「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」
これは、ご存知正岡子規の代表句ですね。
今回ご紹介するするのはこの句に詠われた法隆寺(ほうりゅうじ)。別名「斑鳩寺」とも呼ばれる古都・奈良を代表する、斑鳩の里にある寺院です。ユネスコの世界遺産として日本で最初に登録された法隆寺の広い境内には、日本最古の木造建築として知られる五重塔をはじめとして、貴重な建築物、仏像などの国宝・重要文化財が190件も。
さあ、飛鳥の至宝、斑鳩の仏像ワンダーランドへ出発です!
法隆寺へのアクセス
法隆寺へはJR奈良駅、または近鉄奈良駅からバスで法隆寺前までバスで1時間ほど。また電車ならJR奈良駅から法隆寺駅まで約10分で、さらに法隆寺駅からバスか徒歩で向かいます。徒歩なら20分といったところ。私的なオススメとしては駅前レンタサイクルショップもあるので、法隆寺周辺の風景を味わいながらレンタサイクルで周遊するのもオススメ!
[aside type=”normal”]法隆寺とあわせて訪問したい寺院
中宮寺、法輪寺、法起寺、吉田寺、融念寺(要予約)
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他の観光地との組み合わせでいくつかのアクセスルートがあるので、ベストの経路を見つけてください。また、寺の敷地は約18万7千㎡もあるので、見学には最低でも1時間半は必要。往復時間も合わせて時間配分には気をつけましょう。
法隆寺の駐車場
法隆寺の駐車場はお寺の南側の沿道にある有料観光駐車場を利用することになります。収容台数は120台程度停めることができます。
よほどのことがなければ停められないということはないと思います。(駐車料金:600円程度/日)
法隆寺の歴史
法隆寺は推古天皇(すいこてんのう)と聖徳太子が607年に寺を建立し、薬師如来像を祀ったのが始まりと言われます。聖徳太子の父である用明天皇(ようめいてんのう)が自分の病気平癒のため建立を発願しながらも、志半ばで崩御(ほうぎょ/天皇が亡くなること)したため、その遺志を二人が継いだわけです。
日本書紀によると670年に落雷による火災で法隆寺の伽藍や塔が消失しましたが、その後比較的早く再建され、それらの建物の多くが当時の姿に近い形で現在に至っています。
世界遺産に1993年に登録
法隆寺は世界最古の木造建築であり傑作であること、日本と中国、東アジアにおける文化交流を示すものとして1993年、世界文化遺産に登録されました。特に西院伽藍における建築はギリシャのパルテノン神殿にも見られる柱の真ん中に膨らみを持たせた柱である「エンタシス(entasis)の柱」と呼ばれています。

この法隆寺が世界遺産となっていることは有名ではありますが、法隆寺の北側にある法起寺も法隆寺と同じく世界遺産に登録されています。
法隆寺の伽藍
法隆寺の入り口には1438年建造の南大門(国宝)があります。一度焼失した南大門に替えて別な門を移築したものだそうです。
南大門を入って正面に見えるもう一つの門が中門。でも、見学者は、左にまがった回廊の西南部の入り口から境内に入ることになります。法隆寺の中心は西院伽藍。先述した670年の落雷火災後に再建されたとのことです。
金堂や五重塔があるのはこの西院伽藍で、少し離れた所に東院伽藍があります。こちらは738年頃に高僧行信(ぎょうしん)が聖徳太子を偲(しの)んで建立したもので、元々は別寺院でした。この地には聖徳太子らが暮らした宮殿「斑鳩宮(いかるがのみや)」があったそう。西院から東大門を出て広い石畳の道を進むと、東院伽藍の四脚門に行き着き、そこから東院の中心となる八角形の夢殿(上宮王院夢殿・国宝)が見えます。
法隆寺の仏像について
法隆寺の西院伽藍は、現存する世界で最も古い木造建造物群と言われていますが、建築物だけではありません、その中には多くの宗教的にも文化的にも貴重な仏像が祀られています。もりだくさんなので場所ごとに仏像を紹介していきます!
