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【はじめての仏教:曹洞宗とは】坐禅に全集中!開祖道元の教えはすわるだけ!

曹洞宗とは
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 世界でも注目の「禅:ZEN」の教え。あのスティーブ・ジョブズも禅をたしなんでいたとか。

今回はそんな禅宗の最大宗派、曹洞宗(そうとうしゅう)の登場です!

曹洞宗(そうとうしゅう)は禅宗に分類される宗派で、ただひたすらにすわって悟りをひらこうとすることがキホンの教え。

坐禅から派生した「瞑想」や「マインドフルネス」は、筆者も会社の仕事などで疲れたときに時々実践しているのですが夜寝る前にやると、目覚めたときの身体の重さがまるで違う!瞑想のチカラをものすごく感じるので、まだやったことない方はぜひおすすめ!たしかに坐禅をすることで悟ることができる、というのはあながち遠いものではないかも?と思ったりもします。

今回はその坐禅をとっっても大事にしている、曹洞宗をとことん解説していきます!曹洞宗とは?というキホンからお経や本尊、葬儀のことなど、曹洞宗のことをわかりやすく深〜く解説していきます。

曹洞宗は鎌倉時代に日本ではじまったことから鎌倉仏教の一つともされていて曹洞宗の宗祖・道元は、同じく禅宗の臨済宗から影響を受け、中国の宋に行って曹洞宗に出会い日本に広めます。

実は曹洞宗は道元の死後、衰退して道元が開いた永平寺も廃止になる危機があったそうです。

曹洞宗ってどんな宗派なんでしょうか?すわって悟る、坐禅の教え、曹洞宗を学んでいきましょう〜!

まず、曹洞宗の基本情報についてまとめます。

曹洞宗とはどんな宗教?

 曹洞宗の宗祖は鎌倉時代に活躍した道元です。以下、基本情報をまとめます。

 

・宗祖は道元

・はじまり(開宗の年):
1227年に中国で曹洞宗の修行をおさめた道元が日本へ帰国。坐禅を基本とした教えを広める。曹洞宗という名称は使用せず、道元の死後、曹洞宗と呼ぶようになった。

・教えの特徴: 座禅ひとすじ!

・総本山 : 永平寺(福井県)、總持寺(神奈川県)

・本尊: とくに決まっていないが、一般的には釈迦如来

・曹洞宗のお経: 「般若心経」「法華経」「正法眼蔵(しゅぼうげんぞう)」

 

それでは、曹洞宗のはじまりから見ていきましょう。

 

曹洞宗のはじまり<開祖・道元の物語>

曹洞宗を日本ではじめたのは道元です。道元は鎌倉時代の人で、当時は宋という名前だった中国で曹洞宗に出会って、日本に持ち帰りました。道元ってどんな人だったんでしょうか。

名門出身の道元

 

道元は、久我(こが)氏という名門一家の出身だったと伝えられています。「くが」と書きますが「こが」と読みます。村上天皇の皇子が皇族からはなれて天皇の家臣になった時、いったん源氏(村上源氏)という姓をもらいました。その源氏の子孫が京都市伏見区の久我に別荘をかまえていたので久我姓を名乗ることになったんです。天皇の皇子→村上源氏→久我、となります。つまり道元は村上源氏の流れをくんだ名門の出身でした。

3歳で父親がなくなり、8歳で母が亡くなり、世のむなしさを感じた道元は僧侶になることを決意。

 

 

道元は小さい頃より聡明で、9歳で「倶舎論」をよんでいたそうで、そのあたりも僧侶に向いていたのでしょう。14歳で比叡山へ修行にいくことになりました。ちなみに「倶舎論(くしゃろん)」は、原始仏教の思想をあらわした仏教論の本で、普通は全部読んで理解するのに8年かかると言われています。9歳で「倶舎論」を読んでいた道元、かなり賢いですね。

 

 

 14歳で比叡山に行った道元は、比叡山座主(比叡山のトップ)・公円僧正によって髪をそられて出家しました。比叡山では天台教学を中心に学んでいました。天台教学というのは、天台宗が大切にしている法華経を基にした学問です。

天台教学の教えに「本来本法性 天然自性身(ホンライホンホウジョウ テンネンジショウシン)」という言葉にひっかかります。「人間は本来、生まれながらにして本法性=仏性をもっている。そして生まれながらにして悟りを身につけている」という意味です。人間は生まれながらにして仏であり、悟りの要素も持っているのだと説いているのです。

おや?ではなぜ修行をしなければいけないんだろう、と思いませんか?

