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No.43:山梨県甲州市放光寺の仏像/大日如来、天弓愛染明王、不動明王、御朱印

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今回の見仏入門は山梨県の塩山市にある「放光寺」を紹介します。このお寺は源平合戦の終わり頃に甲斐源氏の安田義定が堂宇を建立して、平安仏を祀り、また近くの工房で鎌倉初期に仏像が造られたことを今に残す貴重なお寺です。

安田義定源義経と共に活躍した後、疑い深い頼朝によって滅ぼされてしまった悲劇の武将ですが、甲斐国ではこの後に活躍する武田信玄の陰に隠れて意外に知られていません。

この寺は、設立当時の平安末期の仏像などが残されている貴重なお寺ですが、今は「精進料理が食べられる寺(要予約)」、梅・椿・桜・花桃・山吹・ぼたん・花菖蒲・あじさい・萩など四季折々の花が境内に咲き誇る「花の寺」として有名です。

放光寺へのアクセス

 JR中央線の塩山駅から甲州市営バスで約15分「放光寺入口」で下車、または山梨市営バスで「花かげの湯
花かげホール」で下車すぐです。駅からタクシーで10分ほどです。

自家用車の場合は中央自動車道の「勝沼インター」から約20分でつきます。数台ですが駐車場はあります。

放光寺は山梨(甲斐国)の歴史を代表する寺ですが、今は「花の寺」として有名で、「甲州東部七福神めぐり」「さくらんぼ狩り」「甲州霊場巡礼」「山伏による火渡り修行(4月29日)」などに多くの人々が訪れています。

また、精進料理は事前予約が必要ですが、毎年春と秋の2シーズン「季節の精進料理」として、季節に合わせた寺独自のメニューを提供しています。

また拝観券には「抹茶(喫茶)付き拝観」があります。

この券はまずお寺の係りの人からお寺の説明を受けたのち、本堂、愛染堂、収蔵庫、毘沙門堂の順に説明を受けながら拝観します。そして、拝観の最後に抹茶またはコヒーなどをいただくことができます。

 

仏像もゆっくりとまたじっくりとすぐ近くで拝観できますのでお勧めです。

またこの寺は、「心頭滅却すれば火もまた涼し」で有名な恵林寺から北へ歩いて10分ほどの距離にありますので、恵林寺を訪れた時にこちらを訪れる人も多いようです。

 

放光寺の歴史

寺伝によると、高橋寺放光寺(ほうこうじ)は山岳信仰が盛んであった平安時代に大菩薩山麓の標高1000mほどの一ノ瀬高橋(集落)地区に賀賢上人により建立されたと伝えられます。この地での記録はほとんど無く、天台宗の「高橋寺」と呼ばれていたようです。

それを平安後期に甲斐源氏の一族(新羅三郎こと源義光の孫ともいわれる)である安田義定(やすだよしさだ)が1184年に、自分の屋敷に近い牧荘(山梨郡藤木郷:現塩山市藤木)へ移転し、名前も「高橋山多聞院法光寺」として安田氏の菩提寺としました。

甲斐武田氏一族の武将である安田義定(やすだよしさだ)は、源平合戦で源義経(みなもとのよしつね)と共に源氏方の勇将として参戦し、一ノ谷の戦い(1184年)では義経と共に大活躍をします。放光寺(ほうこうじ)はこの安田義定が一ノ谷の戦いの戦勝を記念して大規模な伽藍を建立したともいわれています。

ただこの当時は「法光寺」と称されており、「放光寺」となったのは戦国末期のころからのようです。

 安田義定は甲斐国(山梨県)の平安時代末期から鎌倉時代初頭にかけて活躍した甲斐源氏の流れをくむ武将として知られ、義経と共に源氏の勝利に大活躍します。

この活躍によって遠江国(とおとうみのくに:現在の静岡県西部)守護などに任じられ鎌倉幕府の設立に貢献します。 その後、源頼朝は1189年に源義経と逃亡先の奥州藤原氏を滅亡させ鎌倉幕府の安定を図りますが、安田義定は1190年に時の朝廷から禁裏守護番(きんりしゅごばん)に任じられました。この禁裏守護番というのは、大江山の酒呑童子など数々の伝説などで知られる源頼光から始まったとされる大内守護(おおうちしゅご:皇居を警護する官職)が自分たちだけでは力不足ということで、それを補佐する武将を置くことになり、この任にあたったのが禁裏守護番です。

