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No.57:香川県高松市・屋島寺の仏像/千手観音坐像、蓑山大明神、那須与一、ご朱印など

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今回は源氏と平家が合戦を繰り広げた屋島の戦いで有名な古戦場、四国高松の「屋島」にある「屋島寺(やしまじ)」を紹介します。

ここは弘法大師空海を祀った「四国八十八箇所霊場」の84番目の札所でもあります。寺は高台にありますので瀬戸内海が良く見下ろせる景色の良い場所。とっても気持ちぃぃ~!

ここには10世紀に作られた千手観音像が残されており、是非拝観しておきたい像の一つです。

屋島寺へのアクセス

屋島寺(やしまじ)は、四国香川県高松市の東北にある屋島と呼ばれる南北に5kmほど続く細長い台地の南嶺の山上にあります。

屋島(やしま)という名前は瀬戸内海に屋根のような形に浮かぶ島というところからそうよばれました。でも今は島とは名ばかりで、江戸時代からの塩田開発や埋め立てなどによって四国本島とほぼ陸続きになりました。

JR高松駅前の高松城跡公園入り口にある琴平電鉄の「高松築港駅」より2駅目の「瓦町駅」で志度線に乗り換え、「ことでん屋島駅」下車、バス(屋島山上シャトルバス)で山頂まで10分ほどで着きます。

また源平合戦の古戦場となった場所としても良く知られていますが、この古戦場は島の東側の入江で行われたものです。

山頂にある屋島寺のすぐ西隣には新屋島水族館があります。山上の水族館は全国的にも珍しいものです。ここも一時閉館となりましたが、事業主体が変わって2008年より再開して現在に至っています。毎日、イルカやアザラシのショーが行われていて子供たちの人気の場所になっています。

屋島寺の歴史

屋島は瀬戸内海に位置する台地状の島で、瀬戸内海は古代から大和朝廷にとって九州方面と大和(奈良)とを結ぶ交通路である瀬戸内海を一望できるために、屋島は大変重要な拠点でした。

歴史的な出来事は、663年の「白村江(はくすきのえ)の戦い」で大和朝廷は唐・新羅連合軍に大敗したあと、大和の都を防衛するために、この島に667年に屋嶋城(やしまのき)という城を築いていました。

この屋島寺は、天平勝宝(749年~757年)のころ、有名な鑑真和上によって開創されたと伝えられます。中国・唐から途中何度も挫折にあい、失明してまでも苦難の末に日本にやってきた鑑真和上は753年に鹿児島に漂着し、大宰府を経由して、翌年に東大寺に船で向かう途中に屋島の山頂から瑞光が立ちのぼるのを見て、屋島の北嶺に登り、そこに普賢堂を建てて、持参していた普賢菩薩像と経典を納めたのがこの屋島寺の始まりと伝わっています。

また、のちに和上の弟子で東大寺戒壇院の恵雲律師が堂塔を建立して「屋島寺」を創建したとされ、815年に弘法大師(空海)嵯峨天皇(在位809〜23)の勅願を受けて屋島寺を訪ね、北嶺にあった伽藍を現在地の南嶺に移し、また千手観音像を彫造し、本尊として安置したと伝わっています。

屋島寺はまた、山岳仏教の霊場としても隆盛し、天暦年間(947〜57)には明達律師が訪ねてきて四天王像を奉納されたといわれています。

現在の本尊十一面千手観音坐像は10世紀前半のころに造られたものですので、弘法大師空海の自作とする根拠は少し乏しいですが、光背には「弘法大師御作之本尊也 弘仁元年(810年)二月彼岸中日」の墨書き銘があり、国の重要文化財に指定されています。

また、源氏と平家の源平合戦では、この屋島の東側の入江付近で戦いが行われました。

1184年に一ノ谷の戦いに敗れた平家は、ここ屋島へ逃げて本拠を構え、海からの攻撃に備えて陣を構えました。1185年2月19日の早朝に、源義経が率いる源氏軍は軍船を組み、大阪の摂津から徳島の小松島まで、わずか4時間で瀬戸内海を渡ると、そこから陸を伝って屋島へ向かいました。