道元も同じように思ったようです。

 

 

比叡山では答えがもらえなかった道元。答えを求めて園城寺へ行き、そこで建仁寺の栄西に会うようすすめられます。栄西は臨済宗を日本で始めた人です。栄西はこのとき72~73歳くらいでした。

栄西から答えをもらったのかどうかは分かりません。ですが栄西の弟子・明全と出会いいろいろ教えを受けることができました。そして明全とともに、中国・へ行くことを決意しました。

 

宋にいって曹洞宗に出会う

 1223年、24歳の道元は明全とともに海をわたって宋へ入ります。宋へ行った道元はかつて栄西も学んだという天童山景徳寺を訪ねます。

 

 

天童山は禅宗の修行場で、栄西は禅宗の一派である臨済宗を日本に持ち帰りました。道元はというと、天童山で、生涯の師とあおぐ如浄(にょじょう)と出会います。如浄から「参禅は心身の脱落なり」という言葉を聞いた道元。カミナリに打たれたようにそれまでの疑問がとけたそうです。如浄の言葉は「坐禅することで一切の欲望がとりのぞけて体が脱落したように解き放たれる」という意味でした。坐禅ひとすじ、道元の目覚めです。

 

坐禅の教えに感銘をうけた道元はそのまま如浄のもとで修行します。天童山で修行すること4年、ついに曹洞宗の修行をおさめて、印可証明を受けるまでになりました。印可とは修行を終えて悟りに達しましたよという証明です。

印可を受けた道元は宋をあとにして、日本に帰国。坐禅を大切にする曹洞宗の教えを持ち帰りました。残念ながら、道元と一緒に宋へ行った明全は帰国前に亡くなってしまいました。道元は明全の遺骨を日本に持って帰ったそうです。

 

帰国、日本での曹洞宗のはじまり

日本帰国後すぐに、坐禅の心構えや作法をあらわした「普勧坐禅義(ふかんざぜんぎ)」を書いて、古くはお釈迦様の時代から伝わる正しい坐禅の姿を示しました。

34歳には京都の深草に興聖寺を開いて、坐禅をするためのお堂・僧堂(坐禅堂)を建てました。そしてたくさんの人に坐禅をすすめたそうです。ところで道元は「曹洞宗」をいつから日本ではじめたんでしょうか?実は、道元は生きている間には「曹洞宗」という名称を用いていないんです。中国では「曹洞宗」の修行をおさめたし、坐禅を中心とする教えは「曹洞宗」が大切にしていることだったんですけれども。道元は曹洞宗とか臨済宗とか特定の宗派名で呼ぶことをとても嫌っていたそうです。弟子たちにも宗派名を使うことを禁じたとか。

 

曹洞宗は禅宗の一派なんですけれども、「禅宗」という呼称もさけていたそうです。でも、自分たちの教えが何なのか、呼び名がないと困りますよね。名乗らないと困るというなら「仏心宗(ぶっしんしゅう)」=「文字などにたよらず、仏心を悟ること」と称しなさいと弟子たちには指示していました。「曹洞宗」という呼び名を使うようになったのは道元が死んだあとで、第四祖の瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)からその弟子の峨山韶碩(がさん
じょうせき)の頃です。

道元が宋から帰国してから少なくとも50年以上は経っていました。「仏心宗」と呼ぶとややこしいので、ここでは「曹洞宗」で統一することにします。

 