法隆寺中門
法隆寺中門/塑造金剛力士立像 2躯(吽形躰部木造)【重文】(奈良時代)
二階建ての門で各階に屋根が備え付けられている二重門(国宝)です。入り口の両サイドにある阿形・吽(うん)形の一対の仁王像は711年の建立。どちらも塑像(木もしくは金属の芯の上から粘土で肉付けした像)です。さて、この一対の仁王像はスゴいんです。何がスゴいかというと、造られた711年から現代まで、ずっとほぼ野ざらしに近い状態で安置されていたのに、まだ頑張って私たちにその姿を見せてくれているということ。朱色の阿形も黒色の吽形も、塗りは相当に落ち、吽形像はすでに16世紀に顔以外の部分が木造に作り替えられています。しかし、それでも造像した人たちの技をしっかりと伝える力強い姿は感動ものです。雨の中、風の中、1300年立ち続ける現存する最古の金剛力士像。ひと目お会いしておきたいですね。もしかしたら、パワーをお裾分けしていただけるかも。
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金堂
法隆寺には本堂はなく、この金堂が本堂と同じ位置づけです。
金堂には、中の間、東の間、西の間の内陣があり、それぞれに釈迦三尊像(国宝)、薬師如来像(国宝)、阿弥陀三尊像(重文)が祀られています。国宝の仏像は日本に仏教が伝来した少し後の製作との銘ですが、これには諸説ありもう少し年代が後の7世紀後半という説もあるようです。しかし、いずれにしてもほぼ最古の仏像の部類に入る像たちです。日本における仏像のルーツともいえる仏さまたちにはぜひ対面してみたいですね。
法隆寺金堂/銅造釈迦如来及び両脇侍像【国宝】(飛鳥時代)〈鞍作止利作〉
金堂中の間にある釈迦三尊像の製作年代は623年。銅造鍍金(めっき)仕上げの像で、いわゆる金銅仏です。中尊は釈迦の姿でありながら、その追善のために造像した聖徳太子の等身大像でもあります。独特の像容は渡来人である止利仏師の作風です。その特徴の一つが、名画「モナリザ」でも知られるアルカイックスマイル。微笑んでいるのかいないのか、と言われるほど微かな微笑みをたたえた釈迦像のお顔をよく見てくださいね。目もカーブが美しいアーモンドのような形です。
また、写実というよりは絵画的な衣の裾の紋様が特徴的。中尊の両脇にはイラン風の冠をつけた脇侍が立っており、寺伝では「薬王菩薩・薬上菩薩」とされています。通常左右対称に造られる両脇侍ですが、この2体については、どちらも同じ構えを見せています。大陸からの影響を強く受けた三尊像は、金堂中の間を異国情緒で満たしています。像高は中尊が87.5cm、左脇侍(向かって右)が92.3cm、右脇侍(向かって左)が93.9cm。
法隆寺金堂/銅造薬師如来坐像【国宝】(飛鳥時代)
金堂東の間本尊の製作年代は、光背の裏の銘文を信じれば607年の造像。金堂の釈迦三尊像よりも古いものとなりますが、造像年については疑問の声が上げられていることも事実です。作風や技法から見ると、7世紀後半くらいではないかと言われています。なんとなく釈迦三尊像の中尊のお顔に似ているように見えるこちらの像は、比べると衣の紋様の様子や顔が丸顔なところが実は違う、というのがわかってくるはず。金銅仏で像高は63.8cmです。
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法隆寺金堂/銅造阿弥陀如来及び脇侍像2躯【重文】(鎌倉時代)〈康勝作〉
金堂西の間の本尊は阿弥陀如来。本尊と脇侍2像は鎌倉時代の1232年の造像です。
法隆寺金堂/四天王立像【国宝】(飛鳥時代)
クスノキ材の一木造りで造像された四天王です。金堂に安置されています。この四天王像は日本最古の四天王。やはり古い造像年のものは、後年に造られた像とは違う点もいくつかあります。
なんと言ってもその表情やポーズが違います。後年に造られた四天王というのは、怒りの表情で、暴れる邪鬼を踏みつける動きのあるポーズがお約束のようになっていますが、こちらの像は違うんです。両脚を揃えて静かな表情でおとなしくしている邪鬼の上にスッと立っているかんじ。実は邪鬼たちは手かせ足かせによって動けなくされて、すっかり観念しているようです。だから四天王も静かに立っていられるのかもしれません。また、後世の四天王像は中国風の皮の甲胄を着用しているというのがよくあるパターンですが、こちらの四天王像はそれらとは違うもっと古い時代の甲胄で、着物のような柔らかな袖部分も見える姿です。ちょっとひと味違う国内最古の四天王像をお見逃し無く。
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こちらの金堂にはこのほかに平安時代の作である「木造毘沙門天立像」(国宝)「吉祥天立像」(国宝)が安置されています。
法隆寺五重塔(仏塔)
法隆寺の五重塔の外観の美しさに目を奪われることは間違いありませんが、五重塔は仏塔ですから塔の下には仏さま(仏陀)の遺骨が6粒納められているのだそうです。
そして、実はこの塔内部に80件も国宝仏像があるというのですから、まさに五重塔は宝塔です!
