1mほどある比較的大きな像です。

笑い顔に特徴がある人間味豊かな作風を感じることが出来ます。

 

飛騨国分寺のご朱印

飛騨国分寺の拝観料金、時間、宗派、電話など

正式名称

醫王山 飛騨国分寺

宗派

高野山真言宗

住所

〒506-0007 岐阜県高山市総和町1-83

電話

0577-32-1395

拝観時間

拝観:9:00~16:00 (本堂)
本堂拝観を寺務所で受付

拝観料金

300円

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