【見仏入門】No.17 京都舞鶴・金剛院の仏像/快慶作の深沙大将立像・執金剛神立像など


 金剛院(こんごういん)は日本海側の若狭湾(舞鶴湾)に近い京都府舞鶴市にあります。

お寺は少し山側によった川沿いにあるため、若葉の香る春から雪に飾られる冬まで四季折々に楽しめる場所です。

特に秋の紅葉は有名で、室町時代に再建された美しい三重塔や江戸時代に建設された鶴亀庭園とともに、萌えるような赤や黄色の楓(かえで)の葉の織り成す様は「丹後のもみじ寺」として多くの人の心を和ませてくれます。

 また三島由紀夫の小説「金閣寺」にも登場するこの寺は、文化財も多く、鎌倉時代の仏師「快慶」作の深沙大将立像など仏像ファンなら一度は訪れてほしいお寺です。ただし、宝物殿の拝観には事前申し込みが必要です。

 

金剛院へのアクセス

 金剛院へはJR小浜線の松尾寺駅から徒歩20~25分ほどです。

駅から南へすぐ丹後街道(国道27号線)に出て西に10分ほど行くと、右側に鹿原神社があり、その角の「金剛院口」信号(点滅)を左折して鹿原川(かわらがわ)に沿って府道562号を800mほど行ったところにあります。またこの金剛院口信号の近くに「鹿原(かわら)」バス停があり、東舞鶴駅からここまでバス(高浜行)で来ることができます。しかし、朝夕以外はバスの本数は少ないです。

車の場合は舞鶴若狭自動車道(高速)の舞鶴東ICから国道28号線を北へ行き、丹後街道(国道27号線)に出て右(東)へ進み、「金剛院入口」信号を川に沿って南に少し入った場所にあります。

またタクシーは松尾寺駅にはありませんので東舞鶴駅前から利用することになります。

 

山に映えた三重塔と、山の紅葉や境内のもみじが織りなす景観は見事です。

ただ山間なので、夕方日が落ちるのは早いです。

また寺全体の紅葉などを眺めるには、道路の少し奥の鹿原公園からの眺めがお勧めです。

この鹿原公園では竹林を造り、秋のシーズンには夕方5時から三重塔のライトアップに合わせて竹灯り(キャンドルイルミネーション)を灯して幻想的な景色を演出しています。

境内の庭は、江戸時代に細川幽斉(藤孝)が築造したと伝えられ、鶴亀の庭と呼ばれています。いわゆる儒教の思想を取り入れた中国の須弥山信仰の表れとして、中央の池に亀島を浮かべ、三尊石、礼拝石などの石組みが取り入れられています。

またこの寺は金閣寺放火事件を扱った三島由紀夫の小説「金閣寺」にも登場します。

三島由紀夫はこの金閣寺を書く当り、周辺の寺などにも泊まりながら詳しく調べています。小説金閣寺の主人公の放火犯「林養賢」の故郷がこの金剛院に近い舞鶴市安岡です。

小説の一部を抜粋しましょう。

「金剛院は名高かった。それは安岡から歩いて十五分ほどの山かげにあり、高丘親王の御手樽の栢や、左甚五郎作と伝えられる優雅な三重塔のある名刺である。夏にはよく、その裏山の滝を浴びて遊んだ。・・・・・・・・金剛院の御堂は、もっと昇ったところにある。丸木橋をわたると、右に三重塔が、左に紅葉の林があって、その奥に召五段の苔蒸した石段がそびえている。」

金剛院の描写がまさによく表されていますね。

通称は「千年榧(カヤ)
この小説に出てくる「栢(かや)」は、現在、舞鶴市文化財に指定されていて、「京都の自然2000選」にも選ばれています。

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さて、金剛院の入り口である鹿原川に架かる橋を越えると、参道入り口右手に「奉行杉(ぶぎょうすぎ)」という大きな杉の木があります。この金剛院のある一帯は、平安時代後期には「志楽庄(しらくのしょう)」と呼ばれた地域で、この「奉行杉」は平清盛の父「平忠盛(たいらのただもり)」が植えたとの言い伝えが残されています。