法隆寺五重塔/塔本四面具涅槃塑像群【国宝】(飛鳥時代)
次に五重塔の初層(入って少し上った1階部分)では心柱を4本の柱が囲むようになっていて、心柱の四方には洞窟のような舞台を造って、仏教における説話をテーマとした釈迦の生涯の4つの場面を塑像(粘土による彫像)の群像で再現シーンにして見せてくれます。711年に造像されたこれら塑像群は、塔本塑像と呼ばれます。
その4つの場面とは、
東面:維摩詰(ゆいまきつ)像土/文殊菩薩と維摩居士が問答する場面、
北面:涅槃(ねはん)像土/釈迦の入滅したときの釈迦涅槃(ねはん)像と弟子たちの嘆きの姿、
西面:分舎利仏土/北面の涅槃後の荼毘(だび)と仏舎利(ぶっしゃり)の分割場面、
南面:弥勒仏像土/釈迦入滅後56億7千万年後に弥勒如来があらわした浄土の世界
です。
現在は金網越しでの拝観となりますが、このような塔の初層仏が残されているところは他にはなく、法隆寺を訪れたら是非とも訪れたい場所です。
また、北面の涅槃像土には異星人ではないか、とネット上でも話題になっている不思議な姿の侍者の像も紛れています。あなたは見つけることができますか?
大講堂
法隆寺大講堂/薬師如来及び両脇侍坐像【国宝】(平安時代)
薬師如来像は講堂が再建された990年頃の作で、台座から光背先端までの高さが4mにもなる大きな像です。薬師如来はふっくらしていて優しいイメージの仏さま。頭の肉髻(にくけい)と呼ばれる盛り上がる部分の高さが低いのが平安時代の仏像の特徴です。
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中尊と脇侍とは作風が異なるので、違う仏師によって造られた可能性が濃厚です。日光月光菩薩というのはわりと立っているイメージがありますが、坐像の両菩薩を拝観できるのも新鮮でいいですよ。
法隆寺大講堂/四天王立像【重文】(平安時代)
四天王像は平安時代(10~11世紀頃)の作。薬師如来が祀られる須弥壇の四隅を守る仏教界の用心棒たちです。薬師如来が全体の高さが4メートルに達するものなので、気が付きにくいかも知れませんが、四天王のメンバーいずれも2m前後の比較的大きな像です。穏やかな薬師如来と対照的に力強い四天王たち。太づくりの像で、身体の抑揚が少なく造られています。広目天像だけが作風が違うため、別に制作されたものと考えられています。彼らの足元に横たわる邪鬼たちにも注目。なんだか半ば喜んで踏まれようとしているわりと筋肉質でちょっとマゾっ気のある悪いヤツラです。
聖霊院(しょうりょういん)
法隆寺聖霊院/聖徳太子 山背(やましろ)王 殖栗(えぐり)王 卒末呂(そまろ)王 恵慈法師(えじほうし)坐像 5躯【国宝】
ここの内陣に3間の大きな厨子があります。その中央の厨子には聖徳太子像が安置され、東西の間には聖徳太子像と同時期に造像されたらしい侍者像4躯が安置されています。聖徳太子像は、頭に冠をかぶり、袍と呼ばれる衣装の袖から出した両手で笏(しゃく)を持つ束帯(そくたい)姿。正面をぐっと見据えるきりりとしたちょっとシリアスな表情の聖徳太子です。
これら5躯は全て国宝の秘仏ですが、3月21日のお逮夜法要の終了後のみ内陣にて一般公開されるチャンスがあります。
実は、聖徳太子像には附属として「木造蓬莱山及び亀座付の銅造観音菩薩立像」というのがあります。これは太子像の胎内仏。太子の像は秘仏ですから、その胎内仏はまさに秘仏中の秘仏。それにお会いする機会はなかなかないのですが、そんなことを考えながら聖徳太子像を見ると、過去からのタイムカプセルを密かに抱えていた太子像がミステリアスに見えてきますよ。
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西円堂(さいえんどう)
