奈良・新薬師寺の仏像|薬師如来坐像と、土でできた十二神将に会う(拝観料・時間つき)

円い土の壇の上を、12人の武将がぐるりと囲んでいる。その中心に、目を大きく見開いた薬師如来さんが座る。新薬師寺の本堂は、そんな堂です。
場所は奈良公園の南、高畑町。市内循環バスの「破石町」で降りて、山手へ歩いて約10分です。東大寺や春日大社からも足をのばせます。南門をくぐると、鐘楼や地蔵堂が見えますが、華やかな堂塔が並ぶ寺ではありません。奥に、奈良時代の建物と伝わる本堂が1棟、ぽつんと建っています。
西ノ京の薬師寺とは別のお寺で、宗派は華厳宗です。堂は1つの部屋で、入ってすぐに全体が見渡せます。私はこの堂を「仏像のメリーゴーランド」と呼びたくなります。円い壇のまわりを、ぐるりと歩いて回れるからです。
新薬師寺・十二神将:円い壇の上で、外をにらむ12体
本堂の中央に、高さ約90cm、直径約9mの円い土の壇があります。その上に、12体がぐるりと立つ。壇のまわりを歩きながら、1体ずつ正面から見られるのが、この堂のいちばんの特長です。
12体は、中心の薬師如来さんに向かってではなく、外を向いて立つとされます。守る相手を見るのではなく、近づくものをにらむ配置です。そうなると、壇のまわりを歩く私たちが、にらまれる側になります。私はこの堂を、薬師さんの前に12の門番が輪になって立つ姿だと見ています。
像高は約154〜166cm。ほぼ等身大です。口の開け方、武器の構え、髪の形が、1体ずつ違います。表面には青・朱・緑・紫の彩色が施されていたとされ、いまも部分的に色が残っています。眼にはガラスの吹き玉が使われているそうです。堂内は少し薄暗いので、目の光り方は、近づいて見比べてみてください。
仏像リンク編集部MEMO 📝




十二神将は、薬師如来さんを守る12の武将です。薬師如来さんがどんな如来なのかは、こちらにまとめています。
この12体は、もとから新薬師寺にいたのではなく、高円山のふもとにあった岩淵寺という寺から移されたと伝わります。素材は粘土でつくる塑像(そぞう)で、国宝に指定されているのは11体です。
残る1体、国の指定名で宮毘羅(くびら)大将像(寺では波夷羅大将と呼ぶ)は、江戸時代末期の地震で倒壊し、昭和6年(1931)に木で補われました。土の輪の中に、木の1体が混じっている。見つけたら、足を止めてください。
名称: 塑造十二神将立像(国宝。宮毘羅大将像を除く11躯)
時代: 奈良時代(8世紀)。宮毘羅大将像は昭和6年(1931)の補作
像高: 約154〜166cm(152〜166cmとする資料もあり)
材質: 塑造(木の骨組みに縄を巻き、粘土で肉づけ)。補作の1体は木造
特徴: 円い壇の上に外向きに立つ。口の開け方、武器の構え、髪の形が1体ずつ違う。いまも青・朱・緑・紫の彩色が部分的に残る。
新薬師寺・薬師如来坐像:円壇の中心で、まっすぐ前を見る本尊
12体が外をにらむ輪の中心に、薬師如来さんが座っています。像高は約191cm。カヤの木でつくられ、頭部と体幹を1本のカヤから彫り出す一木造です。彩色や漆箔はなく、木の肌が見えます。ふっくらとした体つきで、左手には薬壺を持ちます。
なにより目を引くのは、大きく見開いた目です。外を向く12体の中心で、本尊だけがこちらをまっすぐ見ている。外へにらむ目と、内からまっすぐ見る目。この堂は、目の向きが2種類あります。
仏像リンク編集部MEMO 📝




像の背後の光背には、花の上に6体の小さな仏像が表されています。本尊とあわせて七仏薬師を表すとされます。創建のころは、薬師如来さんが7体並ぶお堂だったと伝わります。いまは、その7体ぶんを、この1体と光背が引き受けています。
昭和50年(1975)の調査では、像の中から平安時代初期とみられる法華経8巻が見つかりました。この経典も国宝です。
名称: 木造薬師如来坐像(国宝)
時代: 平安時代初期(8世紀末とする案内もあり)
像高: 約191cm
材質: カヤ(頭部と体幹を1本から彫り出す一木造。手足は同じカヤ材を寄せる)
特徴: 大きく見開いた目。ふっくらとした体つき。彩色・漆箔はなく、木の肌が見える。光背に6体の小さな仏像を配して七仏薬師を表す。
その他の見どころ
地蔵菩薩立像(景清地蔵)は、平景清の伝承にちなむ像です。近くの地蔵堂から移されたと伝わります。体内から見つかったと伝わる裸形の地蔵菩薩立像は「おたま地蔵」と呼ばれ、安産や健康を願う信仰があります。公開の状況は、お寺の案内で最新のものをご確認ください。
行事では、1月8日の修正会と、4月8日の修二会が知られます。修二会は十種の造花を本尊に供えることから「花会式」と呼ばれ、夜には長さ約7mの大松明が本堂のまわりをまわる「おたいまつ」があります。