 ちょっと話題がそれました。さて、道元が日本に帰国してから弟子も多くなりました。曹洞宗が大きな集団になると、外からの圧力も大きくなります。比叡山からはかなり攻撃されました。道元が師とあおぐ如浄は「権力者には近づかず、深い山や谷間で仏の道をすすんで、弟子を育てなさい」というスタンスだったので、京都から離れることにしました。道元と親交があった波多野氏の援助もあって、越前(福井県)の山中に大仏寺を建てて移ります。大仏寺はのちに永平寺と改名。曹洞宗の本山になりました。臨済宗の栄西が鎌倉幕府や朝廷と積極的に交流していたのとは対照的ですね。

 

 座禅ひとすじに目覚め、山奥で修行を続けた道元。では、次はその曹洞宗の教えの特徴についてもっと詳しく見てみましょう。

 

曹洞宗の教えの特徴

曹洞宗の教えの特徴は坐禅を大切にしているところです。他の禅宗の一派である臨済宗は坐禅とともに禅問答も取り入れましたが、曹洞宗はひたすら坐禅に打ち込むことを重視しました。これを「只管打坐(しかんだざ)」と言います。それではひたすら坐禅にうちこむ「只管打座」について見ていきましょう。

只管打座(しかんだざ)

道元は中国の天童山で如浄の「参禅は心身の脱落なり」という言葉を聞いて、一気に疑問がとけたということを紹介しましたよね。坐禅をすることで一切の欲望が取り除かれる、つまり曹洞宗では悟りを目指すという欲望さえも取り除いて、ひたすら坐禅に打ち込むことが大切だと説いているんです。坐禅に全集中ですね。ひたすら坐禅することを四字熟語であらわすと「只管打座」となります。只管打座の状態を追求することで、悟りが開けるんです。道元はひたすら坐禅に集中する姿はまさに仏の姿そのものだと主張しました。

 

仏教の祖であるお釈迦様は、6年間の苦行でも悟りは得られず、菩提樹の下で7日7晩の坐禅をしたあとに悟りを開くことができました。このエピソードから、坐禅をすれば悟りが開けるという禅宗の教えに繋がったんです。坐禅とは何も考えずに瞑想して一切の欲望からときはなたれて精神統一することです。

 達磨さんはみなさん知っていますよね?達磨のもとになったのはインドの達磨大師という僧侶です。5~6世紀頃、インドから中国にやってきて、洛陽郊外にある少林寺で坐禅を始めました。達磨大師は悟りを開くために9年間も黙って壁に向かって坐禅し続けたんです。9年も坐禅していたので手足がなくなってしまって、「達磨」になりました。

 

 

達磨は縁起物として親しまれていますよね。達磨大師が続けた坐禅を大切にする教えが禅宗になり、臨済宗や曹洞宗が中国ではじまったんです。道元が坐禅を大切にしたのはこういう背景があったからなんですね。では、曹洞宗の坐禅にはどんな特徴があるのか、次で見てみましょう。

 

曹洞宗の坐禅作法とその後

 曹洞宗では壁に向かって坐禅をします。これを「面壁坐禅(めんぺきざぜん)」と言います。臨済宗では壁を背にするので逆向きです。臨済宗では坐禅中に公案という禅問答を考えますが、曹洞宗ではだまって何も考えずに坐禅します。これを「黙照禅(もくしょうぜん)」と言います。また、道元は日常生活を行うすべての行為、食事、洗面、掃除、入浴、寝起きなども坐禅とおなじくらい大切で、禅の修行として行うべきだと説きました。道元は著作の「普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)」で座禅について詳しく書いています。

 

 

 もくもくと坐禅に打ち込むべし、という曹洞宗の教えは最初、庶民には近寄りがたいものでした。そのため、道元が死んでから曹洞宗は一時信者もはなれて衰退してしまいます。曹洞宗を継いだ第四祖・瑩山(けいざん)はこの状況を大きく変えました。道元のひたすら坐禅に打ち込むべしという曹洞宗の教えは大切にしながら、密教の要素をとりいれた加持祈祷、祭礼を行うなど変更を加えました。また、当時は珍しかった女性をお寺の住職として登用しました。曹洞宗という名前を使いだしたのも瑩山の頃からでしたよね。瑩山とその弟子たちの努力が実って曹洞宗は少しずつ信者を増やして広がっていきました。こういった経緯のため、道元を高祖、瑩山を太祖とし、二人ともが曹洞宗の両祖であるとして敬われています。

