香川・屋島寺の仏像|平安の十一面千手観音坐像に会う(拝観料・時間つき)

屋島は、「島」とつくのに島ではありません。
香川県高松市の東、南北に5kmほど延びる細長い台地です。江戸時代からの塩田開発や埋め立てで、四国本島とほぼ陸続きになりました。屋根のような形で海に浮かんでいたことから、この名がついたといいます。
その南の嶺の上にあるのが、四国八十八箇所の84番札所、屋島寺です。山の上から瀬戸内海を見下ろす位置で、山の東側の入江は、1185年に源平の屋島の戦いがあった場所。那須与一が扇の的を射たと伝わる海です。私が10年ほど前に個人で訪ねたのは、その戦のためではなく、本尊の十一面千手観音坐像に会うためでした。座って、たくさんの手を広げている観音さん。この記事では、屋島寺を「手を伸ばす寺」として歩いてみます。
屋島寺・十一面千手観音坐像:座って手を広げる本尊
本尊は、いま宝物館に安置されています。胸の前で手を合わせ、そのまわりから、持ち物を握った手が左右へ放射状に広がる姿です。頭の上には小さな顔がのり、光背は二重の円。立ち姿の千手観音さんが多いなかで、座ったまま全方向へ手を伸ばしているのは、見ていて目が止まります。
見てほしいのは、手の向きです。手は左右へ広がるだけでなく、前へ、斜めへと、奥行きをもって差し出されています。平面に並べた手ではなく、体のまわりの空気ごと抱え込むような広がり方。腰から膝にかけての厚みも、手のふくらみを受けとめる土台のように見えます。
仏像リンク編集部MEMO 📝




お寺の伝えでは、815年に弘法大師(空海)が嵯峨天皇の勅願を受けて屋島寺を訪ね、北嶺にあった伽藍を、いまの南嶺へ移しました。このとき千手観音像を彫り、本尊として安置したと伝わります。国の重要文化財(1955年指定)で、指定名称は木造千手観音坐像です。
十一面千手観音は、頭上に11の顔を持ち、千の手と目で、もれなく人を救う観音さんです。ただし千本の手を彫るのは大変なので、合掌する2本と、大きな脇手40本の合計42本で千手を表す形が一般的です。手の数の話は、こちらにまとめています。
名称: 木造千手観音坐像(重要文化財)。寺の本尊で十一面千手観音
時代: 平安時代
材質: 一木造
特徴: 座った姿で、合掌する手のまわりに脇手を立体的に広げる。頭上に十一面。光背に「弘法大師御作」の墨書がある。
屋島寺・前立ちの千手観音像:本尊の代わりに本堂で待つ像
本堂では、前立ち(まえだち)の千手観音像にお参りできます。前立ちとは、本尊が別の場所にあるときや、本尊を見られないときに、その前に祀る代わりの像です。
前立ちの像も、合掌した手のまわりに脇手を広げる千手観音の姿です。台座には細かな飾りがあり、金色の蓮華座が像を持ち上げています。本堂で前立ちの像に手を合わせ、それから宝物館で本尊と向き合う。この順で歩くと、同じ千手観音の姿を2度、違う場所で受け取れます。


その他の見どころ
蓑山大明神と、太三郎狸
境内には、蓑山大明神(みのやまだいみょうじん)という神さまがまつられています。入口に赤い鳥居が並び、両脇に石の狸の像が座る一角です。太三郎狸(たさぶろうたぬき)と呼ばれる、土地の氏神さんで、子宝、縁結び、家庭円満の願いが寄せられます。
笠をかぶった像の足元には、赤い前掛けの小さな狸もいます。太三郎狸は、日本三大狸(佐渡の団三郎狸、淡路の芝右衛門狸、屋島の太三郎狸)に数えられ、四国狸の総大将とも呼ばれます。スタジオジブリのアニメ「平成狸合戦ぽんぽこ」にも登場します。




平家供養の鐘と、御朱印
境内の梵鐘は鎌倉時代の作で、「平家供養の鐘」と呼ばれ、国の重要文化財です。この鐘の話は、あとでもう一度出てきます。
御朱印には、「第八十四番」の印と並んで、「屋島古戦場」の文字が入っています。この山が、札所であると同時に戦の跡でもあることを、一枚の紙が語っています。
お寺の歴史と伝承
屋島は、古代から要所でした。663年の白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗した大和朝廷は、都を守るため、667年にここへ屋嶋城を築いたとされます。瀬戸内海を一望できる台地が、九州と大和をつなぐ海路を見張る場所だったのです。
寺の始まりは、天平勝宝(749〜757年)のころ、唐から渡った鑑真和上が開いたと伝わります。和上の弟子の恵雲律師が初代住職となり、その後、815年に空海が現在の南嶺へ伽藍を移しました。天暦年間(947〜957年)には、明達律師が四天王像を奉納したとも伝わります。
そして1185年、源平の屋島の戦いです。1184年の一ノ谷の戦いに敗れた平家は、屋島に本拠を構えていました。源義経は、わずか150騎ほどで背後から攻めたと伝わります。平家は船で海へ逃れ、陸の源氏とにらみ合う形になりました。
夕暮れに近づくころ、平家の船から一艘の小舟が進み出ます。竿の先には扇。「これを射てみよ」という挑戦でした。義経に呼ばれた那須与一は、20歳ほど。何度も辞退したすえ、馬ごと海へ入っていきます。