山門をくぐったところに入山料(宝物館は別)を入れる箱が置かれています。

右手に本坊があり、山の中に入ったような印象を受けます。春には新緑が映え、秋の紅葉とすばらしい景色が広がります。

三重塔(重要文化財)内部には、真如法親王(高丘親王)の坐像が安置されています。

塔から本堂(1840年再建)へは100段ほどの苔むした石段を登ります。

金剛院の駐車場

50台収容出来る無料の駐車場がご利用いただけます(大型バス可)。

11月中旬から下旬のシーズンには観光バスもやってきます。

観光バスがやってくると川沿いの道は少し狭いので交通には注意が必要です。

金剛院の紅葉情報(ライトアップ)

ここには約3000本のもみじの木があり、紅葉の名所として有名なスポットで、人気です。2017年に4年ぶりに開催された夜間ライトアップは、幻想的な光景で多数の参拝客がありました。紅葉シーズンに、2日間程度、17時~20時の日程で、ライトアップが行われますので詳しくは観光協会からなどの情報をキャッチしましょう。

金剛院の歴史

 

 金剛院は平安時代初期の829年に高岳親王(たかおかしんのう)が創建したと伝えられています。

高岳親王平城天皇の第三皇子ですが、次の嵯峨天皇が即位した時に皇太子となります。

しかし、810年に起きた「薬子(くすこ)の変」で嵯峨天皇が失脚し、高岳親王は出家して空海の弟子となり法名を「真如」と名乗りました。このため「真如親王(しんにょしんのう)」とも呼ばれています。

この真如(親王)は東大寺や高野山で修業をし、数々の寺院やお堂を建てたといわれていて、60歳を過ぎた862年には唐(中国)に渡り、長安から天竺(インド)を目指していく途中で865年に現地で亡くなったとされています。

現地で亡くなってしまったために、高岳親王の名前も表舞台から隠れてしまい、日本に残された寺も、その後次第に荒廃していきました。 この金剛院も同様で、時と共に次第に衰退してしまったのですが、これを再興したのは真如の死後200年ほど経った11世紀の白河天皇です。

白河天皇は次の天皇をわずか8歳の堀河天皇に譲って、自らは上皇となり、実際の政治の実権を握りました。このやり方は「院政」といいますが、この院政をしいた初めての天皇です。この院政をしく前の1082年にここ舞鶴に不動堂を建て、比叡山無動寺の相応和尚(そうおうかしょう)が彫刻した三体仏の一つとされる「波切不動尊」(海難や水難にご利益があるとされる)を若州(じゃくしゅう:若狭国のこと)から移し安置したといわれています。

またその他に多くの諸堂も建立して、寺の名前も慈恩寺(じおんじ)金剛院と称しました。

現在、この寺の本尊は「波切不動尊」で、この時に祀ったものだといわれています。この本尊は、毎年節分の日のみ開帳される秘仏です。

この波切不動尊の作者といわれる「相応和尚(そうおうかしょう)」は、この比叡山無動寺を開創し、今でも行われている比叡山の最も過酷な修行である千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)を初めて行った人物といわれています。

また、1146年には阿弥陀像を安置する堂(本堂)が平清盛の父、平忠盛(たいらのただもり)により造営されました。 また寺のシンボルともなっている三重塔は、室町時代に再建されたものです。

その後、代々の藩主(田辺藩)の庇護(ひご)も厚く、本堂・護摩堂・食堂・方丈などの建物も整備されてきました。

 

金剛院の仏像の詳細

 この寺は、快慶の2尊像を含めて、主な仏像は宝物館で拝観できます。

宝物館の拝観はお寺の方がいないと拝観できませんので、確実に拝観させていただくにはお寺に一度お問い合わせしてから訪問しましょう。

 