海上からの攻撃を想定していた平氏軍は、不意を突かれ、屋島と庵治(あじ)半島の間の檀ノ浦浜付近の海上へ兵を後退させ、ここで両軍が対峙することになりました。

ここで有名な那須与一(なすのよいち)のエピソードが生まれるのです。

少し詳しく紹介しましょう。

源義経は、四国屋島に陣をしいていた平家をわずか150騎の軍勢で背後から攻めたてました。慌てた平家は船で海に逃れ海辺の源氏と対峙することになりました。戦は一進一退が続き、やがて夕暮れに近づきます。この時平家方から立派に飾った一艘の小舟が源氏の陣に近づいて来ました。見ると美しく着飾った女性が、日の丸を描いた扇を竿の先端につけて立っています。「この扇を弓で射落としてみよ」という挑戦でした。

義経は、弓の名手那須与一を呼び寄せ「あの扇を射て」と命じました。与一は何度も辞退しましたが、聞き入れられず意を決して馬を海中に乗り入れました。このとき与一は弱冠20歳。「平家物語」では、このくだりをおおよそ次のように書いています。

時は2月18日、午後6時頃のことだった。折から北風が激しく吹き荒れ、岸を打つ波も高かった。舟は揺り上げられ揺り戻されているので、扇は少しも静止していない。沖には平氏が一面に船を並べ、陸では源氏がくつわを並べて見守っている。(中略)与一は目を閉じて「南無八幡大菩薩、とりわけわが国の神々、日光権現、宇都宮、那須温泉大明神、願わくはあの扇の真ん中を射させてくれ給え。これを射損じる位ならば、弓切り折り自害して、人に二度と顔を向けられず。今一度本国へ向かへんと思し召さば、この矢外させ給うな」と念じて目を見開いてみると、風はいくぶん弱まり的の扇も射やすくなっているではないか。与一は鏑矢を取ってつがえ、十分に引き絞ってひょうと放った。子兵とはいいながら、矢は十二束三伏で弓は強い。鏑矢は、浦一体に鳴り響くほどに長いうなりをたてながら、正確に扇の要から一寸ほど離れたところを射切った。鏑矢はそのまま飛んで海に落ちたが、扇は空に舞い上がったのち春風に一もみ二もみもまれて、さっと海に散り落ちた。紅色の扇は夕日のように輝いて白波の上に漂い、浮き沈みする。沖の平氏も陸の源氏も、これには等しく感動した。

 その後、平家は壇ノ浦の戦い(3月24日)にも破れ、滅んでいきました。那須与一と扇の的までの距離は、平家物語に寄れば5~6段(1段は6間)となっていますから約65メートルから75メートルの間くらいでしょうか、那須与一が弓を引く間際に、味方の者から声をかけられて少し扇に近づきましたので、少なくても60mくらいは離れていたようです。揺れる船の上の的ですからさらに難しくなっています。那須与一は扇の的を射た褒美として、源頼朝より那須氏の総領(後継ぎ)の地位と領地として五カ国内の荘園を与えられたと伝えられています。 また、与一は1187年に、それまでに平氏に味方し行動を共にしていた兄9人と十郎に那須各地を分地し、これ以降那須一族は那須十氏として本家に仕え、それぞれの地位を築いていったということです。

 ところでこの屋島での平家の船に掲げられた日の丸は、今の日の丸の色ではなく、平家物語では、皆紅の扇と書かれています。地がすべて紅(赤)となっています。では真ん中の丸はというと白ではなく金色だったようです。もし平家が勝っていれば日の丸の旗は赤地に金色になっていたかも知れません。また扇の語源は、“あふぎ”で風を送り「神霊を仰ぎ寄せる」ことを意味しており、厄除けになると思われていました。

屋島寺はその後、真律宗の奈良・西大寺の末寺となっていた時期もあったようですが、江戸時代には高松藩主の保護を受けて、建物も修理され、寺領も安泰に推移してきました。

現在も国有林部分を除いて、屋島山上の敷地のほとんどは屋島寺の所有となっています。

 さて、屋島寺の境内に「蓑山大明神(みのやまだいみょうじん)」という神社があり、そこに赤い鳥居がたくさん並んでいます。その入口に大きな狸の像が両脇に置かれています。