 

 曹洞宗のはじまりが分かりましたね。では次はご本尊について見てみましょう。

 

曹洞宗の本尊

 曹洞宗ではご本尊はとくに定まっていません。これは他の禅宗も同じでご本尊にこだわりがないんです。ただ曹洞宗では釈迦如来を本尊にしているお寺が一般的です。曹洞宗の大本山である永平寺では釈迦如来と弥勒菩薩、阿弥陀如来がまつられていますし、もう一つの大本山・總持寺では釈迦如来と迦葉尊者、阿難尊者がまつられています。他にも、曹洞宗の両祖である、道元と瑩山もあがめられています。それでは、次は本山について見てみましょう。

 

曹洞宗の総本山

 曹洞宗には二つの大本山があります。曹洞宗は道元と瑩山の二人を両祖としてあがめていますし、大本山も二つできたんですね。

総本山①:永平寺(福井県)

一つは道元が開いた永平寺(福井県)

道元が43歳の時に、京都から福井へ移り、大仏寺を拠点としました。二年後に大仏寺を永平寺と改めます。「権力から離れて深い山で修行しなさい」という道元の師・如浄のことば通り、吉祥山という山奥にあります。

永平寺には「雲堂」「坐禅堂」とも呼ばれる僧堂があって、ここで坐禅、食事、就寝を行います。永平寺は「ミシュランガイド」でも二つ星に認定されていて、海外からの観光客にも人気があります。一般の参拝客が坐禅体験できる道場もあるんですよ。

坐禅付きの宿泊プランを持つ宿も周辺に多数あります。

永平寺 親禅の宿 柏樹關

総本山②:總持寺(神奈川県)

もう一つの大本山は總持寺(神奈川県)です。

1911年に石川県から現在の神奈川県に移転しました。1331年、曹洞宗第4祖の瑩山は、能登(現在の石川県輪島市)の「不嶽観音堂」を寄進されます。瑩山はここを「總持寺」とつけて、拠点としました。不嶽観音堂にちなんで山号は「不嶽山」としています。翌年、後醍醐天皇より總持寺を「第一の道場」とする綸旨をうけて、曹洞宗の大本山として公表しました。さらに1615年、江戸幕府の法度によって、永平寺とならんで曹洞宗の大本山になります。残念ながら明治時代に火災で焼失。焼失から3年後、新しい總持寺が建てられました。大部分が近代の建物で、仏殿などは木造建築ですが、大祖堂、三門は太平洋戦争後に建てられた鉄筋コンクリート製です。

 

それでは次は主な分派についてまとめます。

曹洞宗の主な分派

 曹洞宗には二人の両祖がいるということから分かるように、大きく二つの分派に分けられます。道元の流れをくむ保守の永平寺派、瑩山の流れをくむ曹洞宗を変革した總持寺派です。

 

永平寺派

道元の教え、ひたすら坐禅をすることを大切にした保守派。永平寺を拠点にしています。永平寺の2世・弧雲は、道元が日ごろから語った話をまとめた「正法眼蔵随聞記」を書いて、道元の教えを広めました。

永平寺2世の弧雲が引退するとなったとき、永平寺では保守派と革新派で3代目の争いがおこりました。ひとまず革新派の義介が永平寺3世に就任。保守派は納得せず、いったん義介は他の人に住職を譲りますが、その人が死んでしまったため再任。義介の再任から7年後、やはり争いは収まらないので、義介は永平寺をさり、保守派の義演が永平寺住職となりました。

 

その後もスッタモンダは続いて永平寺は住職がいない状態にも陥り、僧侶たちは疲弊してしまいました。波多野氏の援助も打ち切られて永平寺は廃寺の危機にあったようです。この三代相論と呼ばれる争いは50年続きました。永平寺5世の義雲はなんとか永平寺を再興。

 