深沙大将(じんじゃだいしょう)立像【重文】(鎌倉時代 快慶作)〈寄木造・彩色 像高84㎝〉

 鎌倉時代の有名な仏師快慶の代表作とも言われる仏像です。

この像の左足の内側に「巧匠アン(梵字)阿弥陀」の墨書銘があるため、快慶が法橋の称号を受けた1203年より前の初期の作品であることがわかります。

 深沙大将(じんじゃだいしょう)は、多聞天の化身ともいわれますが、西遊記の話の元となった唐の玄奘(げんじょう)三蔵法師が仏典を求めて天竺(インド)への旅の途中、砂漠で危険な目にあった時にその危険から救ってくれたという仏教の守護神です。 その姿は、左手で青蛇をつかみ(この像は欠失)、右手の掌を前にして構え、腰布(獣皮)だけを身に着けた上半身裸の憤怒の表情をした力士形の像で、砂漠を乗り越える獣の象徴とされる象の口から足を出しています。

腹部に子供の顔を現す場合もありますが、この像にはありません。

また一般的には三蔵法師は何度もこの深沙大将に食われたとされ、そして何度も生まれ変わったといわれています。 このため、この深沙大将の首から胸の前には前世の法師の髑髏(どくろ)を飾りとしてつけていたといわれますが、この像は欠損したためかありません。

この像は、髪を逆立て、その顔はすさまじいばかりの忿怒の表情をしており、また全体に動きのある構図でありながら、筋骨たくましい体やしっかりした腰の力強さなど、写実的な迫力に満ちており、仏師快慶の初期の造像姿勢が表現されている傑作といえるでしょう。

深沙大将の造像例は比較的少なく、全国でも9例ほどとも言われています。金剛院のほか、重要文化財に指定されているのは、高野山の霊宝館、福井県小浜市の明通寺、岐阜県揖斐郡の横蔵寺の像が挙げられますが、その他に三重県鈴鹿市の神宮寺や東京都の深大寺などの像など数件があります。

執金剛神(しゅこんごうしん)立像【重文】(鎌倉時代 快慶作)〈寄木造・彩色 像高86㎝〉

こちらも鎌倉時代の有名な仏師快慶の代表作と言われています。

執金剛神(しゅこんごうしん)像と深沙大将像は宝物館に入って右手にガラスケースの中に安置されています。

制作年代も「巧匠アン(梵字)阿弥陀」の墨書銘があるため、深沙大将像と同じく快慶初期の作品です。この2つの像は良く似ており、一対として製作されたものと考えられます。

執金剛神(しゅこんごうしん)は「金剛杵(こんごうしょ)を執(と)るもの」の意味で、手にはとても強く固い法具である「金剛杵」を持ってお釈迦様を守護する神です。その起源はギリシア神話のヘラクレスであるとも言われており、後にこの執金剛神が、この像が後に、阿吽の左右2つの「仁王(金剛力士)像」として表現されるようになったと考えられています。

しかし、仁王像は筋肉隆々の力士像ですが、執金剛神単独で表現される時は、甲冑(かっちゅう、よろいかぶと)をつけた武装した形で表現されます。

執金剛神像も深沙大将像と同じく日本での作例は少なく、東大寺法華堂(三月堂)の秘仏が有名です。

この金剛院の執金剛神像はこの国宝の法華堂(三月堂)像とよく似ており、快慶が法華堂の像を学んでつくったものと推測されています。

(東大寺 法華堂の執金剛神立像 奈良時代8世紀の作)

しかし、法華堂の像が等身大の塑造であるのに対し、こちらの金剛院の像はそれよりも小さな寄木造りです。

『舞鶴の文化財』の記述には、

「両像には、無位時代の快慶が天平古像や、密教図像を学んだあとがうかがえ、この像も東大寺の鎌倉復興期の大勧進であった俊乗房重源と深いつながりのあった快慶による復古的な制作であることがうかがえる。

 重源の数々の作善を記録した『南無阿弥陀仏作善集』の高野新別所の条には、この像と深沙大将の組合せが記されており、高野山と金剛院が美福門院の御願所であった関係から、両像が高野山か金剛院に移された可能性も強く、興味深い。」

