奈良・薬師寺の仏像|金堂の薬師三尊と東院堂の聖観音に会う(拝観料・時間つき)

奈良の西の端、西ノ京(にしのきょう)。平城京の朱雀大路の西にあたることから付いた名前で、かつては西大寺・喜光寺・唐招提寺・薬師寺といった大きな寺が連なっていました。いまも薬師寺と唐招提寺は、歩いて行き来できる距離に並んでいます。
この寺で見てほしいのは、像の「造り」です。金堂の薬師三尊像は、溶かした銅を型に流し込んで造られた像。東塔は、730年に建てられた3重の塔なのに、屋根が6つ重なって見えます。溶けた銅が冷えて固まった像と、「凍れる音楽」と呼ばれてきた塔。この記事は、その2つを手がかりに歩きます。
入る門は、駅の東側すぐの裏門より、南門がおすすめです。南門は江戸時代初期の1650年に、西院の西門を移してきたもの。くぐると中門があり、正面に金堂、左右に西塔と東塔が見えてきます。

薬師寺・薬師三尊像:溶けた銅が、そのまま立っている

金堂の白い大理石の須弥壇の上に、中尊の薬師如来坐像と、両脇に日光菩薩立像・月光菩薩立像が並びます。3体とも銅でできています。
まず肌を見てください。黒く、つややかに光っています。もとは金めっきで金色に輝いていたと考えられていて、火災などで金が落ち、銅の地肌が出た姿と言われます。背後の光背は金色で、その前に黒い肌が浮かんで見えます。
金を着ていたころの姿は、想像するしかありません。けれども金が落ちた分、衣の起伏や体の厚みが、光の当たり方でそのまま読める。造りがむき出しになった像だ、というのが私の見立てです。
仏像リンク編集部MEMO 📝




造り方は、蝋型(ろうがた)鋳造です。蝋で原型をつくって土で包み、熱して蝋を溶かし出し、空いたすき間に溶かした銅を流し込みます。これだけ大きな像を銅で造るには、型づくりから流し込みまで、高い技術が要ります。それでも肌には弾力があり、薄い衣の下に体の線がやわらかく透けて見えます。金属でできていることを忘れさせる写実性で、「とろけるような美しさ」と評されてきた姿です。
薬師如来さんがどんな如来なのかは、こちらの解説にまとめています。
日光菩薩・月光菩薩:腰をひねる銅の像

中尊の左右に立つのが、日光菩薩さんと月光菩薩さんです。像高は日光が317.3cm、月光が315.3cm。座る中尊より、立つ2体のほうが背が高い像です。
胸板の厚い中尊に対して、2体は首と腰を少しひねり、すらりと立っています。頭、上半身、下半身がそれぞれ別の向きに傾く姿勢で、「三曲法(さんきょくほう)」と呼ばれます。インド・グプタ朝の彫刻様式が、唐(中国)を経て日本に伝わったものと言われています。
体がゆるやかなS字を描いているのに、材質は重い銅。ここが見どころです。法隆寺の飛鳥の像の、まっすぐで左右対称な立ち方と見比べると、奈良時代の像がどれほど体を動かしているかが分かります。日光菩薩・月光菩薩の役目は、こちらの解説をどうぞ。




中尊の台座:奈良時代の世界地図

中尊の台座も国宝です。各面の中央には、遠い国の人を思わせる力神(蕃人:ばんじん)の裸像が浮き彫りにされています。いちばん上の框(かまち)にはギリシャに通じるとされる葡萄唐草文、その下にはペルシャに通じるとされる蓮華文。いちばん下の框には、中国の四神が彫られています。東は青龍、南は朱雀、西は白虎、北は玄武です。




シルクロードが奈良まで続いていた証し、と説明されることもあります。像を見上げたあと、視線を足元まで下ろしてください。
名称: 銅造薬師如来及両脇侍像(国宝)
時代: 奈良時代(白鳳時代に飛鳥から移したとする説と、天平時代に鋳造したとする説がある)
像高: 薬師如来254.7cm、日光菩薩317.3cm、月光菩薩315.3cm
材質: 銅(蝋型鋳造)
特徴: もとは金めっきで金色だったと考えられる、黒くつややかな肌。日光・月光の三曲法の立ち姿。台座に、ギリシャ・ペルシャ・中国につながる文様。
薬師寺・聖観音立像:同じ銅で、まっすぐ立つ


