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【はじめての仏教:臨済宗とは】座禅が大事!お経や開祖など10の特徴

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 今回紹介するのは仏教の宗派のひとつ臨済宗(りんざいしゅう)です!臨済宗は鎌倉時代に中国から日本に伝わってきた鎌倉仏教の一つ。中国の北の方にあった臨済寺というお寺を拠点にしていた宗派なので臨済宗という名前がつきました。

 禅って聞いたことありませんか?座禅の「禅」です。臨済宗はこの禅を中心とした宗派です。

好き好き好き好き好き好き好き好き好き♫というテーマ曲が有名な昔流行った「一休さん」は実は臨済宗のお坊さんで、禅問答が得意でした。

 臨済宗ってどんな宗派なんでしょうか。そもそも禅宗って?まずは、臨済宗の基本情報をいっしょに見ていきましょう。

臨済宗とはどんな宗教?

 臨済宗の開祖は栄西です。鎌倉時代の初めに、当時の中国を治めていた宋から、日本に伝えられてきました。ざっと、まとめます。

 

開祖は栄西

はじまり(開宗の年):だいたい鎌倉時代(1185年~)の初めです。1195年の鎌倉時代初めに博多に聖福寺に建立。1202年には、鎌倉幕府の2代将軍・源頼家が支援して京都に建仁寺が建てられ、臨済宗は広まっていきました。

教えの特徴:座禅によって悟りを開きます。座禅は、黙ってじっと座って瞑想することです。瞑想は、心を静めて何も考えずにリラックスして仏さまを意識します。

本山:分派ごとに本山があります。有名なのは建仁寺妙心寺です。

本尊:特に決まっていないけど釈迦如来を大切にしています。

特徴となるお経:「般若心経」がよく読まれます。でもお経を読むのではなくて、体験から悟りを開くことが大切だと考えられています。

それでは、臨済宗のはじまりからおさらいしましょう。

臨済宗のはじまり(開祖・栄西のおはなし)

臨済宗を始めた栄西は、もともと天台宗の僧侶でした。しかし、平安時代終わりから鎌倉時代の初め、天台宗では僧たちが権力争いばかりしていたので、栄西は失望してしまいます。そこで栄西は仏教を学びなおそうと思って、中国の宋に行きます。栄西は生涯で2回、宋に行きました。

それでは、栄西のことをもう少し詳しく見てみましょうか。

神社生まれの栄西は仏教へ

 栄西は、備中(現在の岡山県)にある吉備津神社の権禰宜(ごんねぎ)の子として生まれました。権禰宜というのは、神社では、宮司→禰宜(ねぎ)の下の役職です。会社でいうと課長、係長、チーフあたりですかね。

 

 

権禰宜の下には主典や出仕という役職もあったようです。栄西、神社関係の生まれだったんですね。そのあと、14歳で比叡山にいって天台宗を学びます。

 

ところが、天台宗では仏教で民衆を救おうとか、真面目に修行をしようというより、僧侶は権力争いばかりしていたみたいです。僧侶だけではなく、僧侶のバックに貴族がいて政治の争いもまじっていたようです。栄西はとっても失望します。そして、天台宗を立て直したい!と思い、台頭してきた武士の平家から支援をもらって、宋に渡ります。

 

そして当時の宋で流行っていた禅宗に出会いました。栄西は人生で2回(1168年と1187年)宋に行っています。そして、宋で出会った禅宗を日本に伝えました。では、禅宗とはどんな宗派なんでしょうか。

 

 

栄西が出会った禅宗

 当時の宋では、座禅で悟りを開こうという禅宗がとても流行っていました。禅宗は、5世紀ころに達磨(だるま)大師によってインドから中国に伝わってきた考えです。達磨大師とは、あの赤いダルマさんのモデルになった人です。

 

 そもそも仏教を開いたお釈迦様って座禅組んでますよね。その座禅を組んで悟りを得たお釈迦様と、同じ座禅で体験しようというのが禅宗でした。

 達磨大師はなんと9年も壁に向かって座禅して悟りを開いたそうですよ。達磨大師はインドから中国へ禅を伝えました。栄西は、2回目に宋に行ったときはインドにも行きたかったようです。治安が悪くて実現しなかったとか。ともかく、禅に出会った栄西は、宋で4年間、禅の修行をしました。そして禅宗の一つ、臨済宗を伝授されて、日本に帰ってきました。さて、次は臨済宗の特徴をまとめましょう。

 

臨済宗の教えの特徴

 臨済宗では、座禅が基本です。目をつぶってじっとして話をせず、瞑想しながら座禅をするのが基本です。では、臨済宗ではどんな風に座禅するんでしょうか。

座禅と禅問答

臨済宗では座禅の時に、「禅問答」を組み合わせます。これが臨済宗座禅の大きな特徴ですね。禅問答のことを、臨済宗では「看話禅」と言います。すでに悟りを開いた禅師が、座禅の前に問いかけをします。この問いを「公案」とも言います。そして、弟子は座禅をしながら、その「公案」の答えを一心に探すんです。公案は、普通の常識では解けません。座禅をする人は、この公案を考えることで、常識から解き放たれて、「禅の境地」に近づくことができるとされています。

 

例えばこんな公案があります。

 

両手をたたくと音がするけど、片手ではどんな音がする?

