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【見仏入門】No.40 愛知・滝山寺の仏像・見どころ/運慶&湛慶作 観音菩薩像、帝釈天像、梵天像など

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愛知県岡崎市にある滝山寺(たきさんじ)は鎌倉幕府ゆかりの寺で、仏師運慶作の仏像があることで仏像ファンには有名な場所です。

また奇祭として有名な滝山寺(たきさんじ)の鬼祭りは、旧正月7日に行われてきましたが、現在はその7日に近い土曜日に行われていてこちらも広く知れ渡っています。これは、本尊の薬師如来に天下泰平、五穀豊穣を祈る祭りとされ、伝承では源頼朝の祈願に始まるといいます。

鬼祭りは、昼頃から十二人衆登山行列、仏前法要、長刀お礼振り、鬼塚供養(豆まき)、庭祭り(田遊祭)などがおこなわれ、最後に盛大な火祭りが行われます。特に火祭りは、午後8時頃に、運慶作と伝えられる祖父面・祖母面・孫面をかぶった鬼が、燃え盛る松明の炎の中から鏡餅を持って登場し、天下泰平・五穀豊穣を約束するといわれています。

 国重要文化財である滝山寺本堂に巨大な松明を30数本持ち込み、半鐘や太鼓を打ち鳴らし、ほら貝を吹く中を鬼が乱舞する様はまさに奇祭にふさわしく、こんなに炎が上がって建物は大丈夫なのかと心配になるくらいです。

最後に、観衆が消された松明を持ち帰り、家での家内安全、五穀豊穣などを祈願するといわれています。

この祭りの起源は鎌倉時代とされていますが、室町時代末期には一時完全に途絶えています。徳川家光が東照宮を境内に建立してからまた復活して、江戸末期まで続いてきたそうですが、明治になりやはり中止され、今の祭りは明治21年から復活したものだといわれています。

滝山寺へのアクセス

名鉄名古屋本線「東岡崎駅」から大沼方面行バスで25分「瀧山寺下」下車すぐです。

ただし、バス本数は少ないので、急ぐ場合は「滝団地」までならバスは1時間に数本出ています。滝団地から川沿いに歩いて登り道を20分くらいでしょうか。

寺は山の斜面に建ち、下には矢作(やはぎ)川の支流である「青木川」が流れています。

瀧山寺下バス停のすぐ横から階段を登ると少し広い境内と正面に「本堂」があります。有名な鬼祭りはここで行われます。本堂の右手に「滝山東照宮」があり、こちらは日光東照宮などと同じようにきらびやかです。

運慶仏は宝物館に安置されていて、この境内からは東照宮の脇から少し下がったところにあります。

宝物館を最初に訪れるのでしたら、バス停から少し川沿いに沿って登った先に「観音堂」があり、その先から宝物館に行くことができます。

仏像を拝観するには建物前の呼び出しブザーを押して管理者の方(ご住職)を呼び出して鍵を開けてもらうことになります。これも運悪く管理者の方がおられない時は拝観できないということもあるそうです。シーズンオフなどの時には出来るだけ事前に電話で確認した方がよさそうですよ。

さて、鎌倉時代の1267年に建てられた重文の「三門」(仁王門)はというと、バス停より川沿いを600mほど下ったところに建っています。ここには寺伝では運慶の作という仁王像も安置されています。時間に余裕がある場合は、こちらに立ち寄って、ここから「滝団地」バス停まで歩いて行ってもそう遠くはないでしょう。

滝山寺の歴史

滝山寺(たきさんじ)は寺伝では奈良時代に天武天皇の命で、修験道の開祖とか山伏の元祖とも言われている役小角えんのおづの)が、この近くを流れる青木川で拾い上げられた金色に輝く薬師如来像を祀(まつ)るために建てたといわれる「吉祥寺」が始まりだとされています。役小角が建てたといわれる寺院は山岳信仰の中心であったため全国の山岳地帯に広がっています。奈良の女人荒野といわれる「室生寺(むろうじ)」もその一つです。しかしその後もあまりはっきりした資料はなく、この寺も山岳信仰の寺として続いてきたものと考えられます。

この役小角の話は岡崎市史にも載っていて、その内容は、「行者が修行の為に渓流に入ったところ、瀧があり、その滝つぼに大きな龍が金色の仏像を守護していた。行者はその仏像を袈裟に包んで引き上げたところ、金の薬師如来であった。行者は時の朝廷に報告したところ「鎮護国家の霊場を建てよ」と勅命が下り、自ら薬師如来をきざみ、その仏神に金色の薬師如来を納め、堂に安置した」