花会式の名は、1107年に堀河天皇が皇后の病気平癒を薬師如来さんに祈り、回復した皇后が翌年に10種の造花を供えたことに由来すると伝わります。行事の日は拝観の時間が変わることがあります。お出かけ前に、公式のお知らせをご確認ください。
いま見られる秘仏・特別公開は、こちらでまとめています。
お寺の歴史と伝承


公式の案内では、747年に光明皇后が、聖武天皇の病気平癒を祈って創建したとされます。奈良時代には、金堂や東西の塔をもつ大寺でした。金堂には七仏薬師が安置され、日光・月光菩薩も7体ずつ、十二神将もそろっていたといわれます。
780年には西塔が落雷で焼け、962年には暴風雨で金堂などが倒れた記録が残ります。やがて衰え、いまの本堂は、境内の東側にあったお堂が、いつの頃からか本堂になったものです。奈良時代の建物です。鎌倉時代には、華厳宗中興の祖といわれる明恵上人(みょうえしょうにん)が再興したと伝わります。
主な歴史年表
747年: 光明皇后が聖武天皇の病気平癒を祈って創建したと伝わる
奈良時代(8世紀): 十二神将がつくられる
平安時代初期: 薬師如来坐像がつくられたとされる
780年: 西塔が落雷で焼失したと伝わる
962年: 暴風雨で金堂などが倒れた記録が残る
鎌倉時代: 明恵上人が再興したと伝わる
江戸時代末期: 地震で十二神将の1体が倒壊
1931年: 倒壊した1体が木で補われる
1975年: 薬師如来坐像の像内から法華経8巻が見つかる
なぜ、土の像が12体そろって残ったのか
奈良時代の仏像には、木や銅、乾漆などの素材がありますが、土の像(塑像)は、その後ほとんどつくられなくなりました。土は湿気に弱く、保存に気をつかう素材だからです。東大寺の日光・月光菩薩も、この塑像です。
つくり方は、木の骨組みに縄を巻き、藁をまぜた粘土で大まかな形をつくります。その上に、紙の繊維や雲母をまぜた土を塗って仕上げます。


ここからは私の想像です。
土は、盛り足しも、削りもできる素材です。怒った顔の筋肉や、逆立つ髪を、木より細かく表せます。12体を、それぞれ違う怒り方で並べるとき、土が選ばれたのは、そのためではないでしょうか。
けれど、土は壊れやすい。実際に、江戸時代末期の地震で1体が倒れました。そう考えると、残りの11体が8世紀の姿でここにいること自体が、堂を守り続けた人たちの手の跡のように思えます。木で補われた1体は、地震の傷跡であり、守り続けた歴史そのものだと私は見ています。
まとめ:外をにらむ12体と、前を見る本尊
薬師如来さんの目は、まっすぐ前を見ています。12体の目は、外へ向いています。守られる側が前を見て、守る側が外をにらむ。その輪のなかで、1体だけ木が混じっている。土が壊れやすいことを、この1体が教えてくれます。


では、この12人が土ではなく木で、奈良ではなく鎌倉の谷戸の奥に立っていたら、どんな顔をしているのでしょうか。
次に会いに行くなら
土の12体のあとに、木の12体を見るなら、覚園寺。鎌倉の谷戸の奥で、薬師三尊を十二神将が囲みます。奈良の十二神将と見比べると、素材も時代も違う12体の顔が見えてきます。
地方の十二神将に会いに行くなら、横蔵寺。岐阜県の山あいの寺に、薬師如来さんと十二神将が伝わります。少し遠い寺ですが、地方の十二神将への次の一歩です。
奈良時代の素材の違いを見比べるなら、秋篠寺。頭が奈良時代の乾漆、体が鎌倉時代の木でできた伎芸天に会えます。土の像のあとに見ると、素材の違いが分かります。
同じコース「奈良の基本をおさえる」で、こんなところはどうでしょう
新薬師寺の拝観料金、時間、宗派、電話など
正式名称 | 華厳宗 日輪山 新薬師寺 |
宗派 | 華厳宗 |
住所・アクセス | 〒630-8301 奈良県奈良市高畑町1352/市内循環バス「破石町」下車、山手へ徒歩約10分/JR奈良駅・近鉄奈良駅からタクシー約10分 |
電話 | 0742-22-3736 |
拝観時間・拝観方法 | 9:00〜17:00(休みなし。行事などで拝観を停止する日あり)/本堂内を拝観 |
拝観料金 | 個人:大人・大学生600円、中高生350円、小学生150円/団体:大人・大学生550円、中高生300円、小学生120円 |
拝観時間・料金は変わることがあります。お出かけ前にご確認ください。参考:新薬師寺公式サイト(ご参拝のご案内)
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地域タグ:奈良県の仏像

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