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【見仏入門】伊豆ならんだの里 河津平安仏像展示館(南禅寺)の仏像/静岡県河津町

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伊豆ならんだの里 河津平安仏像展示館」は河津桜と温泉で知られた、静岡県河津町にあります。敷地となりの今は無住になっている南禅寺に安置されていた平安時代の仏像を保管・展示するために2013年2月に開館しました。

私は過去何度かこの展示館を訪問しているのですが、こんな場所にこんな仏像の宝庫が!とただただ驚くばかりです。そんなこの展示館より多くの人に魅力を伝えたいと思いこの記事を書いています。

悠久の時の中にいる平安の仏像群と向き合い、静謐なひとときを過ごしていただければ幸いです。

歴史

 伝承では、8世紀なかばに行基菩薩が、ここ伊豆の地を訪れて1万体の仏像を刻んだといわれています。また当時、この地は海路の要所で、「那蘭陀(ならんだ)寺」という名前の大寺院があり、多くの仏像が安置されていたといわれています。それが1432年におきた山崩れで、安置されていた多くの仏像と寺院の建物は、瓦礫(がれき)や土砂で埋まってしまい、この寺も廃絶してしまったといわれています。寺の本尊はじめ数体は難を逃れたという話もありますが、多くの仏像はしばらく地中に埋まってしまいました。

それを1541年に「南禅和尚」がお堂建て、地中に埋まった仏像などを掘り起こしてこれを安置して「南禅寺(なぜんじ)」となりました。一説ではこの南禅寺(なぜんじ)も那蘭陀寺(ならんだじ)も昔はこの辺りに並んであったという話もあるようで、正確なことはわかっていません。

長く地中ですごした多くの仏像や神像はかなり傷みも激しいのですが、幸い粘土質の土壌で掘り出された仏像も何とか一部は元の姿でよみがえっています。現在南禅寺は、伽藍は消失してしまい小さなお堂のような建物しか残っていません。

また住職もおらず、このままでは大切な平安仏がダメになってしまうということで、このお寺の敷地(東側)に「河津平安の仏像展示館」が建てられ、2013年2月より公開されました。

この展示館には26体ほどの古仏(平安仏)が展示されていて、近年になって掘り出されたものも存在するそうです。

(解説)
伊豆の地誌『豆州志稿』は、南禅寺は古くは那蘭陀寺という名で、行基が開創し、行基自ら刻んだ薬師如来像を安置したと記していますが、学問的には行基の伊豆来訪は認められていません。その一方で、南禅寺境内からは「南寺」と墨書された10世紀の土器と土製の螺髪が出土しており、南禅寺が平安前期には存在していたことが分かります。永享4年(1432)の山津波で那蘭陀寺が倒壊、仏像も谷底に埋没したといい、今伝えられている仏像は、掘り起こしたものといいます。この年代が正しいものかどうかは不明ですが、展示館建設工事にともなう発掘調査では、土砂崩れの痕跡が確認されています。

 

仏像リンク
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南禅寺の裏山にあたる天嶺山(ていれいさん)は以前かなり仏教文化が栄えた場所のようです。伝説的に土に埋められたのような伝承がありますが、土砂崩れがあったことから本当にそのような被害があったようですね。このあたりに大変お詳しい上原美術館の学芸員田島さんによると沢山の仏像がこの地にかつてはあり、その中には京都国立博物館のあの京都・西往寺/宝誌和尚立像は、この元々はこの場所にあった可能性が高いとのことです!

