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No.46:滋賀長浜・石道寺の仏像/十一面観音像、持国天、多聞天、紅葉や鶏足寺について

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琵琶湖の湖北地方は古代から平安時代にかけて奈良や京都とは違った一種独特の仏教文化圏がおこりました。これは奈良や京都といった都を中心とした生活圏のはずれにある琵琶湖の北東端という位置関係にもよりますが、ここにある標高923mの己高山(こだかみやま)に山岳信仰の中心となる寺院がたくさん集まり、そこに人々の祈りの象徴として平安時代に多くの観音像がまつられたことによります。

そして戦国時代には、この地方は織田信長徳川家康等の天下取りの舞台となり、山寺を中心とした寺院は戦火に加えて山崩れなどにより衰退していきました。

しかし、地元部落に根付いた観音信仰の火は消えず、地元の各部落(数十軒単位)の人々は、皆が協力し合い、山中で無住となっていた寺のお堂を麓に移したり、新しくお堂を建てたりしてそこに昔から残されてきた観音像を祀って大切に守りつづけてきました。

今回紹介する石道寺(しゃくどうじ)もその中の一つで、川沿いに続く緑多い場所に山の中からお堂を移し、40世帯ほどの地元の石道(いしみち)自治会が平安時代から続く十一面観音像をしっかりと守り続けています。

現在、寺は無住ですが、長い間厨子の中に安置され、秘仏として一般に公開されてこなかった観音様は保存状態もよく、若い女性を感じさせるとても美しいお姿をしています。

奈良や京都の観音像などと比べても独特の魅力を持っていて、多くの人を虜にしています。

私も冬の寒い日に自転車に乗ってこの周辺の仏像を巡った記憶…

その中で出会った石道寺の十一面観音はなんともいえない印象があります。

今回はそんな石道寺の十一面観音を中心にご紹介していきたいと思います。

みなさんもぜひ石道寺へ足を伸ばしてみてくださいね。

石道寺へのアクセス

石道寺(しゃくどうじ)は琵琶湖の北東端にある標高923mの己高山(こだかみやま)の麓にあります。JR北陸本線木ノ本駅(きのもとえき)から東に徒歩で1時間弱かかります。バスの場合は木ノ本駅から湖国バス 金居原行に乗車し、井明神バス停下車、徒歩約10分でが、バスの本数は1日に6本ほどしかありません。駅からはタクシーで6~7分ですのでタクシーを利用するか、駅の観光案内所でレンタサイクルを借りてこの地を巡ってみるのもよいでしょう。

また、この石道寺と隣の鶏足寺周辺一帯は有名な紅葉の名所です。11月中旬~下旬の紅葉シーズンには多くの人がこの地方を訪れるため、臨時の循環バスがでます。ただし、このシーズンは紅葉見物の入山料が別途かかりますし、自家用車の方は駐車場を良く調べてお出かけください。

木ノ本駅周辺は古くから近畿と北陸を結ぶ北国街道(米原から琵琶湖東岸沿いを北上し、敦賀を経由して日本海側を通って長野善光寺から小諸まで)と江戸や名古屋方面から近畿に入る中山道からこの北国街道に向かうための近道である「北国脇往還」(関ヶ原宿から木之本宿を結ぶ)の合流点でした。このため古くから交通の要であり、「木之本(きのもと)宿」という宿場町として栄えました。

今でも木ノ本駅から東に歩いて5分ほどのところにある木之本地蔵院前の旧街道沿いには古い商屋や酒蔵などの街並みが残されていますので時間がありましたらこちらも散策してみるのも楽しいと思います。

また駅名は「木ノ本」ですが、地名、施設などの表記は昔の「木之本」と表記している場合が多いようです。

石道寺の歴史

寺の歴史については正確に残されているものはなく、1407年に書かれた「己高山(こだかみやま)縁起」や1441年に興福寺の末寺一覧を書いたとされる「興福寺官務牒疏(こうふくじかんむちょうそ)」によれば、己高山(こだかみやま)に726年頃に行基(ぎょうき)僧正泰澄(たいちょう)大師によってたくさんのお堂や修験者の道場が建てられたとされています。これを805年に比叡山天台宗の祖といわれる最澄(さいちょう)が寺の建物などを再興して、ここに一大山岳仏教圏が形成されていたとされています。

また己高山縁起によれば観音寺・法華寺・石道寺・満願寺・安楽寺・松尾寺・円満寺の己高山七寺があり、興福寺官務牒疏によれば観音寺を中心として、己高山5ケ寺(法華寺・石道寺・観音寺・高尾寺・安楽寺)と観音寺の別院として、飯福寺、鶏足寺、円満寺などの名前が書かれています。