東院堂の本尊です。金堂の日光・月光が腰をひねるのに対して、こちらは正面を向き、左右のバランスをととのえて静かに立ちます。薄い衣のひだの下から足がうっすら透けて見えるのも、造りの見どころです。インドのグプタ朝の影響や、中国の初唐末から盛唐初め(7世紀末ごろ)の影響が見られると言われます。一方で、腰のくびれやひねりは少なく、飛鳥時代の古い様式を思わせる要素も残ります。
文化遺産オンラインの解説では、鋳造の技法や銅の質から、金堂の薬師三尊と同じころに造られたと考えられています。同じ時代、同じ銅の像で、立ち方がこれほど違う。同じ銅という筆で書き分けた、2通りの文体のようにも見えます。2つのお堂を続けて見る理由は、ここにあります。
右手の先や、体から離れて垂れる天衣(てんね)は別に鋳造してつなぎ、光背は後の時代の木製です。いまの東院堂は鎌倉時代の1285年に建てられたお堂で、この像が最初から東院堂の本尊だったかどうかは、はっきりしていません。聖観音さんがどんな観音なのかは、聖観音菩薩の解説にまとめています。
名称: 聖観音菩薩立像(国宝)
時代: 奈良時代(飛鳥時代後期〜奈良時代、7〜8世紀とする見方もある)
像高: 188.9cm
材質: 銅(蝋型鋳造)。光背は後補の木造
特徴: 薄い衣の下に足が透けて見える表現。金堂の日光・月光と違い、腰のひねりは少ない。右手先や天衣の離れた部分は別に鋳造。
その他の見どころ
東塔と西塔:3重なのに6重に見える塔

中門をくぐるあたりで、左右に塔が見えてきます。青と丹(朱)の色づかいの西塔は1981年の再建。くすんだ木肌の東塔は730年から立つ、薬師寺に残る奈良時代の建物です。中門には、1991年に復元された二天王像が立ちます。
2つの塔はどちらも3重の塔ですが、各層に裳階(もこし)という小さな屋根がつくため、6重に見えます。高さは約34m。相輪の上部にある水煙は、4枚の透かし彫りの中に24体の飛天がいます。水煙は雷や火災から塔を守る、水をモチーフにした飾りです。
大講堂の三尊像

大講堂の三尊像は、重要文化財の銅造です。像高は中尊267.5cm、左脇侍288.7cm、右脇侍301.4cm。阿弥陀三尊や薬師三尊と呼ばれた時期もありましたが、薬師寺は法相宗の大本山で、本尊は弥勒仏とするのが本来の形です。2003年に大講堂が復興されたとき、もとの由緒にあわせて弥勒三尊の名に戻されました。
仏足石と仏足跡歌碑

釈迦が亡くなってから数百年のあいだ、人々は仏像ではなく、足跡を石に刻んで拝んでいました。仏足石はその足跡を刻んだ石で、753年の制作と刻まれています。ともに伝わる仏足跡歌碑には、足跡をたたえる歌が21首、万葉仮名で刻まれています。ふつうの和歌より1句多い「五・七・五・七・七・七」の形で、「仏足跡歌体」と呼ばれます。どちらも国宝です。
文殊菩薩坐像と弥勒菩薩坐像


文殊菩薩坐像(重要文化財)は奈良時代の像で、乾漆盛上、漆箔。像高は62.5cmです。弥勒菩薩坐像(重要文化財)は鎌倉時代の漆箔の像で、像高87.5cm。宝冠をいただく姿は、画像の文字どおり、大日如来を思わせます。
玄奘三蔵院:三蔵法師ゆかりの伽藍

伽藍の北側には、玄奘三蔵院があります。玄奘三蔵は『西遊記』の三蔵法師のモデルと言われる僧で、629年に中国から出国してインドへ旅し、仏像・仏舎利と、梵語(サンスクリット)の経典657部を持って、645年に長安へ戻りました。法相宗の始祖にあたります。玄奘三蔵院は、玄奘の頂骨の一部を納めるために建てられました。




シルクロード画家として知られる平山郁夫が、玄奘三蔵の旅をたどって描いた「大唐西域壁画」は、大唐西域壁画殿で見られます。公開は期間が限られるので、お出かけ前に公式サイトで確かめてください。玄奘の弟子で法相宗の始祖とされる慈恩大師の像(国宝)もありますが、こちらは一般公開されていません。
休ヶ岡八幡宮の神像(国宝)

薬師寺の鎮守、休ヶ岡八幡宮には、国宝の神像3体が伝わります。像高は神功皇后像35.8cm、僧形八幡神像38.6cm、仲津姫命像36.0cm。いずれも平安時代前期の小さな一木彫の彩色像です。神社の奥深くで守られてきたため、彩色がよく残りました。
いま、この3体は奈良国立博物館に寄託されています。展示される時期は奈良国立博物館の案内で確かめてください。
御朱印

拝観のあとに、墨の黒と朱印の赤を見比べるのも、造りを見たあとの楽しみになります。
お寺の歴史と伝承

680年、天武天皇が、皇后(のちの持統天皇)の病気が治るよう願って、飛鳥の藤原京に薬師寺を建て始めたと伝わります。698年には、持統天皇によって本尊の開眼が行われました。
710年に都が平城京へ移ると、薬師寺も718年に現在の西ノ京へ移されます。東塔が建てられたのは730年です。ここで、見る人を悩ませる説があります。薬師三尊像が藤原京から運ばれた像なのか、平城京で新たに鋳造された像なのか、研究者のあいだでも説が分かれています。