 

これは「隻手(せきしゅ)の声」という公案です。片手じゃ音はでないよ!片手でカベをたたいてみる。二人で片手を合わせて鳴らす?座禅しながら答えを見つけると楽しいかも!?

 

いい答えが出そうな人、禅の境地に近づいていますね。禅の境地に近づいた人は真実の自己を手に入れることができるそうです。真実の自己って何なんでしょう?テツガクですね。まあ、とにかく悟りに近づくのです。そして真実の自己を臨済宗では「無位の真人」というそうです。とにかく、座禅をするときは、だまって出された問いを考えましょう!

 

さて、臨済宗の教え、座禅について見てきました。実は栄西は臨済宗と一緒に、別のものも持ち帰ってるんです。それがお茶です。ちょっと栄西とお茶についてまとめてみましょうか。

栄西とお茶

 お茶は、古代の奈良時代から平安時代にはもう中国から日本には伝わっていました。でも、古代ではお茶はとても貴重だったので貴族や位の高い僧侶、一部のお金持ちしか口にできなかったんです。栄西は2回目に宋に行った時、お茶の種子を持ち帰りました。1191年、源頼朝が征夷大将軍に任命されるちょうど1年前です。中国のお寺では、修行の一つとして茶礼がおこなわれていました。茶の湯の原点みたいなものですね。あと、お茶は健康にもよいとされてました。

 

 お茶は貴重でなかなか手に入らないので、栄西は、お茶の栽培まで始めました。よっぽどお茶が気に入ったんですね。どんな土地がお茶の栽培にあってるか、夏前には茶摘みしなきゃしけないとか栄西はよく知っていたみたいです。脊振山があった霊仙寺(佐賀県)で、お茶の栽培をします。脊振山には栄西の像があるんですよ。

 

栄西と交流のあった明恵という僧も京都でお茶の栽培を始めました。栄西たちの努力のおかげか、鎌倉時代の終わりにはお寺を中心とした茶園が広がって、伊勢、駿河、武蔵でも栽培されるようになりました。

 禅宗のお寺では、お茶を飲む、喫茶の習慣が広がりました。そして武士も社交としてお茶を飲むようになりました。お茶を広めた栄西は「茶聖」とも呼ばれています。お茶も臨済宗の教えとともに各地に広がります。どうしてそんなに臨済宗は広まったんでしょうか?

 

武士の時代にマッチした臨済宗

 臨済宗は、鎌倉時代、またたく間に広まりました。座禅お教えがたくさんの人にハマったんでしょうか。まあ、それもあるかもしれませんが。実は、鎌倉幕府のバックアップがあったんです。栄西が2回目に宋から帰ってきた1991年、朝廷は禅宗を禁止していました。皇族や貴族とかかわりの深い天台宗の圧力ですね。しかし、時代は栄西に味方します。そもそも栄西が宋に行けたのは、平家の支援があってです。武士である平家にとって、天台宗という昔からの宗派はあんまり好ましくなかったんです。貴族とのかかわりが深いですから。

 

そして、平家を倒して鎌倉幕府をおこした源氏とその側近武士たちにとっても古い宗派は遠ざけたかったんです。だから臨済宗に目をつけたんですね。新しい宗派である臨済宗をアピールして、鎌倉幕府は民衆の心をつかみたかったんです。

 それに栄西は僧侶のわりにやりてだったようで、権力者に積極的に近づきア臨済宗をピールしていました。禅宗が禁止されていた時は、『興禅護国論』という禅宗の解説書を発表します。そこで、禅宗は天台宗の教えに反するものではないとしました。天台宗にけん制し、朝廷から禅宗布教の許可をもらいました。他には、権僧正(ごんのそうじょう)という職につくため、わいろを贈ったというちょっと黒い話も。とにかく、時の権力者・鎌倉幕府と栄西の思わくがみごとにあわさって、臨済宗は広まっていきました。室町時代には武家との結びつきはさらに強くなり、臨済宗をベースにした金閣寺、銀閣寺ができました。

 

 

また、お茶も広まりました。栄西の立ち回りの良さ、そして臨済宗が時代にマッチしていたおかげですね。そんなこんなで各地で知られるようになった臨済宗ですが、では、本山はどこなんでしょうか。