田島さんのTwitterはこちら

 

年表

紀元前5~6世紀頃  インドで仏教が興る(開祖は釈迦)。

紀元前1世紀頃   小乗仏教と大乗仏教に二分。

  小乗仏教(上座部仏教)…頑なに釈迦の戒律を守り、個人の悟りを重視する集団。

  大乗仏教…修行をしながらも多くの人々の救いを目指す集団。

1世紀頃 仏像がガンダーラなどで造られ始める。

6世紀中頃 百済から日本に大乗仏教が伝わる(538年)。

588年  飛鳥寺創建。

607年   法隆寺創建。

741年   聖武天皇「国分寺建立の詔」出す。

749年  那蘭陀寺創立(行基)。

752年   東大寺大仏開眼供養。

754年   鑑真、来日し唐招提寺建立。

1099年   那蘭陀寺建立。

1432年   地震と山崩れで那蘭陀寺は壊滅

1541年   南禅寺建立

1814年  南禅寺再建。

2013年  伊豆那蘭陀の里 河津平安仏像展示館建設。

河津平安仏像展示館ができる前に訪ねた時の南禅寺の写真

昔の南禅寺本堂 2010年訪問

仏像リンク
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当時はせまいお堂のなかにひしめきあうように仏像が並べられていました。それはそれはすごい空間ではありましたが、今は河津平安仏像展示館が建設されてとても見やすくなりました。

 

お寺へのアクセス

「河津平安仏像展示館」へは伊豆急行の河津(かわづ)駅から西へ歩いて25分くらいかかります。バスなどの公共交通機関はありませんので、足に自信のない方やお急ぎの方は、駅前にタクシーもありますので利用されても良いでしょう。

河津駅から西へ、河津桜で有名な河津川を渡って、伊豆急線の北側に沿って西にいけば案内板もありますので迷わないと思います。ただ南禅寺は小さなお堂があるだけですが、すぐ手前はかなりの急坂を登らなければなりません。展示館は南禅寺の本堂に向って右手にあります。

毎年2月上旬~3月上旬にかけて開催される「河津桜(かわづざくら)祭り」の時は、河津駅周辺は大分混雑します。河津川に沿って4kmほど桜並木が続いていて、祭り期間中はかなりにぎやかです。でもそれ以外の時期は静かですから、駅からの道を楽しみながら歩きましょう。

仏像リンク
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駐車場からこの展示館までは少し山登りをしなければなりません(汗 道は綺麗ですが急坂を登るため少し覚悟した方がいいかもしれません。障害者の方や足の不自由な方には事前に連絡することで坂の上まで車で登ることもできます。

また道の途中に「薬師の湯」という温泉施設があります。ここは源泉掛け流し・岩盤浴が自慢の宿泊宿ですが、日帰り入浴もやっていますので帰りに一風呂浴びてリラックスするのはいかがでしょうか。さらに、小説「伊豆の踊子」で有名な天城峠や、「河津七滝(かわづななだる)」などを巡り、その温泉郷(洞窟の温泉もあります)を訪れるのも、なかなか趣がありますよ。

展示されている仏像の紹介

薬師如来坐像

(解説文)

頭体幹部(頭部と体の主要部分)をカヤの一材でつくり、 材の干割れを防ぐために内刳り(内部を刳り抜くこと)する仏像。両腕の肘先、両手、脚部は別に造って寄せています。 学問的には、手や足などの部分を別に造っていても、頭体 幹部が一木で造られていれば一木造といいますが、これは平安時代でも古い仏像に多い造法です。

一木造の技法や、翻波式衣文(大きな襞と小さな襞を交互にあらわした衣の襞)、奥行のある堂々とした体、左右に大きく張った厚い膝なども古様で、9世紀の仏像と考えられます。本像は伊豆最古の仏像として貴重ですが、この時代の木彫仏像は近隣都県を見ても希少で、伊豆はもちろん、東海・関東の古代史を考える上で極めて重要な仏像です。

仏像リンク
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南禅寺(なぜんじ)の本尊・薬師如来坐像は、平安時代前期(9世紀)に遡る仏像で、静岡県内でももっとも古い仏像の部類に入ります。この時代の木彫仏像は、神奈川県、東京都、千葉県、埼玉県など周辺都県でもほとんど知られておらず、この地域の歴史を考える上で極めて重要な文化財です。