その後、平家は壇ノ浦の戦いに敗れて滅びます。屋島寺は江戸時代には高松藩主の保護を受け、建物も修理されて、寺領も安定して続きました。
主な歴史年表
667年: 屋嶋城が築かれる
749〜757年(天平勝宝年間): 鑑真和上が屋島寺を開いたと伝わる
815年: 空海が伽藍を北嶺から南嶺へ移し、千手観音像を本尊として安置したと伝わる
947〜957年(天暦年間): 明達律師が四天王像を奉納したと伝わる
1185年: 源平の屋島の戦い。那須与一が扇の的を射たと伝わる
鎌倉時代: 梵鐘がつくられる(「平家供養の鐘」)
江戸時代: 高松藩主の保護を受け、建物が修理される
1955年: 木造千手観音坐像が重要文化財に指定される
なぜ、勝った側の山に、負けた側の狸がまつられているのか
屋島といえば、那須与一です。弓を引く姿は、源氏の武勇として語り継がれてきました。ところが、この山の境内には、平家を助けた狸の伝承が残っています。
太三郎狸の先祖は、矢傷で死にかけていたところを、平重盛(清盛の長男)に助けられたといいます。その恩義から平家の守護を誓い、源平合戦で敗れた落ち武者たちを、阿波や讃岐の山中へ隠して逃がしたと伝わります。鐘も「平家供養の鐘」と呼ばれています。勝った側の舞台に、負けた側を悼む品が並んでいるのです。


ここからは私の想像です。
敗れた平家を、人の言葉でまっすぐ悼むのは、勝者の世では言いにくいこともあったかもしれません。けれど狸の物語なら、落ち武者を山へ隠した話も、おだやかに残せます。鐘の呼び名も同じです。直接は語れないものを、狸と鐘に預けてきたのではないか。
もう1つ、気づくことがあります。太三郎狸は、道に迷った鑑真和上を案内し、道に迷った空海を案内し、行き場を失った落ち武者を山へ導いた、と伝わります。つまり、道を失った人に手を貸す狸です。本尊は、千の手で人をもれなく救う観音さん。この山には、「道を失った人に手を貸す」話が、観音さんと狸の、2つの形で残っているように見えます。


まとめ:屋島は、手を伸ばす山
宝物館の本尊は、座ったまま、左右へ前へと手を広げています。その山の下には、かつて船と馬が向かい合った入江があります。
勝った側の那須与一、負けた側を助けた太三郎狸、そしてどちらも見下ろす位置にある、千手の観音さん。屋島寺は、戦の舞台でありながら、勝ち負けの外側へ手を伸ばしてきた山だと私は見ています。本堂の前立ちから宝物館の本尊へ歩く順路も、手の広がりを少しずつ受け取る道のりに思えてきます。
では、千の手は、勝った側と負けた側の、どちらへ伸びていたのでしょう。それとも、そんな分け方のないところへ、伸びていたのでしょうか。


山を下りる前に、瀬戸内海のほうをもう一度見てください。あの海の上で、扇は舞い上がりました。
次に会いに行くなら
座って手を広げる観音さんの、別の答えを見るなら、仲源寺。京都・祇園の観音堂に、重要文化財の千手観音坐像がいます。四国の千手観音坐像と、手の広がり方を見くらべてみてください。
坐像どうしの大きさを比べるなら、丈六寺。徳島の丈六寺は、約3mの聖観音坐像です。手を広げる千手の坐像のあとに、手を静かに置いた大きな坐像を見ると、姿の違いが際立ちます。
同じ平安初期の一木造を見るなら、鶴林寺。兵庫の鶴林寺には、十一面観音立像があります。屋島の頭上の十一面を、立ち姿で確かめられます。
同じコース「西日本・四国・九州の古寺」で、こんなところはどうでしょう
屋島寺の拝観料金、時間、宗派、電話など
正式名称 | 南面山千光院 屋島寺 |
宗派 | 真言宗御室派 |
住所・アクセス | 〒761-0111 香川県高松市屋島東町1808。ことでん屋島駅などから屋島山上シャトルバスで山上へ。車は駐車場あり |
電話 | 087-841-9418 |
拝観時間・拝観方法 | 宝物館 9:00〜16:30。本尊は宝物館で拝観、本堂では前立ちにお参りできます |
拝観料金 | 宝物館 500円(大人) |
拝観時間・料金・バスの時刻は変わることがあります。お出かけ前にご確認ください。参考:四国八十八ヶ所霊場会 屋島寺、観光庁 多言語解説文データベース
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