 

臨済宗の本山

 臨済宗は、いくつかの分派があって、それぞれの分派に本山があります。有名なのは、建仁寺(建仁寺派)と妙心寺(妙心寺派)の二つです。どちらも京都にあります。建仁寺は栄西が鎌倉幕府の援助をうけて建てたお寺です。妙心寺は栄西の死後120年ほどたって建てられたお寺です。妙心寺派は臨済宗で一番大きな分派になりました。

 

 

あと室町時代に、京都五山と鎌倉五山というお寺が定まりました。京都五山は、別格を南禅寺として、他に5つ、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺となります。京都五山はややこしいけど、六つのお寺があるんですね。鎌倉五山は建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄明寺の五つです。次は、臨済宗の本尊についてです。

臨済宗の本尊

 臨済宗では、仏の教えを自分の中に意識することを大切にしています。だからある特定の仏さまを本尊にはしていないんです。あえていうなら、臨済宗では釈迦如来(しゃかにょらい)が重んじられています。釈迦如来というのは、仏教を開いたお釈迦さまのことです。実在したお釈迦さまを臨済宗では大切にしているんですね。そして、脇侍(きょうじ、わきじ)といって、臨済宗のお寺には釈迦如来の左右にいろんな仏さまをおいています。釈迦如来をアシストしてるんですって。文殊菩薩、普賢菩薩、達磨大師、観世音菩薩、無相大師などが脇侍としてお寺にまつられています。禅宗をインドから中国に伝えた達磨大師もいるみたいです。お寺で探してみると面白いかも。

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 さて、ご仏様の次は臨済宗の分派についてまとめたいですね。臨済宗は広まるにつれて、分派がたくさんできました。どんな分派ができのでしょうか。

臨済宗の主な分派

 臨済宗は、おもに14の分派にわかれました。ずらっと上げてみますね。

1建仁寺派 [栄西]

2東福寺派 [円爾(弁円)]戦国時代、毛利家に仕えた安国寺恵瓊はこの分派

3建長寺派 [蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)]蘭渓道隆は北条時頼が宋から招いた

4円覚寺派 [無学祖元] 無学祖元は13世紀に中国から招かれた僧

5南禅寺派 [無関普門]

6国泰寺派 [慈雲妙意]

7大徳寺派 [宗峰妙超]一休さんは大徳寺派。応仁の乱で荒れ果てた大徳寺を一休宗純が復興

8天龍寺派 [夢窓疎石]

9永源寺派 [寂室元光]

10向嶽寺派 [抜隊得勝]

11相国寺派 [夢窓疎石]相国寺は室町幕府3代将軍・足利義満によって建立。金閣(鹿苑寺)、銀閣(慈照寺)は相国寺派

12方広寺派 [無文元選]

13佛通寺派 [愚中周及]広島県を中心とした分派

14興聖寺派 [虚応円耳]

 だいたい臨済宗のおもなお寺ごとに分派ができたようですね。宋から招待された僧侶もいたようです。金閣寺や銀閣寺が臨済宗の相国寺派だったと、知っていましたか?

 有名なお寺がたくさんある臨済宗。では臨済宗で使われているお経は何なんでしょうか?

臨済宗の主なお経

 臨済宗のような禅宗は、文字やことばで教えを伝えるのではなく、体験によって伝えるものだという考えがあります。これを「不立文字(ふりゅうもんじ)」と言います。お経のことはいったんおいておき、ひたすら座禅することによって悟りを体験するんです。お経に書かれたことは、読む人の解釈によって意味が違ってしまうので、体験第一にしたんですね。

 

 

 それでも臨済宗にもよく読まれるお経はあります。一番よく読まれているのは「般若心経(はんにゃしんぎょう)」でしょうか。般若とは知恵を意味していて、般若心経は、お釈迦様の知恵がつまったお経です。また、「南無釈迦尼仏」というお題目を唱えます。お題目というのはお寺の参拝とか修行のときに唱える短めのことばです。「お釈迦さまにすべてをゆだねておまかせします」という意味です。お釈迦さまを大切にしていることを表していますね。

色んなお経を覚えよう唱えよう!

