No.44:山梨・恵林寺の仏像・見どころ/不動明王及び二童子像、御朱印


心頭滅却すれば火も自ずから涼し」という句はどこかで聞いたことがあるのではないでしょうか。でもこの句の詠まれたいきさつは意外に知られていません。

今回はこの句の詠まれた山梨県甲府市塩山にある古刹「恵林寺(えりんじ)」を紹介します。

この寺は戦国時代に甲斐武田氏の菩提寺として知られ、特に武田信玄が招いた「快川(かいせん)国師」が詠んだといわれるのがこの句です。

でもこの句も中国唐で、唐時代の終わりごろに、杜荀鶴(とじゅんかく)の「夏日題悟空上人院」にある詩が基になっています。

この中では、夏の暑い時に寺の山伏門を閉ざして、きちんとした僧衣をきて座禅すれば、山水の地に行かなくとも座禅の境地に入れる。「滅得心頭火自涼」(心頭滅得すれば火も自ずから涼しく感じる)と詠んでいるのです。

心頭滅却というのは禅の修行を行うときに、心の中の雑念を払い去って無念無想の境地のことを指します。このため禅の心をより分かりやすく言ったものです。

まあ、どんな苦難に遭遇しても、心を落ちつけて無念無想の境地になれば、その苦難も苦しいとは感じなくなるというような意味でしょう。

しかし、今回紹介する恵林寺の快川国師が詠んだ句は「辞世の句」(死ぬ時に残す句)であったといわれています。

時は戦国時代の話です。

甲斐武田家の当主信玄が病で亡くなった後、武田勝頼は長篠の合戦で織田信長徳川家康の連合軍に敗れ、天目山にて滅亡に追い込まれていた時に、この寺も織田信長の軍により焼き討ちされてしまいました。

この時、炎上する寺の入り口にある「三門」の上でこの句をこの寺の快川国師が大きな声で叫んだといわれています。

そして国師は逃げずにそのまま焼け死んでしまったのです。

 

この寺を訪れると、きっと戦国時代に「風林火山」の旗をたなびかせて戦場を自由に走り回る、最強の騎馬部隊といわれた武田軍の記憶がよみがえってくるように思われます。

恵林寺へのアクセス

 恵林寺はJR中央線の塩山駅南口から西沢渓谷行バスで約15分「恵林寺前」下車すぐです。

寺は埼玉県秩父市と山梨県山梨市を結ぶ雁坂(かりさか)みち(秩父往還、国道140号)のすぐ近くにあり、渓谷や滝で有名な西沢渓谷から流れてくる笛吹川に沿ったところにあります。

 

恵林寺の山号は「乾徳山(けんとくさん)」で、恵林寺を開いたといわれる鎌倉時代の僧「夢想国師」がこの山(乾徳山 標高2031m)に籠って修業したという伝承があり、国師が座禅をしたといわれる座禅石や髪剃岩、天狗岩などの奇石や、国師との関わりを伝える銀晶水、錦晶水などの水飲場があります。

恵林寺は「総門(通称:黒門)」から入ると、次に「乾徳山」の扁額が掲げられた四脚が朱色に塗られた「四脚門(通称:赤門)」(徳川家康が再建した重要文化財指定の門)があり、その先に2階建て楼門形式の「三門」(県の文化財)があります。この三門には信長の焼き討ち時にここで最期を遂げた快川和尚の句が掲げられています。

三門をくぐった正面に「開山堂」(市指定文化財)があり、ここに夢窓疎石(むそうそせき)快川紹喜(かいせんしょうき)末宗瑞曷(まっしゅうずいかつ)の三像が安置されています。

拝観受付はこの開山堂裏手の庫裡(くり)で行います。

庫裏から本堂に入って、音の鳴るうぐいす張りでできた「うぐいす廊下」を抜けると明王殿に武田不動尊が安置されています。そしてその裏に信玄の墓があります。

また、本堂の裏には夢窓疎石が築庭したといわれている池泉回遊式庭園(国の名勝)が広がっています。廊下から庭園を眺めていると、自然と心が静まっていくように感じます。

また庭園横には柳沢吉保の墓所があります。

境内の信玄公宝物館では武田氏、とくに信玄に関する資料・指定文化財を公開していますので、武田信玄のファンには見逃せないところでしょう。

恵林寺の歴史

 恵林寺の創建は、鎌倉時代の1330年に鎌倉幕府の御家人(ごけにん)で、甲斐牧ノ庄(かいまきのしょう)の荘園主であった二階堂貞藤(にかいどうさだふじ)が笛吹川上流の自分の所領地を寄進して、夢窓疎石(むそうそせき)を招き、また自分の自邸を禅院として開山しました。

夢窓疎石は国師の称号を与えられ「夢窓国師」と呼ばれた僧侶で、池泉回遊式庭園など日本における「究極の庭園」を作り上げた僧として知られています。

この寺の庭園も鎌倉時代にこの夢窓国師により作られ、国の史跡・名勝に指定されています。

その後応仁の乱などにより寺も荒廃していましたが、甲斐の戦国武将「武田信玄(春信)」がこの寺を再興しました。特に、1564年に美濃国から快川紹喜(かいせんじょうき)が寺の住職として入り、武田信玄もこの快川和尚を大変尊敬していて、信玄は寺に領地を寄進して、恵林寺は甲斐武田家の菩提寺となりました。