いずれにしてもこれらの寺も一時荒廃が進み1374年頃からそれぞれの寺の堂宇などが再建され、寺も統廃合されていったようです。縁起にうたわれた中心寺院観音寺は恐らく山の頂上付近にある寺院跡がこの寺の跡と考えられていますが、地元では「鶏足寺跡」とされています。

この鶏足寺が現在麓に移り、紅葉の名所といわれる鶏足寺であるといわれますが、現在はみな無住の寺ばかりであり、その歴史については正確ではありません。また現在山の中には寺は残されておらず、麓に移されそれぞれ本尊の観音菩薩像などをそれぞれの地元の方々が管理されています。

石道寺(しゃくどうじ)に関しては興福寺官務牒疏には726年に延法上人により開基したとされ、805年に伝教大師最澄(さいちょう)が十一面観音菩薩を祀り再興したとされています。

判っている資料では1354年に京都護国寺の源照が寺の建物などを再興し、真言宗豊山派の寺となり、明応年間(1492~1500年)に己高山の山中から山下に移転し、明治27年(1894)に仁王門が焼失し、2年後の1896年に山津波で寺の庫裏(くり)が流されてから無住となったことが記されています。

また、大正3年(1914)に旧高尾寺の観音堂を合体し、石道寺と高尾寺が一緒になっていますが、この高尾寺があったとされる場所は己高山山中の逆杉といわれる樹齢千年以上といわれる杉が残されている場所だとされ己高山のハイキングコースになっています。

また旧満願寺の「高野大師堂」、旧安楽寺の「尾山釈迦堂」などが麓に残されています。

石道寺の開基とされる「延法上人」については良く知られていませんので詳しいことはわかりませんが、比叡山や山岳信仰と密接に係わっている僧侶だと思われます。ちなみに行基(ぎょうき)奈良東大寺の大仏建立に責任者であり、泰澄(たいちょう)は越前国(加賀国)の白山を開山した白山信仰の神様といわれる僧侶です。

ではここからは、この独特の湖北地方の観音信仰についてもう少し詳しく見ていきましょう。

この琵琶湖の湖北地方は、京都・比叡山方面からは北東方向の鬼門方向にあるとされています。鬼門は文字通り鬼のやってくる方角にある門で、この門を守り固めることで悪いことが入ってこないようにする場所です。この鬼門除けとして観音様などを祀り、信仰が深められていったと考えられています。

この中心となったのが標高923mの己高山(こだかみやま)で、ここには先に書いたとおり山岳信仰の拠点として多くの修験道場や寺院が建てられていました。都から見ると比叡山(標高848m)があり、琵琶湖をはさんでこの己高山(標高923m)、そしてその先に山岳信仰の一大信仰山となった白山(標高2702m)があります。これらは京の都からは皆同じ北東(鬼門方向)にあるのです。

このため、鬼門よけの観音信仰に、白山(しろやま)信仰など北近江(きたおうみ)の山岳信仰が合わさり、一種独特の仏教文化が広がったと考えられます。

また、奈良・平安時代から京に近い国々(山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国の5か国)を畿内(きない)と呼んでいましたが、この畿内と北陸・越後を結ぶ北陸道にも平安前期まではこの木之本の少し先に「愛発関(あらちのせき)」という関所が置かれ、北東側の畿内との境界を形成していました。その後平安中期以降は源氏物語に出てくるように琵琶湖の南端に「逢坂関(おうさかのせき)」が置かれて愛発関の役目は終わりましたが、ここが都の守り鬼門という考え方は続いていったようです。

また現在、この地方は観音菩薩像などが多いことから「(十一面)観音の里」とか「いのりの里」などと呼ばれ、「観音の里めぐり」などのツアーも盛んに行われています。

 

そして、この里が特にすばらしいのは、これらの仏像たちがその地域の村人たちによって大切に守られているということです。多くの仏像が平安時代やそれ以前の作ともいわれる古像で、琵琶湖を中心とした豊かで恵まれた自然とともに、人情味あふれた土地柄に触れ、ハッとするほど美しい仏像たちにお会いできるということでこの地を訪れる人々が後を絶たないのです。

特にこの観音めぐりが注目されだしたのは、井上靖が書いた「星と祭」(1972発売)にこの地域の十一面観音めぐりが紹介されてからです。

 