このタヌキはこの寺に伝わる化け狸で太三郎狸(たさぶろうたぬき)とその妻と子供の像です。

スタジオジブリのアニメ「平成狸合戦ぽんぽこ」にも屋島の太三郎狸として登場します。

源平合戦で屋島での那須与一の活躍も見てきたという相当の古だぬきとされています。

佐渡の団三郎狸、淡路の芝右衛門狸と共に日本三大狸として知られ、四国狸の総大将とも呼ばれ、「屋島の禿げ狸(やしまのはげだぬき)」ともいわれています。

このタヌキの伝説はいろいろありますが、主なものを集めて見ました。

1)土地(国)の守護神

屋島寺の開祖とも言われる鑑真和上が、盲目のために道がわからなくなっていた時に、太三郎狸が鑑真を案内したとされ、さらに空海(弘法大師)が四国八十八箇所の霊場を開創した時に、霧の深い山中で道に迷ってしまった空海を、老人に化けた太三郎狸が案内したといわれています。この徳により、屋島寺に学堂を開き、四国ひいては全国の若いタヌキたちを集めて、勉学させ、人に仇なす存在であった彼ら(タヌキ)を「タヌキこそが仏道に則る神仏の使いたる民草の人々の守護者となる」ように教育(仏徳)を広めたといわれます。このため、香川県内ではタヌキは「仏の使い」または「土地(国)の守護神」として、崇敬されています。

2)平家の守護狸

 むかし、太三郎狸の先祖が矢傷で死にかけていた時に、平重盛(たいたのしげもり=清盛の長男)に助けられました。この恩義によりこのタヌキは平家の守護を誓ったといいます。そして平家の守護狸となり、源平合戦で敗れた平家の落ち武者たちを、阿波・讃岐の山中へと隠して助けたといいます。

平家の滅亡後、太三郎狸は屋島に住みつき、屋島に戦乱や凶事が起きそうなときはいち早く屋島寺住職に知らせたといい、それ以来太三郎狸は屋島寺の守護神(蓑山大明神)となりました。

またタヌキの習性は一夫一婦制とされることから、蓑山大明神は夫婦円満、家庭円満、縁結びの神とされています。そしてこのタヌキは日本一の変化術の使い手と言われまでになり、やがて四国の狸の総大将の位にまで上り詰めたとされます。日本全国を見るとタヌキが人を化かしていたずらをするなどの話が多いのですが、この屋島のタヌキにはそのような話はあまりありません。

しかし、後に太三郎狸は猟師に撃たれて命を落としたとされていて、その死後の霊が、阿波(徳島県)に移り棲み、人に憑くようになったという話もあります。

屋島寺の仏像の詳細

千手観音坐像【重文】(平安時代中期10世紀の作 カヤ材の一木造 漆箔)〈像高94.3cm〉

像の保存状態がよく、頭と体の主要部分をカヤの一木造りでつくられています。

また脇手や光背の二重円相部分なども大部分当初のものが残っています。宝物館で拝観できます。本堂には前仏が置かれています。腕は左右19本ずつです。

 

屋島寺は、皇室ゆかりの仁和寺の真言宗御室派(おむろは)の寺ですが、同じ御室派の大阪「葛井寺」千手観音坐像は手の数は全部で1041本あり、同じ10世紀の初め頃の作といわれています。

こちらの像は腕の数は少なくなっていますが、その向いている方向なども立体的となり、その表現方法はかなり進化しているように感じます。また、この観音様の特徴は、その豊満な体ではないでしょうか。脇手もかなりふっくらとして肉感的で、像全体を覆い尽くすようにいろいろな方向に向かっています。顔は、わずかに微笑んでいますが、力強い印象を受けます。

屋島寺の本堂に祀られているのは前仏の千手観音像で、ご本尊は宝物館に安置されています。宝物館は本堂左手前にある近代的な美術館です。本尊の他に、源平盛衰記絵巻物、源氏の白旗、屋島合戦屏風などが保存・展示されています。

屋島寺のご朱印

屋島寺の拝観料金、時間、宗派、電話など

正式名称

南面山千光院 屋島寺

宗派

真言宗御室派

住所

〒761-0111 香川県高松市屋島東町1808

電話

087-841-9418

拝観時間

9:00~16:30

拝観料金

宝物館:500円

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地図