榧(かや)の一木造りで作られた平安時代初期の重厚感のある薬師如来像で、造形だけでなく仏像が持つパワーを感じさせてくれる気がします。めちゃくちゃ重そうです!平安時代の中期に顔が彫り直されているようで頭をよく見ると螺髪が少し浮いていて鼻が低いように感じます。

 

仏像リンク
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この展示の仕方もすごいなと思いました。展示館の中央に独立して祀られています。まさに古い時代からこの河津の町を見守ってきたような誇らしさと威厳に満ち溢れているように感じます。

十一面観音菩薩立像

(静岡県指定有形文化財) 一木造・彫眼 像高190.0cm 平安時代後期

(解説文)古像だが、江戸時代、全面的に彫り直されている。頭上面が失われているため、江戸時代以降、聖観音とされてきたが、頭に頭上面を取り付けた穴が確認できるため、当初は十一面観音であったことがわかる。伊豆横道三十三観音霊場・第十七番霊場の本尊である。

(解説文)奈良時代の749年、行基が創立したと言われ、平安時代、1099 年に実道法師が建立した那蘭陀寺という七堂伽藍を備えた大寺がありました。しかし残念なことに、 那蘭陀寺は室町時代、1432 年大地震と山津波で寺も堂も伽藍も仏像も南禅寺堂の下の仏ヶ谷に流され、ほとんどの仏像が埋没してしまいました。 その中で本尊の薬師如来坐像、地蔵菩薩立像、十一面観音立像の3像は無傷です。那蘭陀寺は大寺であったので、大勢の比丘(出家した男の僧)、比丘尼(出家した女の僧)がいたので、大事な3像は地震の最中、なんとか運び出したと言われています。地震から約110年後の1541 年に鎌倉、正光院の南禅和尚が谷津立岩に来て、谷津の人々と共に、仏ヶ谷から埋まっている仏像を掘出し堂を建てその堂に仏像を祀りました。 それが南禅寺の始まりです。観音菩薩(観世音菩薩)は、33に姿を変えて衆生のあらゆる願いに答えてくれるといわれるが、十一面観音は弥陀の化身としての11の諸仏の力を併せ備えている菩薩であるという。

仏像リンク
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この十一面観音像は胸かざりや腕輪まで本体から彫り出している一木造で、10世紀頃に製作されたの古式の像で、内ぐりがないため、現地にて製作されたと考えられます。また古色に塗られているのは近年の修理のときのものです。この十一面観音像はおそらく南禅寺(なぜんじ)が伊豆横道三十三所観音霊場の第17番札所ですので、こちらのご本尊だったと考えられます。うっとりするような衣紋です!

地蔵菩薩立像

(静岡県指定有形文化財) 一木造・彫眼 像高191.6cm 平安時代中期(10世紀)

(解説文)等身大を超える像を一木造とし、内刳りも行わない点、量感に満ちた造形は古風だが、衣文が浅く、写実を離れて形式化しているところから、10世紀の像と考えられる。10世紀にさかのぼる地蔵像は地方では稀で、東海地方最古の地蔵像として貴重な像である。

この地蔵菩薩像はかなり大きく、ほぼ完全な一木造の像で、東海地方最古の地蔵像といわれています。両手と持ち物は後に補われたもので、右手に錫杖を握っていますが、元々は何も持たない与願印だった可能性もあります。キリッと引き締まった顔立ちに、大きな聡明そうな頭や額、それに下にまで伸びた大きな耳たぶ、それに大きく弧を描くようにあらわされた衣の文様衣など、とても力強い印象を受けます。パワー系地蔵!