ということのようです。これもどこか室生寺の話に似ているように思いますね。

寺の記録としてはっきりしているのは、保安年間(1120年~1123年)に比叡山で修業した天台宗の仏泉上人永救(えいぐ)が本堂などを整備して再興してからです。

その後この寺は熱田神宮との関係が深くなり、鎌倉時代に入った時に寺の住職となったのはこの尾張熱田神宮大宮司であった藤原範忠(のりただ)の子どもの「寛伝」です。

そして寛伝は、鎌倉幕府を開いた源頼朝とは従兄弟(いとこ)にあたるというのです。

そのため、鎌倉幕府との関係もかなり強かったと思われます。幕府の庇護(ひご)でこの寺の大きな建物などが整備されたのです。また、頼朝が1199年に死去し、その2年後の三回忌に「寛伝」は頼朝を追善(つぜん)するために当時名高かい「仏師運慶・湛慶父子」に観音菩薩と両脇侍の三尊像を作らせといわれています。

 

2017年現在運慶の作と認められているのは全国に31体だけです。そのうちの3体がこの滝山寺にあることになります。また愛知県ではこの寺だけです。

やはりこの寺の「寛伝」の力が大きかったのがわかります。

現在の「鬼祭り」もこの頃から始められたといわれています。

その後、平安時代には三河守護足利氏の庇護を受け、南北朝時代には足利尊氏の庇護を受けて発展してきましたが、戦国時代には大分寺領が減ってしまったようです。

それを徳川の時代になって幕府の庇護が復活し、寺勢がもとに復活したようです。さらに、徳川家光の命で寺の境内に日光・久能山(くのうざん)と共に日本三大東照宮といわれる「滝山東照宮」が建設されました。この東照宮も創設当時はこちらの滝山寺と一体で運営されていましたが、明治維新時の神仏分離令により現在は神社として独立しています。

滝山寺の仏像の詳細

さて、この滝山寺には数多くの仏像が安置されていますが、仏像ファンのお目当てはなんといっても運慶・湛慶父子の作という観音菩薩と脇侍の梵天・帝釈天像でしょう。またもう一つは50年に1回しか開帳されない秘仏である本尊の「薬師如来像」です。

その他にも寺の説明では運慶たちによるという像やお面がありますが、こちらは今のところ運慶たち慶派の仏師の手によるものとは確認されていません。

では、一つそれらの像を一つずつ見ていきましょう。

観音菩薩立像及び梵天・帝釈天立像 【重文】(鎌倉時代)〈運慶 湛慶作〉宝物殿安置 像174.4cm、梵天像106.5cm、帝釈天像104.9cm

宝物館の中に入ると薄暗い中にすばらしい三尊像が安置されています。

ここでは、運慶(うんけい)湛慶(たんけい)親子の作である仏像が、ガラスケースもなく、すぐ目の前で拝観できますよ。

あと「観音堂」の本尊だった「十一面観音像」(平安時代末期?)も宝物館に安置されています。

各像の肌の色は帝釈天像が金色で、観音菩薩像梵天像は肌色です。

この像の彩色は江戸末期から明治にかけて塗りなおされたそうです。 これらの色が元々どのようになっていたのか良くわかりませんが、観音像梵天像の肌の色は何処か艶(なまめ)かしさがあります。

この彩色のせいで、最初は運慶たちの手によるものとみなされなかったようです。

(聖)観音菩薩立像 像高174.4cm 寄木造 彫眼

蓮華(れんげ)を持つ左手に右手を添えた立ち姿で、蓮華座の上に 立っています。彩色の肌の色は、帝釈天像が金色で、観音像梵天像はもっちりした肌色です。

この彩色は、江戸時代末から明治初め頃にかけて、当初の彩色を剥がさずに、上から新たな下地をかぶせて色を厚塗りしたようです。このため、派手な色彩と厚塗りしたことにより彫刻の彫りが浅くなって、まったく運慶仏とは見られていなかったといいます。

そんなノーマークの仏像が脚光を浴びたのは、昭和54年(1979年)になってからです。

その前に、寺の古縁起「滝山寺縁起」が前文復刻され、この中の記述に運慶作の仏像が造立された旨の記述があるのを、安城市在住の美術史家小山正文氏が発見して論文を発表したのです。これで一躍注目を集めたのです。

そして鎌倉彫刻研究の第一人者の調査でこの聖観音帝釈天梵天の三尊は記述通り運慶・湛慶の作ということが認められたのです。

これは昭和34年(1959年)に発見された浄楽寺願成就院の運慶作品から、20年ぶりの運慶仏の大発見だったのです。

そしてさらに、1961年にこれを確かめるために像のX線写真を撮ったところ、寺縁起に書かれている内容が真実であると見られる証拠が見つかりました。

寺の縁起によれば、鎌倉時代の僧・寛伝が、頼朝の三回忌(1201年)に、母方の従弟にあたる源頼朝を追善するために、仏師運慶・湛慶父子に像を作らせ、像内に頼朝の鬚(あごひげ)と歯を納入したというものです。

上の写真がそのX線写真ですが、顔の歯の部分に針金のようなものを巻きつけられた小箱が吊るされ、その箱の中に歯のような形をした影があるのが確認されました。また像の大きさもほぼ頼朝の等身大といわれています。

さて、この上塗りされた彩色状態が運慶仏の彫刻の良さを消してしまっているといわれているのですが、なぜこんな塗装をしたのでしょうか?