大雑把なあらすじは、「貿易会社社長の架山はある日、愛していた17歳の娘の突然の悲報に接します。娘は年上の青年と二人で琵琶湖に漕ぎ出したボートが転覆し遭難してしまったのです。しかも2人とも死体は見つからず行方不明のままのため、架山は娘の葬儀もできず、死を受け入れる気持ちにもなれませんでした。そうした中、娘の死んだ琵琶湖には近づくことが出来ずに7年が経過しました。そして同じボートに乗って遭難した青年の父親から琵琶湖周辺の十一面観音めぐりに誘われ、これに参加すてみたのです。そしてこの地方に安置されている十一面観音像に触れていくうちに、次第にこの仏像たちがいままで置かれてきた環境や、これらをずっと守り続けている村人たちの想いが胸にこみ上げるようになってきますが、まだ娘の死を心の奥底では受け入れられないのです。そうした中、友人からヒマラヤの麓「タンボチェ」への旅とそこに浮かぶ月を見に誘われ、ヒマラヤを訪れました。ヒマラヤの過酷な環境で生活する人々の暮らしに接し、人の一生の暮らしをこえた人々の生き様に、ようやく娘の死を自分の心の中で受け入れられてきたのです。そして、日本に戻った架山は一緒になくなった青年の父親と満月の夜に琵琶湖に浮かぶ船の中で、娘とその青年のお別れの葬儀を行うのです。」

この小説の中でこの石道寺も訪れており、十一面観音像に接した主人公は、うっすらと紅をさしたような観音さまの唇、優しいまなざしなどを見て、この像は「素朴で優しくて、惚れ惚れするような魅力をもっておられる。野の匂いがぷんぷんするような・・・・」「この十一面観音様は、村の娘さんの姿をお借りになってここに立っている・・・」と書いています。

もう一つ「オコナイ」というこの地方独特の民族行事が行われていることも注目するべきでしょう。「オコナイ」は春先の1月~3月頃に、この湖北地方や甲賀地方の各地で多く行われていて、湖北地方だけでも150くらいの集落で行われているといわれています。いわゆる宗教行事の一つで、祖霊祭・魂祭や五穀豊穣などの神事を集落ごとに独自に改良して続いてきました。このため、ほとんど同じスタイルの行事は皆無といってよくそれぞれ異なります。しかし、これらの行事を通じてそれぞれの部落の人々の連帯意識が強まり、人々の深い祈りが共有されて信仰心も育まれてきたようです。

 

行われる場所は神社などが多いようですが、この石道寺は十一面観音像をおまつりしているお堂の中で行われます。あまり一般客は受け入れていないようですが、ご興味がありましたら問い合わせてみてください。

石道寺の仏像の詳細

石道寺は川沿いにあり小さなお堂が一つあるだけの寺です。このお堂の中の厨子に三体の仏像と厨子の外側に多聞天と持国天の2体の像が安置されています。

拝観を希望されるときは事前に観光協会に電話等で連絡した方が良いでしょう。

十一面観音立像【重文】(平安後期11世紀頃の作)〈ケヤキの一木造 像高173.2cm〉

本堂の厨子の中には3体の十一面観音像が安置されています。その中の真ん中が本尊の重要文化財指定の十一面観音像です。

井上靖の小説に出てくる「この十一面観音は、村の娘の姿をお借りになってここに立っている」と表現されるように、いかにも若い娘の素朴さを感じる観音様です。

唇に残されたひとすじの紅がとても印象的です。制作当時はもっと極彩色の仏像だったと思われ、ふくよかな顔に、緩やかにひねった腰つきでいかにも女性的なお姿です。

衣も流れるようで身体全体に柔らかな印象を与えています。足も今にも歩き出しそうな気配がしています。

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両となりの十一面観音立像は「高尾寺」に伝わる十一面観音像(藤原時代、金箔 高さ101.6cm)県指定重文となっています。

持国天と多聞天像【重文】(平安時代後期ごろの作) 〈欅の一木造 玉眼水晶埋め込み 像高各182.7cm〉

多聞天持国天の2体の像も国の重要文化財です。

これらの像は最近まで水晶の玉眼がはめ込まれていたために、鎌倉時代の作と考えられていましたが、2001年の調査でこの玉眼(ぎょくがん)が後に加えられたものと判明したため、十一面観音像とほぼ同時期の作と言われています。

この石道寺から歩いて10分ほどの古橋地区に鶏足寺という無住の寺があり、山麓の古橋地区にこの寺の仏像などを安置する己高閣(ここうかく)世代閣(よしろかく)という2つの収納蔵が建てられ、地元の方達によって管理されています。石道寺にこられたらこちらにも是非足を運んでいただきたいと思います。

己高閣には鶏足寺の本尊「十一面観音立像」【重文】、七仏薬師如来立像、兜跋毘沙門天像が、また、世代閣には薬師如来立像【重文】、魚籃(ぎょらん)観音立像【県指定】などが安置されています。

石道寺の拝観料金、時間、宗派、電話など

正式名称

己高山石道寺

宗派

真言宗豊山派

住所

〒529-0412 滋賀県長浜市木之本町石道419

電話

0749-82-3730

拝観時間

拝観時間:9:00~16:00
拝観不可:月

※地域の人が交代制で管理しているので、念の為事前電話したほうがベターです

拝観料金

300円

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地図