法隆寺西円堂/乾漆薬師如来坐像【国宝】(奈良時代)
西円堂は西院伽藍の丘の上に建つ八角円堂です。ここには堂内いっぱいに西院の本尊である乾漆薬師如来坐像が祀られています。像高は246.3cmと法隆寺の仏像の中では最大の大きさ。また、乾漆像(主として漆と布を使い、中を空洞にした像)としては日本最大級です。この大きさの坐像は丈六(じょうろく)像と呼ばれます。
古くから「峰の薬師」とも呼ばれて親しまれてきたこの薬師如来坐像は、大きな台座の上に座っており、その台座の周りには小さな十二神将立像(重文)と千手観音立像(重文)が薬師如来坐像を守るように安置されています。薬師如来のお顔の印象は少し単調ですが、堂々としていて、眼差しは優しく、厚い胸を持つ体躯は、この前に建つ人々を温かく包んでくれます。
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上御堂(かみのみどう)
法隆寺上御堂/釈迦如来及び両脇侍像【国宝】(平安時代)
奈良時代に建立された上御堂は一度989年に倒壊して鎌倉時代に再建されています。この堂の中には、釈迦三尊像(国宝)が安置されています。
釈迦三尊像は227.9cmの釈迦如来像(中尊)と155.7cmの普賢菩薩(左脇侍)、153.9cmの文殊菩薩(右脇侍)ともに桜木の一木造ですが、かなり大きいために一部は別木を継いでいます。表面はすべて金箔に覆われ、三尊いずれも坐像です。
通常は公開されておらず、11月1日~3日のみ講堂の右奥の扉が開き、そこから上御堂に上ることが許され、一般公開されます。
一緒に見て頂きたいのが、室町時代の作である四天王像(重文)。珍しいのは右手前の持国天に踏まれる邪鬼が左手に蛇を持っていることです。なぜ蛇を持っているかのいわれは不明なんですが、訪問した際はぜひご覧あれ。
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夢殿(東院)
法隆寺夢殿/観音菩薩立像【国宝】(飛鳥時代)
両手を胸の前で組み合わせるようにして火焔宝珠を持っている立像です。頭から台座、手、持物である宝珠まで一木で作り上げ、垂髪、衣の一部は別材で造られました。衣には紋様はなく、ペルシャ風デザインの宝冠をかぶっています。おおよそ左右対称のこの像は、アーモンド型の目、アルカイックスマイルなど止利仏師の様式を踏襲。目尻はちょっとつり上がったように見えます。胸で組み合わせる手のポーズが、朝鮮半島の百済系の像に多いことから、中国の様式が百済を経て日本へやってきたと考えられています。確かに、姿はなんとなく日本人離れしているような。
この像は平安時代末期にはすでに秘仏だったそうです。ずっと法隆寺の僧たちも目にすることのなかったこの像は、1884年に古社寺調査のために訪れたフェノロサと岡倉天心によって日の目を見ることになりました。現在も秘仏となっていますが、毎年春と秋の2回のみ公開されますので、日程を確認して拝観してくださいね。
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法隆寺夢殿/行信僧都乾漆坐像【国宝】(奈良時代)
これは、法隆寺東院伽藍の創立者である行信の肖像です。もともと彩色されていた像でしたが、年月とともに殆ど色は剥落してしまいました。尖った頭頂、つり上がった目の個性的な顔つきの行信像です。
法隆寺夢殿/道詮律師塑造坐像【国宝】(平安時代)
道詮とは、859年頃荒廃してしまっていた当時の法隆寺の東院を再興した僧です。奈良時代にはよく造られたこのような塑造ですが、平安時代に造られるのは珍しいそうです。胸元にかすかに朱色を残しています。