現在にいたる基礎を作りました。永平寺では、現代でも修行僧が坐禅を組んで厳しい修行生活を送っています。

 

總持寺派

お寺でひたすら坐禅という道元の教えは厳しくて一般庶民には近寄りがたいものでした。永平寺で修行していた道元の弟子たちから、一般庶民にも分かりやすく布教を広めたいという意見がでます。これが開放派、革新派となって、道元の教えを守ろうとする保守派との対立が激しくなります。

 

革新派の義介は永平寺を去って加賀大乗寺(石川県)に移ります。義介のあとを、のちに両祖と呼ばれる瑩山が継ぎました。のちに瑩山は能登永光寺(石川県)を開きました。

 

大乗寺は瑩山の「四哲」と呼ばれる優秀な弟子の一人、明峰素哲に譲りました。この瑩山の弟子たち「四哲」は、瑩山とともに衰えていた曹洞宗の復活に尽力しました。その後、能登の總持寺を開いた瑩山。後醍醐天皇から高僧が身につける紫衣(しえ)をもらい、同時に總持寺は「第一の道場」と号されます。やっと總持寺派ができましたね。總持寺派は、近寄りがたいイメージの曹洞宗を、分かりやすく親しみやすいものへと変えました。

さて次はお経について見てみましょう。

 

曹洞宗の主なお経

 曹洞宗では基本となる根本経典はありません。禅宗には「不立文字」といって「文字や言葉にとらわれるな」という教えがあるからです。それでも禅宗で広く取り入れられている「般若心経」「法華経」はよく読まれます。

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また、道元が書いた仏教の思想書である「正法眼蔵(しゅぼうげんぞう)」もよく使われます。他にも明治23年(1890年)、に編纂された「修証義(しゅしょうぎ)」は「正法眼蔵」を引用したものでわかりやすいためよく読まれています。

色んなお経を覚えよう唱えよう!

 

 では、次は曹洞宗の葬儀について見てみましょう。

 

曹洞宗のお葬式

 曹洞宗の葬儀は、死後にお釈迦様の弟子になるために行います。このため、葬儀の前半では、亡くなった人を仏の弟子にするための「授戒」を行い、葬儀の後半では、仏の世界へ導くための「引導」という儀式を行います。

 

具体的には、僧侶が亡くなった人を仏の弟子にするために髪をそって、生きている間に犯した罪を反省するために経文を読みます。

 

そして清水を手向けて、仏の教えを守り帰依することを誓います。曹洞宗では、亡くなった人が仏の世界へ導かれることを表すために、シンバルのような形をした「鐃鈸(にょうはち)」や手で持ってならす小型の鐘「引鏧(いんきん)」、そして太鼓を使って盛大に音を奏でます。

 

 

これを「鼓鈸三通(くはつさんつう)」と言います。荘厳な音に包まれて、亡くなった人が送りだされるんですね。

では、亡くなった人につける戒名についてまとめましょう。

曹洞宗の戒名

 曹洞宗では戒名は二文字ずつで構成されます。

 

上から

「〇〇院(院号)□□(道号)△△(戒名)居士/大姉(位号)」

という構成です。院号は生前、お寺に大きな寄進をしたり、釈迦的に貢献が高い人に授けられます。道号は仕事や性格、個人が思う悟りの内容や願いを表した文字が使われます。戒名は生前の名前から一文字とったり、宗派に基づく文字を使用することが多いです。曹洞宗では道号と戒名の四文字をお経や漢詩などを参考にした対句、熟語にすることも多いようです。

 さて、曹洞宗では仏壇は何をまつるんでしょうか?