十一面観音菩薩立像

(静岡県指定有形文化財)一木造。彫眼 像高165.0cm 平安時代中期

(解説文)両手先、両足先以外を一木で造る立像。背面に長方形の背ぐりがあり、納入品を納めていたかもしれない。また、髷の上に仏面が残っているところから、十一面観音であったことが分かる。背面にノミ目が残り、東国に多い鉈彫り像に通じる表現の可能性がある。

 

この写真の左は展示館より3kmほどにある個人の方が管理されている善光庵の十一面観音菩薩立像です。対比するとよくわかりますが頭頂部の形など共通するところが多数あります。実はこの善光庵の十一面観音菩薩立像ももともとはこの南禅寺に伝来されたものであることがわかっています。

不動明王菩薩坐像

(河津町指定有形文化財) 一木造・彫眼 像高102.0cm 平安時代後期(10世紀後半~11世紀)

(解説文)大きく見開いたが吊りあがる怒りの表情と、左肩に髪を束ねて垂らす辮髪から、不動明王と分かる坐像。等身大を超える像ながら、頭部と胴体を一木で造る点、両目を見開いた表現などは古風で、制作年代は10世紀に遡る可能性がある。伊豆最大の不動明王像である。

梵天立像

(静岡県指定有形文化財)一木造。彫眼像高176.0cm 平安時代中期(10世紀後半~11世紀)

(解説文)大きさと作画から帝釈天と一対と考えられるため、梵天とされる像。梵天は古代インドで宇宙の創造神だが、仏教にとり入れられて、帝釈天と一対で仏や信仰者、寺院を守る神とされた。ゆったりとして大らかな大陸的な風貌から、10世紀にさかのぼる可能性がある。

梵天は古代インドの創造神·ブラフマンが仏教にとり入れられた神。梵天は、悟りを開きながらも説法をためらった釈尊に布教を懇請、それに応じて釈尊は仏教を説いたとされる。そのため梵天は仏法の守護神として、帝釈天と一対で如来や観音像の脇侍とされた。本像は従来、浅い衣文線や温和な作風から11 世紀の像とする意見が主流であったが、近年、両手先以外をカヤの一材からつくる一木造の技法、気宇の 大きな大陸的な像容などから9世紀後半~10世紀の像とする説が有力である。

帝釈天立像

(静岡県指定有形文化財) 一木造・彫眼 像高173.0cm 平安時代中期(10世紀後半~11世紀)

(解説文)帝釈天はインド神話のインドラが仏教化した神。ギリシア神話のゼウスを思わせる神で、雷を操り、美女を奪い、阿修羅と死闘を演じる荒ぶる神であったが、仏の教化で勧善懲悪の護法善神になったという。

帝釈天像は梵天と対で、釈迦や薬師、観音像の脇侍として造像されるが、本像もその好例である。 くつさき両手先を除き、頭頂から沓先までを一材でつくる一木造で、内刳りは行っていない。甲胃の上にまとう衣の流麗な衣文、量感に満ちた体躯などから 9世紀後半~10世紀の像と考えられる。

菩薩立像

(静岡県指定有形文化財) 一木造・彫眼 像高166.4cm 平安時代中期(10 世紀後半~11世紀)

(解説文)両腕の肘先と両足先以外を一材で彫出する、等身大の一木造の立像。従来聖観音とされ、裸の上半身に条鳥と天衣をまとう姿から菩薩像と分かるが、持物を失っているため観音と断定できない。下半身に二重にかかる天衣と、裾(巻スカート)の衣文が美しい。

二天立像

(静岡県指定文化財)像高 145.7cm (左)、158.3cm(右) 平安時代(9世紀)

 

(解説文)カヤの一材からなる一木造の像。二体一対で片方が開口、他方が閉口して阿吽の姿をとることから古くは仁王像とされたようですが、甲胃を身に着けるため四天王のうちの二体をあらわした二天像と考えられます。

なお、当初は四天王であったとの説もありますが、伊豆には古代中世に遡る四天王が知られておらず、代わりに二天が多いので、 本像も当初より二天であった可能性が高いと思われます。