と書かれています。

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高野山金剛峯寺に伝わる持国(じごく)天・増長(ぞうちょう)天・広目(こうもく)天・多聞(たもん)天の四天王像が霊宝館に安置されていますが、この像とセットになった執金剛神像と深沙大将像があり、これは仏師運慶の作ではないかと長年言われてきましたが、2011年に銘文が発見され、2体とも仏師快慶の作と判明しました。

また四天王像のうち広目天像にも快慶の銘があります。

金剛峰寺の深沙大将立像(快慶作)

 

阿弥陀如来坐像【重文】(平安時代後期)〈寄木造 像高:約170cm〉

この阿弥陀如来坐像は、1146年に金剛院が美福門院(鳥羽上皇の后)の御願所となった時に造営された阿弥陀堂の本尊とされています。

 

増長天・多聞天立像【重文】(平安時代後期)〈寄木造 像高:約160cm〉

 この二天像は増長天と多聞天と伝えられており、いずれも阿弥陀如来坐像と同じ頃の平安時代後期の作と見られています。

寄せ木造りの像ですが、運慶・快慶などの像のような力強さや動きはありません。

どちらかというと上品な姿で貴族好みの像といえるでしょう。

 

金剛力士像 2躯【重文】(鎌倉時代)〈寄木造 像高:約180cm〉

この金剛力士像(仁王像)は鎌倉時代の作で、動きのある力強い姿で、それほど大きくはありませんが迫力のある像です。

この像は寺の仁王門に安置されていましたが、19世紀末の水害でこの仁王門が流されてしまったために、像だけが寺に移されたと考えられています。

 

【参考】京都舞鶴地方に伝わる快慶の仏像

現在この金剛院には2体の快慶が造った像が安置されていますが、同じ舞鶴市にはもう2体の快慶仏が残されています。またこの全部で4体の快慶作の仏像はいずれもこの金剛院に安置されていたとも伝わっています。

現在金剛院以外にある像は、この金剛院にも近い「松尾寺」に安置されている「阿弥陀如来坐像」と京丹後市にある「如意寺」の「地蔵菩薩坐像」の2体です。

松尾寺の阿弥陀如来坐像【重文】(鎌倉時代 快慶作)〈像高89.3㎝〉

松尾寺は松尾寺駅からこの金剛院とは反対側の北東方向に徒歩約50分ほどかかりますが、西国33観音の29番札所でもあります。

この「阿弥陀如来坐像」は、仏像の目に水晶の玉眼がはめられており、平安時代後期の仏像に流行した優美な定朝様に代わる新様式として、武家政権にふさわしい写実的な作風です。

 

如意寺の地蔵菩薩坐像【府文】(鎌倉時代 快慶作)〈寄木造、彩色、玉眼 像高53.2㎝〉

如意寺は丹後半島の京丹後市にあります。

この地蔵菩薩坐像は1987年の修理時に仏師快慶の作であると確認された像です。

またこの像は「身代わり地蔵」とも呼ばれ、山椒太夫物語で山淑大夫に捕らわれた安寿厨子王が脱出しようとして見つかり、太夫から焼け火箸を当てられたのを、この地蔵が代って受けたといわれています。

実際には火事で焼けて焼けた後が残っているとされています。

また、この像は江戸時代の書「丹哥府志(たんかふし)」にはこの金剛院にあったことが書かれており、如意寺によれば、何時の頃からか如意寺の本山である金剛院に預けてあったのを、明治時代に取り戻したと伝えられています。

 

以上、金剛院の歴史や仏像のご紹介でした。
金剛院は、丹羽のもみじ寺と呼ばれるほど紅葉が有名です。周囲に見どころも多く、四季折々の草花を楽しむことも出来ます。是非、足を運んでみて下さい。

 

金剛院の御朱印

金剛院が登場します!
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金剛院の拝観料金、時間、宗派、電話など

正式名称

鹿原山金剛院慈恩寺

宗派

真言宗東寺派

住所

〒625-0014 京都府舞鶴市鹿原595

電話

0773-62-1180

拝観時間・料金

9:00~16:00

拝観300円、宝物殿500円

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