大宝蔵院
こちらには、仏像以外にも皆さんも学校の歴史の授業や教科書で習ったことのある、あの玉虫厨子(国宝)が展示されています。この玉虫厨子には、お釈迦様が、お腹を空かせた虎に出会い、自分の体を崖から投げて虎に差し出したという、伝説の捨身飼虎図の場面が刻まれています。
法隆寺大宝蔵院/観音菩薩立像(百済観音)【国宝】(飛鳥時代)
この像は大宝蔵院の中ほどにある百済観音堂に安置され、百済観音(くだらかんのん)の名で親しまれている有名な仏像です。像高は約210cmでクスノキの一木造。
この像については寺の記録から1698年以前に、どこか他の寺から移されたとみられ、国宝指定時には「伝百済人作」として登録されました。その制作年代も不明ですが7世紀前半~半ば(飛鳥時代)の作とみられています。
法隆寺では、明治初期まで「虚空蔵菩薩像」と呼ばれており金堂北側に客仏として祀られていました。またこの像が和辻哲郎の『古寺巡礼』などで絶賛され、多くの人々に知られるようになったのです。立ち姿は独特で、ほっそりとした8頭身。右手は手のひらを上に向けるようにして肘で直角に曲げ、何も持っていません。垂直にたらした左手には水瓶(すいびょう)を持っています。飛鳥時代の仏像の一部には、同様にほっそりとしたものが見られますが、この百済観音の特異な点は、その像高が2メートルを超えているところなんです。
他の仏像を評する場合、優しさや柔らかさ、または力強さを挙げることが多いものですが、この百済観音に対してはちょっと違う印象を持ってしまいます。どこかすうううっと空を突き抜けるかのような伸びやかなイメージ。見ている自分も天に昇っていってしまうような感覚になるようです。ひと味違った魅力を見つけたいなら、この百済観音は必見。自分の目で確かめてくださいね。
法隆寺大宝蔵院/銅造阿弥陀如来及び両脇侍像等【国宝】(平安時代)<橘夫人念持仏>
光明皇后の母である橘夫人(たちばなふじん)の念持仏(ねんじぶつとは、常日ごろから身近において拝む仏像)と伝えられているこの像。高さ263cmとかなり大きな厨子(国宝/奈良時代)の中に入れられていますが三尊は像高さ60cmほどの銅造で白鳳時代末期の作とみられる、日本最古の念持仏です。この厨子と像は元々金堂に安置されていました。
阿弥陀三尊像(正式には銅造阿弥陀如来及両脇寺像)は阿弥陀如来を真ん中に(中尊)置き、その左脇侍として観音菩薩(慈悲(じひ)を表す)と、右脇侍としての勢至菩薩(知恵を表す)を配する三尊を祀る形式です。この阿弥陀座像は大きな蓮華座(れんげざ)の上にゆったりと座り、左右の脇侍も少し小さめの蓮華座の上に立った姿。これらの蓮華座は、日本では最古の仏像台座の形式とも言われ、大変興味深いものです。
透かし彫りが施された厨子は、四面の扉にも仏・菩薩・梵天・帝釈・四天王などが線描で描かれ、見所は沢山あります。
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法隆寺大宝蔵院/観音菩薩立像(九面観音)【国宝】(唐時代)
宝蔵の入り口に最も近いところに祀られる白檀(びゃくだん)を使った像高38cmほどの一木造の仏像です。九面というのは正面以外に頭部に8面の顔を持ち、全部で九面顔がある観音さま。十一面観音像は世にたくさんありますが、九面観音像は日本ではとっても珍しいんですよ。もっとも、中国には九面の像も多いということで、719年に中国の唐から渡ってきたものだそうです。瓔珞(ようらく)と呼ばれるアクセサリーなどの装飾は見事。身体から浮いた状態のアクセサリーや天衣までが完全な一木造り。小ぶりな像ですが、精密で見事な技巧は必見です!