広島県北広島町の古保利薬師堂の四天王像 (9世紀前半、重要文化財)と像容が似ており、細部が古保利薬師堂像 より甲胃の細部の形などの省略が進んでいるため、古保利薬師堂像よりは少し時代の下る像と考えられます。9世紀に遡る古像で、 最感と迫力に満ちた造形から、昭和53年、ドイツスイススウェーデンのヨーロッパ三国を巡回した展覧会で、 「ギリシア彫刻に比肩しうる」と 絶賛されました。

古保利薬師 四天王

写真は広島県・古保利薬師堂像の四天王です。上の歯を見せる姿、敵を威圧しているよりも「さぁ、私を倒せるかな?」と言っているような余裕を見せる表情が南禅寺像と雰囲気が似ているような感じがします。

男神立像・女神立像・吉祥天立像(河津町指定文化財)

男神立像 132.0cm、男神立像 135.0cm、男神立像 88.0cm、男神立像 146.0cm、男神立像 115.0cm、男神立像
140.0cm、女神立像 75.6cm、吉祥天立像 134.0cm

 

(解説文)吉祥天と思われる右端の像を除き、神道の神像と思われる像。南禅寺の仏像がカヤで造られているのに対し、以下の像は用材に楠を用いる点が特徴で、像の種類によって用材を変えている可能性が指摘されています。

なお、いずれの像も空洞のある材を用いていますが、同様の例は神像に多いとされています。

小像が多い神像としては比較的大型で、神像には坐像が多いなかにあって立像である点は特異。像は折れ烏帽子をかぶっていますが、神像は左2体目の像のように巾子冠を付けるのが通例で、折れ烏帽子の神像はあまり見ません。

伊豆山神社の祭神・走湯権現には折れ烏帽子をかぶる像があり、関連があるかもしれません。今後の研究の進展が期待される学問的に興味深い像です。

僧形坐像

(静岡県指定文化財) 像高 70.8cm 平安時代(10世紀)

 

(解説文)脚部と両手先以外をカヤの一材から造る一木造の像で、内刳りはありません。古風な造形から10世紀の像と考えられます。

現在「おびんずるさま」として信仰されていますが、平安時代に賓頭盧信仰はほとんど知られていないため、
老僧の姿の文殊菩薩(聖僧文殊)か、南禅寺と関係が深い僧の像でしょう。

目尻が極端に下がる独特の顔は、本像が常人ではない、特別な霊力のある存在の像であることを示しています。脚部と両手は江戸時代に補われたものです。

十一面観音菩薩立像は修復なのか?

 

周囲のお寺

かっぱの寺 栖足寺の釈迦如来坐像

この仏像展示館の近くに、河童の寺として知られる禅寺(鎌倉時代に開山)「栖足寺(せいそくじ)」があります。ここには昔、近くにすんでいた河童(かっぱ)が悪さをしていて、里人に懲らしめられ、殺されそうになっているのをこの寺の住職が助けました。 その時助けた河童からお礼としてもらった「河童のかめ」という壷(つぼ)が今も保管されています。この「かめ」に耳を澄ませば、川のせせらぎの音が聞こえてくるといいます。そして、それを聞いた人は皆悪意の心があっても消えてしまうのだそうです。

そしてこちらの栖足寺にも平安時代の作と考えられる釈迦如来坐像が祀られています。

本堂の中央に祀られていて、ライトアップされて綺麗に祀られていました。最初見たときには「近年の作かな?」と思ったのですが、近年の調査ではこちらの仏像実は大変古い仏像であることがわかっています。今回も上原美術館 主任学芸員 田島整さんのコラムをご紹介させていただければと思います。

【コラム】河津町の栖足寺から平安仏発見 主任学芸員 田島整さんのコラムより抜粋

「やはり時代が下る像では」というのが最初の印象でした。等身大を超える仏像は重く、 動かすと破損する恐れがあります。 そこで須弥壇から降ろさずに調査を行うと 決め各部の計測のために須弥壇に登りましたが、そこで仏像の左側面を見て驚きました。