しかし、甲斐源氏の台頭を恐れた頼朝は1192年に征夷大将軍になると、その翌年の1193年に梶原景時の換言などで安田義定の官職を解き、義定の身内を殺したりしました。義定はその失意で、甲斐に引きこもっていたのですが、1194年にまた謀反の嫌疑をかけられて、梶原景時等の軍勢に攻め込まれて山梨市八幡のあたりで亡くなったといわれています。

しかし、この放光寺によると義定は、身にまとっていた鎧を笛吹川に投げ捨て、放光寺において自刃したと伝わっています。死亡したいきさつはいろいろな伝説もあり正確にはわかりません。この義定一族の墓所はやはり義定が開いたといわれる雲光寺(山梨市)にあります。

義定は京都や奥州平泉の平安文化を愛し、仏教への造詣(ぞうけい)も深く、平安時代の仏像などをこの放光寺に集めました。そのため、この寺には、現在も阿弥陀三尊大日如来愛染明王不動明王など多くの平安仏が残されています。

更に奈良の仏師・成朝(せいちょう)が鎌倉に招かれて鎌倉の仏像が造られていますが、義定もまた成朝を甲州に招いて仏師原(現武士原)に一大工房を作り、放光寺の金剛力士像毘沙門天像などの甲州の仏像が造られたとされています。

南北朝期になって真言宗に改宗され、戦国時代になると、放光寺は武田信玄の祈願所の一つとなり、甲斐武田氏の擁護を受けています。 しかし、1582年に武田家が滅亡したときに、近くの恵林寺などと共に兵火により多くの建物が焼失してしまいました。その後まもなく仁王門、愛染堂は再建されましたが、本堂が再建されたのは江戸時代になってからです。

徳川家康は甲斐武田氏残党を擁護しており、放光寺も1642年に徳川家光から寺領が与えられ、柳澤吉保の援助を受け保田宗雪(若狭守)が寛文年間(1661~1673年)に本堂を再建しています。その後、甲斐国真言宗七談林(僧侶の教育、養成寺)の一つに数えられ、山内には12坊を擁する真言密教の大寺院として発展しました。

また江戸時代は醍醐寺報恩院の末寺となり、その後大覚寺(京都嵯峨)とも関係を結び、明治になり1894年に真言宗智山派総本山智積院の寺院になりました。

放光寺の仏像の詳細

大日如来坐像【重文】(平安時代12世紀後半 ヒノキの寄木造 漆箔 宝冠は銅製渡金、彫眼)〈像高95.4cm〉

現在の放光寺の本尊です。寺の本尊は、昔は阿弥陀三尊であったといわれており、三尊とも坐像であったと伝えられています。しかし、この像は16世紀末に甲府の善光寺に移されたと伝わっていますが、現在行方知れずとなっています。

この大日如来坐像は現在、本殿ではなく、不動明王立像、愛染明王坐像などと共に、宝物殿(収蔵庫)に安置されています。

大日如来には金剛界大日如来と胎蔵界大日如来がありますが、こちらの像は金剛界の大日如来です。

像は大きな宝冠を戴き、右足を上にして結跏趺坐(けっかふざ)し智拳印(ちけんいん:左手をこぶしに握って人さし指だけ立て、それを右手で握る)を結んだ姿は金剛界の大日如来の特徴です。作風から平安時代末期の円派の作と推定され、中央(京都・奈良)の工房で製作された像ではないかと推定されています。胸飾、飾紐、台座、光背は後補です。

目は細めに閉じ、落ち着いた穏やかな顔つきの中に威厳を感じさせるのは、平安末期ごろの円派の仏像の特徴でもあります。作風から放光寺が安田義定により伽藍が整えられた1184年頃に京都の円派の工房で制作された像ではないかと考えられています。

愛染明王坐像【重文】(平安時代 12世紀後半 ヒノキ材 寄木造 彩色)〈像高89.4cm〉

大日如来像に向って左側に安置されています。本像は「天弓愛染明王」と呼ばれる珍しい姿をしており、この天弓愛染明王としては日本最古の仏像ともいわれています。

憤怒の顔つきで、6本の腕を持ち、弓を天に向けて射る姿は、経典の中で愛染王が「衆星の光を射るが如し」と示されている姿を現したものといわれています。この像も本尊の大日如来像と同じく、12世紀後半に京都の円派の工房で大仏師により造られた像だと考えられています。