 

臨済宗のお葬式

 臨済宗は「禅問答」をする禅宗です。禅宗には座禅や禅問答で、自分を見つめなおすことで悟りを開きます。臨済宗の葬儀では、まず亡くなった人の剃髪(ていはつ)をします。剃髪とは、髪の毛をそることですが、現在だと「カミソリをあてて、髪をそるふりをする」くらいにとどめられてます。次に懺悔文(ざんげもん)です。生前の行いを悔いたり、罪の許しを乞います。そして仏の教えにしたがうことを誓う「三帰戒文(さんきかいもん)」、「三聚浄戒(さんじゅうじょうかい)」、「十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)」というお浄めの儀式が続きます。

 お浄めの儀式では、棺の中に水をそそぎます。その後は、お香をたいて仏の弟子になった証をたてます。仏の弟子になった証を血脈(けちみゃく)といって、血脈授与の儀式は臨済宗ではとても大切だと考えられています。

 棺が閉じられるときには、また特別な念誦(ねんじゅ)が唱えられます。念誦とは仏の教えやお経を唱えることで口にだしてもいいし、心の中で唱えてもかまいません。「山頭念誦」といって亡くなった人の成仏を願って、「往生咒(おうようじゅ)」というお経を唱えながら太鼓を打ち鳴らす儀式もあります。ラスト、導師(葬儀の最高責任者)が引導を行います。

 

 

引導というのは死者の迷いをとりさって悟りをひらくように説くことです。その時、語られる正しい仏教のあり方を「法語」といいます。あきらめるよう宣告するという意味の「引導をわたす」の語源ですね。とても難しいことばがたくさんでましたね。臨済宗の葬儀をおおまかまとめると、受戒→念誦→引導という流れになります。さて、次は戒名について見てみましょう。

 

臨済宗の戒名

 臨在宗の戒名は、2字、4字、6字など偶数単位になっています。○〇院、△△▽▽居士というかんじですね。「〇〇院」というのは、お寺を建てて寄進したり、社会的に貢献したりという人に贈られて、戒名の位の中では一番高いです。「□□道」は二番目です。院号や道号がある場合は、その次に戒名がきます。

 

「〇〇院(院号)□□(道号)△△(戒名)居士/大姉(位号)」

と並びます。戒名は、僧侶に決めてもらうこともありますし、亡くなった人が好きだった文字や、その人のキャラクターを表す字を入れることもあります。その人の生前の行いや性格、業績を表すのに適した文字が入ります。自分はどんな字が入るのか、興味わきませんか。

 次は仏壇について見てみましょう。

臨済宗の仏壇

 臨済宗のご本尊は釈迦如来です。ですから仏壇では真ん中に「釈迦如来」を置くのが一般的ですね。真ん中は「釈迦如来」、向かって右に「文殊菩薩」、左に「普賢菩薩」をおくことが多いです。妙心寺派は右に「無相大師」、左に「花園法皇」をおくこともあります。無相大師は妙心寺派をはじめた人で、花園法皇(天皇)は妙心寺を創建した人です。

 

 

位牌はご本尊たちの一段下のわきにおきます。位牌の内側に、仏具は、花立、ろうそく立て、香炉が基本です。おおきな仏壇だったら、仏器、茶湯器、線香差し、おりんなどもおきます。

 

臨済宗の系列の大学はある?

 臨済宗系の大学だと、京都の花園大学があります。禅の研究をしています。妙心寺派で、理事長も学長も妙心寺の関係者です。

分派のお寺、大学も分かりました。それなら臨済宗のお寺はどのくらいあるんしょうか?

臨済宗の寺院数

臨済宗のお寺は3363寺です。栄西がもともと修行していた天台宗は約3100寺なので、それより多いですね。それでは、信徒数はどうでしょうか?

 

臨済宗の信徒数

臨済宗の信徒数は約35万人です。天台宗は約153万人なので、お寺の数のわりに、信徒数は少ないですね。臨済宗は鎌倉時代に幕府のバックアップがあって広まり、室町幕府でもバックアップがありました。しかし室町幕府が、応仁の乱で勢いをおとすと、臨済宗も先細りだしました。江戸時代に白隠によって再建されたため、現在も続いています。

 臨済宗について、だいぶ分かりましたね。次にまとめてみましょう。

 

まとめ

臨済宗について、まとめると次のようになります。

 

  1. 臨済宗は鎌倉時代に栄西によって中国の宋より伝えられた。
  2. 臨済宗は座禅で悟りを開くのが特徴
  3. 武士政権の鎌倉幕府にとって臨済宗はとても都合がよかったのでバックアップが得られた。
  4. 栄西はお茶の栽培を日本で広めて、お茶を飲む=喫茶の習慣も広めた。
  5. 本山は、建仁寺と妙心寺で、室町時代に京都五山、鎌倉五山というお寺が定められた。本尊はとくに定まっていないが、大切にしているのはお釈迦さまを表した釈迦如来。
  6. 臨済宗の主な分派は14で、一休さんは大徳寺派。
  7. 臨済宗では、文字やことばで教えを伝えるのではなく、体験によって伝えるものだという考えがあり、これを「不立文字」という。定まったお経はないが、よく読まれるのは「般若心経」。

じっとだまって座禅をして悟りを開く臨済宗。座禅の体験ができるお寺もありますよね。観光がてら座禅を組んで禅問答を考えてみるのもいい思い出になりそうです。