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法隆寺大宝蔵院/観音菩薩立像(夢違観音)【国宝】(白鳳時代)
大宝蔵院の最初の展示室正面に展示されている白鳳期(645~710年)を代表する像高87.3cmの金銅仏です。夢違観音というのは、江戸時代に書かれた『古今一陽集』という書物に,「悪い夢を見たらこの観音像に祈れば、悪い夢を良い夢に変えてくれる」とあるためだと言われています。この像は、もと東院伽藍・絵殿(えでん)の本尊でした。飛鳥観音などに比べ、体つきもふっくらとし、顔もちょっと童顔です。左手の親指と人差し指の間に宝瓶を挟み込むようにして持っています。この像は飛鳥時代から白鳳時代に移り、仏像も徐々に日本風に変わってきたその途中段階の姿だとのこと。飛鳥時代の代表作である金堂の釈迦三尊像などとその姿、お顔などを見比べてみてください。
法隆寺大宝蔵院/地蔵菩薩立像【国宝】(平安時代)
像高172cmのヒノキ造りの比較的大きな像なので、近くでみると仰ぎ見る格好になってしまうため、少し離れたところから見るのがおすすめです。庶民信仰のお地蔵さまですが、この地蔵菩薩が作られたころは、まだそこまで庶民に広まっていなかった初期の段階のもののようです。もとは桜井市三輪の大神神社(おおみわじんじゃ)神宮寺である大御輪寺(だいごりんじ)に安置されていました。しかし、明治の神仏分離令により大御輪寺が廃寺となった危機に、この像は一時的に近くの聖林寺に避難した後、法隆寺に祀られることになりました。がっしりとしたボリュームのある身体に、当時流行の翻波式衣文が身体全体に深く刻み込まれています。
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大御輪寺にはもう一つ大切な最高傑作(和辻哲郎『古寺巡礼』による)十一面観音像が安置されていましたが、この地蔵菩薩の同窓生とも言えるその像は、現在聖林寺に安置されています。歴史と共に、仏像も流転していきます。
大宝蔵殿
大宝蔵院と名前が似てるのでご注意を。別の建物です。大宝蔵殿は西院伽藍と東院伽藍とをつなぐ東大門の北側にあります。現在の大宝蔵院が完成するまでは、法隆寺の寺宝の多くがここで公開されていました。実は、法隆寺には2018年現在1122体の仏像、国宝及び重要文化財の宝物が2300点余りもあります。そこで、大宝蔵院では公開されていない宝物を大宝蔵殿で一般公開される機会があります。
春と秋の観光シーズンの各2~3ヵ月間のみ毎回テーマを決めて特別公開(秘宝展)されていますから、この時はチャンスですよ。
さらに、宝物の修理や保管にスペースを確保するために2017年からこの宝蔵殿も保管を兼ねた展示施設としても活用することになりました。今後、常設保管の展示物が増えてくるらしいので、仏像・歴史ファンには楽しみなスポットとなりそうです。
法隆寺大法蔵殿/聖観音立像【重文】(奈良時代)
「法隆寺秘宝展」の際には常に展示されている像です。
像高182cmのカヤの木を使った一木造。かつては金堂に客仏として祀られていました。等身大の仏像ですが、比較的胸は厚く堂々として大きく見えます。腰もくびれていてバランスが良い像です。
参考までに2015年の秘宝展「至宝の世界」では以下の像、画像が展示されていました。
絹本著色 五尊像(絵画 重要文化財) 鎌倉時代
絹本著色 星曼荼羅(絵画 重要文化財) 平安時代
薬師如来像(仏像 重要文化財) 平安時代
厨子入竜王像(仏像 重要文化財) 鎌倉時代
さらに、2017年の秘宝展では新たに製作された「平成の玉虫厨子」が展示され、国宝で飛鳥時代に作られた玉虫厨子の当時の外観を再現しています。
法隆寺のそれぞれの建物で公開される寺宝ですが、開催日は必ずしも全部が同じタイミングになるわけではありません。たびたび法隆寺に通うことができない人は、開催日が重なる日を探して複数拝観できるよう賢くプランしましょう!
とは言っても、一度に全部観ることはまず不可能ですし、駆け足で見ても味気ないですよね。訪れる場所を絞って、数回に分けて計画的に拝観するのが法隆寺の理想の見仏方法です。みなさんも世界遺産となった法隆寺にぜひ訪問してみてください!
法隆寺の御朱印
法隆寺をもっと深く知りたい時に…(関連書籍)
法隆寺の拝観料金、時間、宗派、電話など
正式名称 | 法隆寺(別名:斑鳩寺) |
宗派 | 聖徳宗 |
住所 | 〒636-0115 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1 |
電話 | 0745-75-2555 |
拝観時間・料金 | 2/22~11/3:午前8時~午後5時 11/4~2/21:午前8時~午後4時半. 西院伽藍内、大宝蔵院、東院伽藍内共通 個人:一般1,500円 / 小学生750円 . その他(公開期間指定あり)夢殿:300円、大宝蔵殿:500円 |
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