973年の火災で、講堂や回廊、中門、南大門などが焼けました。1013年までに再建されたものの、地震による倒壊もあり、1528年の戦火で、東塔を残してほとんどの建物が失われます。
そこから、金堂(1976年)、西塔(1981年)、中門(1984年)、大講堂(2003年)と、白鳳の伽藍が少しずつ復興されてきました。1949年に副住職になった高田好胤は、修学旅行生に分かりやすい法話をして「話の面白いお坊さん」と親しまれ、1998年に亡くなるまで復興に力を注ぎました。同じ1998年に、薬師寺は「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されています。

西塔の青と丹の色づかいは、奈良の枕詞「あをによし」を再現したものといわれます。万葉集には、小野老(おののおゆ)の歌「青丹よし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり」があります。
主な歴史年表
680年: 天武天皇が、皇后の病気が治るよう願って藤原京に薬師寺を建て始めたと伝わる
698年: 持統天皇のもとで本尊の開眼が行われる
718年: 平城京の西ノ京へ移される
730年: 東塔が建てられる
973年: 火災で講堂や回廊などが焼ける
1528年: 戦火で東塔を残してほとんどの建物を失う
1976年: 金堂が復興される
1981年: 西塔が再建される
1984年: 中門が復興される
1998年: 世界遺産に登録される
2003年: 大講堂が復興され、三尊像が弥勒三尊の名に戻される
なぜ、東塔は「音楽」にたとえられたのか

東塔には、「凍れる音楽」という言葉が語り継がれています。誰が最初に口にしたのかは、はっきりしません。歌人の佐佐木信綱は、この塔をこう詠みました。「ゆく秋の 大和の国の 薬師寺の 塔の上なる 一ひらの雲」。




ここからは私の想像です。
東塔は3重の塔です。ふつうなら屋根は3つ。ところが各層に裳階がつくので、大きな屋根と小さな屋根が、大・小・大・小・大・小と交互に重なります。同じ形がくり返されながら、少しずつ上へ細くなっていく。その並びが、音楽の旋律や拍子を思わせたのではないでしょうか。
音楽は、鳴った端から消えていくものです。ところが塔は、同じ拍子を何百年も目の前に見せ続けます。流れていくはずのものが、止まって見える。だから「凍った」と言いたくなったのかもしれません。もちろん、これは私の見立てです。
まとめ:溶かして固めた像と、凍らせた塔
薬師寺は、流れるものを止めた寺だと私は思っています。
溶けて流れていた銅は、型の中で冷えて固まり、薬師さんの肌になりました。日光・月光さんの腰のひねりは、動いている途中の体を、そのまま銅に留めたように見えます。そして東塔は、音楽が凍ったものと語り継がれてきました。溶かして固めた像と、凍らせた塔。素材も形も違うのに、どちらも「流れを止めた造り」です。
金が落ちた黒い肌は、その止めた跡がむき出しになった姿でもあります。金色だった時代は、想像するしかありません。でも、造りは今も、目の前で読めます。


では、その「止め方」を、銅ではなく乾漆や木で行うと、像の姿はどう変わるのか。答えの手がかりは、北へ歩いてすぐの寺にあります。
次に会いに行くなら
銅の次は、乾漆と木。薬師寺から北へ歩いて、唐招提寺へ。奈良時代の乾漆や木の大きな像が金堂に並びます。銅の薬師寺と素材を比べると、「止め方」の違いが見えてきます。
同じ薬師如来さんの「土と木」なら、新薬師寺。土の十二神将に囲まれた木の薬師さんに会えます。同じ薬師如来さんでも、素材と時代が変わります。
地方で木の薬師三尊を見るなら、福島の勝常寺。平安時代初期の木の薬師三尊が、東北に残ります。奈良の銅の薬師三尊が、地方で木の像としてどう表されたかを見比べられます。
飛鳥の像と体つきを比べたい方は、法隆寺の仏像もあわせてどうぞ。
同じコース「奈良の基本をおさえる」で、こんなところはどうでしょう
薬師寺の拝観料金、時間、宗派、電話など
正式名称 | 薬師寺(やくしじ) |
宗派 | 法相宗大本山 |
住所・アクセス | 〒630-8563 奈良県奈良市西ノ京町457/近鉄橿原線「西ノ京駅」の東側すぐが裏門。正門の南門は駅から南へ約100m先/駐車場は境内の南側にあり、有料 |
電話 | 0742-33-6001 |
拝観時間・拝観方法 | 8:30〜17:00(拝観受付は16:30まで)/白鳳伽藍(金堂・大講堂・東院堂など)を拝観。修理などで拝観できない堂がある場合があります |
拝観料金 | 大人800円・中高生500円・小学生200円(白鳳伽藍)。1/1〜1/15、3/1〜6/30、8/13〜8/15、9/16〜11/30は玄奘三蔵院伽藍もあわせて、大人1,100円・中高生700円・小学生300円。25名以上の団体割引あり |
拝観時間・料金は変わることがあります。お出かけ前にご確認ください。参考:薬師寺公式サイト(拝観情報)
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地域タグ:奈良県の仏像

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