平板に見えた体は、側面から見ると奥行きがあって量感に満ち、左肩から上腕にかけて深くしっかりとした衣文が刻まれています。これらは平安時代も比較的古い時代の像の特徴。先程の予定を変更し て、細心の注意を払いつつ 仏像を須弥壇から降ろし、調査することにしました。

構造を調べるため像底を見て、不協和音の理由が分かりました。本像は頭と胴体の主要部分を、木心を中央にこめた縦一材から造る一木造の像で、別につくっ た両脚部と台座にかかる 両手の袖、組んだ両手首先 を寄せていますが、これらの部分は全て後補。ここま では予想通りだったのです が、胴体部分も、 右半身と 両胸から腹部にかけての正面半身が朽ち、新たに材を寄せて彫り直していたのです。

つまり本像象は、頭部と 左半身、背中が当初の姿な のですが、この部分の量感に満ちた力強い造形、大きな襞と小さな襞を交互に表す翻波式衣文、大きく三角形の鼻と厚い唇が接する面 貌などから、平安時代、10 世紀の像と考えられます。本像を伝えた栖足寺の近くには、多くの平安仏を伝える南禅寺があります。伝説によれば、古く南禅寺 は山津波にあい、建物もろとも多くの仏像が埋没したといい、現在伝わる26 体の平安仏の多くは破損しています。 仏像の年代から見て、本像もかつて南禅寺に伝来し、埋没した仏像の一体であった可能性が高いのではないでしょうか。

 

栖足寺は色々と新しいことを取り入れていて、キャッシュレス決済で賽銭ができました。私も初めてペイペイで志納してみましたが、やってみると自分の好きなお金を納めることができて、なるほど合理的!と実感しました。

善光庵(河津町下峰区)の十一面観音菩薩立像

像高158.1 cm 木造漆塗 (現状)彫眼 平安時代(10世紀) 静岡県指定文化財

 

先程も少し登場して来ましたが、展示館から北に3kmほど離れたところにある小さなお寺である善光庵に祀られる十一面観音菩薩立像をご紹介させていただきます。

 

(解説)像の主要部分を針葉樹の一材から造る一木造で、頭上に十一の顔を持つ十一面観音の立像です。

両足先、左肘から先、右手首先を別に造り、取り付けていますが、これらの部分は頭上の顔の一部とともに、新しく造りなおされたものです。厳しい表情や、一木造の技法、太く奥行きのたっぷりとした体の表現は、平安前期(9世紀)の仏像に見られる古風を留めていますが、衣の髪の表現(衣文)が浅く穏やかで、形式化しているところから、やや時代が下った10 世紀の像と考えられます。

本像は彫刻として優れた作例ですが、静岡県内で、10 世紀以前に遡る仏像は稀であり、伊豆最古の観音像の一つとしても、伊豆の歴史を考える上で極めて重要な仏像です。この像はもと南禅寺にあったという伝説がありますが、南禅寺には本像と同じ頃の仏像があり、作風も似ていることは、伝説を裏付けているようです。

本像は、伊豆 横道16番札所の霊場本尊で、33年に一度本開帳される秘仏として伝えられてきました。

さらに調べたい時には

伊豆の仏像 修復記 ‐人と自然に護られた 仏と関わる日々‐

平安密教彫刻論

伊豆ならんだの里 河津平安仏像展示館の拝観料金、時間、宗派、電話など

正式名称

伊豆ならんだの里 河津平安仏像展示館

宗派

なし

住所

〒413-0515 静岡県賀茂郡河津町谷津138

電話

0558-32-0290

拝観時間

10時00分~16時00分 ※水曜日定休日 年末年始(12/29~1/3)

※桜まつり期間中無休

拝観料金

大人 300円
小中学生 100円
標章者 200円
幼児無料

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