天弓愛染像としては、このほかに、京都神童寺高野山金剛峯寺にある像が国の重文に指定されています。

山梨県立博物館には本像のレプリカが常設展示されています。

仏像として独特な姿であり、一度見た方は忘れられない仏像だと思います。

彩色は、現在ほとんど残されておらず、構造は、左右二材を矧ぎ、内刳りし別材の背板をはめています。両脚部は一材で造られ、弓を始め持物や光背及び台座は後補です。

彫刻の彫りは全体にそれほど深くは無く、目も鎌倉期の鋭い忿怒相とは違って、憤怒の中にも全体に威厳のある穏やかな像です。

愛染明王は「煩脳即菩提」、すなわち愛欲・物欲などすべての欲望を浄化・解脱させる明王です。

また愛染明王はまたあらゆるご縁を吉祥に結んでくれる仏様といわれ、いわゆる縁結び、恋愛成就に特にご利益のあるとして人気です。

不動明王立像【重文】(平安時代後期 ヒノキ材の一木造 内刳〈うちぐり〉、彩色 彫眼)〈像高148.4cm〉

本像は「大日如来坐像」「愛染明王坐像」と共に国の重要文化財に指定され、制作時期もほぼ同じ頃とみられていますが、他の2像とは製法が異なります。

このため、制作された工房は2像とは異なり、こちらの甲斐国の工房で制作されたものではないかと考えられています。解体修理が江戸時代の1689年に行われており、昭和43年までは愛染明王坐像と一緒に「愛染堂」に祀られていました。

腰を右側に少しひねった立ち姿で、左手は下にして羂索(けんじゃく)をもち、右手は宝剣を立てて握っています。地方で作られたと思われる素朴な味わいのある像です。

金剛力士立像【重文】(鎌倉時代12世紀後半 大仏師・成朝の作 ヒノキ材 寄木造 内刳り 彩色)〈像高 阿形像263.0cm、吽形像264.0cm〉


仁王門に安置される阿吽の仁王像です。

放光寺が安田義定により再建された1184年頃と同時期に造られたものとされています。

元々この仁王門と仁王像は、現在地ではなく、1kmほど南の三日市場武士原というところにあったものを、江戸初期の復興の際に、現在地に新しく仁王門を建て、仁王像(金剛力士像)を移したものといわれています。武士原は「仏師原」が語源で、ここに仏師の工房があったと考えられています。

源頼朝は奈良の仏師・成朝(せいちょう)を鎌倉に招いて、鎌倉の仏像が造られていますが、安田義定もまたこの仏師成朝を甲州に招いて仏像を造らせたのではないかと言われています。

仏師原(現武士原)にこの成朝を中心とした一大工房が作られていたのではないかとの考え方が最近強くなっています。

2mを超えるどっしりとした仁王像は、たくましく、また手の動きも面白い堂々とした姿の像です。鎌倉仏像の運慶などの動きのある像とはまだかなり違った姿です。

吽形像(右側)の裾(すそ)が風になびいてまくれあがっているような表現方法は珍しく、また両像とも頭の鬢(びん)だけを剃り残して、髻(もとどり)を結っている姿は全国に例がないとも言われています。

毘沙門天立像【市指定】(平安後期~鎌倉初期)〈像高は147.8cm〉

この毘沙門天像は、放光寺毘沙門堂に開祖像として安置されており、開祖とされる武将・安田義定の姿をうつした像とみられています。

鎧(よろい)を着け、頭には別材の兜が付けられています。左手を上に掲げていますが、手に持っていた持ち物は無くなっています。右手は下に垂らして逆手で宝棒を持つ姿です。

全体が鮮やかに彩色されて見た目に大変きれいですが、これは江戸時代に本堂を再建した保田(やすだ)宗雪により1665年に施されたと言われています。

邪鬼の上に乗り、身体を弓なりに曲げた毘沙門天像はこの寺が甲斐の武将「安田義定」を祀っている寺である証しでもあります。また保田(やすだ)宗雪もこの安田義定の子孫であるとも言われています。

放光寺の御朱印

放光寺の拝観料金、時間、宗派、電話など

正式名称

高橋山 放光寺

宗派

真言宗智山派

住所

〒404-0054 山梨県甲州市塩山藤木2438

電話

0553-32-3340

拝観時間

9:00~16:30

拝観料金

大人:300円(20名以上の団体は200円)

こども:100円

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地図