そこには明治初期の廃仏毀釈などの影響もありそうです。江戸時代にも彩色補修は行われていたようですが、問題は明治以降の塗りにあるようです。

明治になり外国からの文化が押し寄せてきて生産性重視の産業革命時代に考えられた補修法が、この以前の漆を落とさずに上塗りするという結果になってしまったようです。この塗装を落として昔の塗装に戻すことができたら国宝になっても不思議ではないでしょう。

帝釈天立像 像高104.9cm  桧(ヒノキ)材の寄木造 彫眼

 

この帝釈天像はどこかで見たことはありませんか?

京都東寺のイケメン仏として名高い「帝釈天像」(平安時代の作・国宝)にそっくりです。東寺の像は白象に乗って半跏踏み下げの姿勢をとっていますが、こちらはそれを立像にしたようです。

目は三尊像ともに額の所にもう一つの目を持つ三眼で、彫眼です。

また条帛(じょうはく:体にたすき状にかけた布)の下に胸甲(きょうこう:よろいの役目をする胸当て)を着け、右手には、東寺像と同じく、法具である独鈷杵(とっこしょ)持ち、右足をやや踏み出して荷葉座(かしょうざ:蓮の葉の形をした座)の上に立っています。

顔や像全体の持つ雰囲気がとてもよく似ています。

梵天立像 像高106.5cm 桧(ヒノキ)材の寄木造 彫眼

梵天像は四面四臂(顔が4つで手も4本)像で、左手の一手に蓮華を持ち、右の一手は軽く拳をつくり、蓮華座の上に立つ姿です。

東寺の像は4羽の鵞鳥(がちょう)の上に乗った梵天坐像です。

滝山寺の梵天像は、これを立像にしたと解釈されていますが、雰囲気も帝釈天像ほどは似ていません。

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本尊薬師如来坐像(年代不詳)〈作者不詳 像高 ?〉本堂安置

 

滝山寺の本堂には本尊である「薬師如来坐像」とその脇侍である日光・月光菩薩像と眷属(けんぞく)である十二神将像が安置されています。

この本尊は50年に1度しか開帳されない秘仏で、普段は厨子の中に安置されていて、その前にそっくりな「お前立」の像が安置されています。

50年に1度なのですが、前回が平成元年【1989年】ですから次は2039年となりますね。

でも特別な記念日などに短い時間開扉されることもあるようです。2012年5月の連休に山門落慶記念の行事として1週間くらいの期間、御開帳されています。

 

こちらが「お前立」でおかれている薬師如来坐像

やはり顔の表情などが違っています。

本堂内には中央に本尊の厨子があり、その左右に日光・月光菩薩像と6体ずつの十二神将像が安置されています。また兜跋(とばつ)毘沙門天も祀られています。

これらの日光・月光菩薩十二神将像は寺伝では運慶の作とされていますが、どう見てもその技法などは運慶などというには違いが大きく、制作年代も鎌倉時代から室町時代頃の作ではないかと見られています。

ただ秘仏の本尊については、像のデータなども公開されていませんので詳細は不明です。

こちらは鎌倉時代より前の可能性もありそうです。

鬼面

この鬼祭りに使われている「祖父面・祖母面・孫面」の三つの面は、寺伝では運慶の作と伝えられています。

また言い伝えでは、この鬼面には、他に父面・母面もあったが、二人の旅僧が斎戒沐浴(さいかいもくよく:神聖な行事を行う前に、飲食や
行動を慎み、水を浴びて心身を清めること)をせずに父面・母面をつけて祭りを行ったところ、面が顔について離れず息絶えてしまったという。そのため、この二人を薬師堂の前に面をつけたまま葬り鬼塚として供養したために、父面・母面が残っていないといわれています。いまでも残された3つの面をかぶる人は祭り前の七日間、斎戒沐浴して別室で起居し、四足動物の肉を口にしてはいけない決まりがあります。そして男子のみで、女人禁制なので炊事も男が行います。

 

滝山寺の御朱印

滝山寺の拝観料金、時間、宗派、電話など

正式名称

吉祥 陀羅尼山薬樹王院 滝山寺

宗派

天台宗

住所

〒444-3173 愛知県岡崎市滝町字山籠107

電話

 0564-46-2296

拝観時間

年中無休(臨時休業あり)
9:00〜17:00(季節によって変更あり)

拝観料金

拝観料300円 ※東照宮は別途200円
団体拝観は事前に予約が必要

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