曹洞宗の仏壇

 一般的には釈迦如来をご本尊として中央にまつります。本尊は坐像であれば、木像でも画像でもOKです。向かって右に高祖・道元大師を、そして向かって左に太祖・瑩山禅師をおきます。「一仏両祖」の三尊仏形式と言います。一仏両祖を一つに描いた三尊仏の掛け軸もあります。他には、右に達磨大師を、左に道元大師と瑩山禅師をまつる場合もあるようです。

 

 

仏壇を安置する場所は、とくに決まりがあるわけではありませんが、曹洞宗のお寺は北を背に南向きに建てられているので、これにならって仏壇も南向きに安置するとよいとされます。

ただし、神棚と向かい合わせにならないように注意することが必要です。

 

 次は曹洞宗の寺院数を確認しましょう。

曹洞宗の寺院数

 

 曹洞宗には約1万4500のお寺があります。同じ禅宗の臨済宗が約3400寺院なので、ずいぶん多いですね。仏教のお寺は京都や奈良にあることが多いのですが、曹洞宗のお寺は京都には詩仙堂、源光庵など少な目です。大本山も福井の永平寺、神奈川の總持寺ですし、全国にお寺が散らばっています。東京だと西麻布にある長谷寺が有名です。「麻布観音」の名前で親しまれる大きな十一面観音があり、お寺があいてればいつでもどなたでも無料で拝観できるので、都会における見仏スポットとして仏像ファンの間で欠かせない存在になっています。

 

 さて、寺院数は意外と多いことが分かりました。では、信徒数はどうでしょうか?

 

曹洞宗の信者数

 曹洞宗の信徒は約155万人です。臨済宗は約35万人なので、4倍以上です。曹洞宗の道元は、権力をさけて山奥にお寺をかまえ、ひたすら坐禅に打ち込むという一般庶民には近寄りがたいオーラを持っていましたが、ずいぶん信者を増やしましたね。永平寺派の努力と、瑩山たち總持寺派が親しみやすさをとりいれたおかげでしょうか。坐禅をして静かに瞑想するというのが、日本人にはあっていたのかもしれませんね。

 ひたすら坐禅の曹洞宗、系列の大学はあるのでしょうか?

 

曹洞宗の系列の大学

 曹洞宗系列の大学としては、駒澤大学があります。吉祥寺にあった「旃檀林(せんだんりん)」という学問所が発展して駒澤大学になりました。駒澤大学では、仏教と禅の教えを教育し研究することを基本にしています。建学の理念は「行学一如」「信誠敬愛」です。「行学一如」とは修行と学問は一体で、お互い影響して発展していくという禅の思想を表す言葉です。「信誠敬愛」は自分を磨くのは誠の心で、他人には深い慈しみをもって尽くすべしという仏教の精神を表しています。東京に三つのキャンパスがあります。

 曹洞宗について、たくさん見てきましたね。それでは次にまとめましょう。

 

曹洞宗のまとめ

 

 曹洞宗について、まとめると次のようになります。

 

  1. 曹洞宗の宗祖は道元で、鎌倉時代に中国の宋から日本に伝えられた禅宗の一つ。

  2. 曹洞宗はひたすら坐禅することを大切にしている。坐禅はだまって壁に向かって行い、臨済宗のように禅問答は行わない。

  3. 道元は曹洞宗という名称を使うのを嫌っていたため、曹洞宗という名称は道元の死後に使われるようになった。

  4. 道元は宋であった曹洞宗の師匠・如浄の「権力から遠い山奥で修行すべし」という教えから、山奥に拠点をおいた。ひたすら坐禅という教えが一般庶民には近寄りがたく、曹洞宗は道元の死後衰退したが、第4祖の瑩山によって再興。道元と瑩山は曹洞宗の両祖と呼ばれている。

  5. 曹洞宗の大本山は永平寺と總持寺の二つ。道元の流れをくむ永平寺派と、革新派となる總持寺派の二つの大きな分派に分けられる。

  6. 曹洞宗のお寺や信徒の数は、同じ禅宗の臨済宗よりかなり多い。

 

 ひたすら坐禅することを大切にした道元。曹洞宗という名前も使わず、壁に向かって黙々と坐禅修行に励んだ道元は、とても一途な人だったんでしょうか。仏教にたいしてとてもマジメだったのは間違いないでしょう。最近はプチ旅行で坐禅体験もできるようです。坐禅で日常から解き放たれたら、とてもリフレッシュできそうですね。

今回もお読みいただきありがとうございました。