武田信玄が戦の途中で病に倒れて亡くなった後、家督を継いだ武田勝頼は信玄の遺言によりその死を公表せずに1575年に長篠の戦いで織田信長徳川家康の軍に敗れ多くの戦力を失いました。

しかし、信玄の遺言によりその死から3年後の1576年4月に信玄の葬儀がこの寺で快川国師により執り行われました。

しかしその後の甲斐武田家に武運は味方せず、勝頼は1582年に天目山で自害し最期を遂げました。またこの頃、恵林寺には武田方の武将が逃げ込んでいました。

織田信長軍は、その武将たちの引き渡しを寺に迫りましたが、快川和尚が応じなかったために寺は織田信長軍による焼き討ちを受けたのです。

この時に燃えさかる寺の「三門」の上で快川和尚が詠んだのが、有名な「心頭滅却すれば 火も 自ずから涼し」という句です。

この句の扁額(へんがく)が、現在の三門に掲げられています。ただ、史実としてはこの言葉を快川和尚が発したかどうかは定かではありません。

本能寺の変による信長の死により、この甲斐の地は戦国武将の争いに巻き込まれますが、結果は徳川家康の領地となりました。

家康は武田氏の残された家臣を擁護し、この恵林寺も焼き討ちの時に寺から逃れて、栃木県大田原市にある「雲厳寺(うんがんじ)」に隠れていた僧侶「末宗瑞曷(まっしゅうずいかつ」を呼び戻して寺の復興に当たらせました。

江戸時代に家康の庇護を受け、特に1704年に将軍綱吉の「側用人」となっていた柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が甲府藩主となり、甲斐武田氏が清和源氏の血統を引いているため、自身もこの信玄と同じ甲斐武田氏の末裔であるとして、恵林寺を自身の菩提寺に定め、寺の発展に寄与しました。

さてここからは少し余談ですが、甲斐武田家が清和源氏の血統であるというお話をしたいと思います。

源氏や平氏などはいずれも天皇家の皇族から民間に下った士族に与えられた姓です。ですから源氏といっても清和源氏(せいわげんじ)以外にも全部で21の流があります。

しかしその中でも清和源氏は鎌倉幕府を起こした源頼朝の血筋で最も有名です。

清和源氏というのは第56代清和天皇の子供や孫たちが民間に下って「源氏」という姓を戴いたもので、清和天皇の子孫にあたるのです。これらの源氏や平氏が次第に武士団を結成して各地に散らばっていきます。

では甲斐武田氏はというと、歴史の始まりは奥州の蝦夷征伐(奥州安倍氏討伐)の前九年の役と清原氏討伐の後三年の役にさかのぼります。前九年の役は1051年に始まりますが、これを行ったのが清和源氏の源頼義(みなもとのよりよし)とその長男の八幡太郎こと源義家(みなもとのよしいえ)です。

前九年の役に勝利して都に戻った頼義と義家でしたが、また奥州の清原氏が台頭してきたためにこの征伐に義家が出かけます(1083年)。

八幡太郎義家がこの奥州征伐に行く途中に関東の武士団が駆け付け、進むたびに軍勢が増えていったという話がその後、関東や東北各地に残されていますが、その話は鎌倉幕府ができたころに後から誇張されて広がったのかもしれません。

この八幡太郎義家が奥州で苦戦していることを知った弟の新羅三郎(しんらさぶろう)こと源義光(みなもとのよしみつ)が後からこの戦いに参戦します。義光は笙(しょう:雅楽の笛の一種)の名人としても有名です。

奥州での戦いに勝利して都の戻った新羅三郎義光常陸介(ひたちのすけ)となって常陸国(現在の茨城県)にやってきます。

この源義光の長男が戦国時代に常陸国を統一した佐竹氏となり、義光とその二男源義清(みなもとのよしきよ)が常陸国から甲斐国に移り甲斐武田氏となります。

いっぽう鎌倉幕府を作った源頼朝は八幡太郎義家の直系です。

これらの人々は皆「清和源氏」の流れをくんでいるのです。

またもう一つ甲斐武田家の家宝として「日の丸御旗(みはた)」と「楯無(たてなし)」というものが残されています。この「日の丸御旗」は新羅三郎義光の父頼義が後冷泉天皇(1045-1068年、第70代)から下賜されたもので源氏の直系を示す旗であり、「楯無(たてなし)」というのは義光が使っていた鎧(楯が無くても槍や刀を通さない丈夫な鎧)」のことです。

 

武田家では、当主が「御旗・楯無も御照覧あれ」と言うと、それまで反対意見などがあっても、この家宝の前で誓ったことは、全員が死を持っても守らなければならず、それ以上の議論は止めなければならなかったといわれています。

この「日の丸御旗」は塩山市の雲峰寺に、また「楯無」は同じ塩山市の菅田天神社(かんだてんじんしゃ)に残されています。

もちろん武田信玄といえば「風林火山」の旗印が有名ですよね。

今回紹介する恵林寺は武田信玄の墓(武田神社近くの墓所から遺骸を恵林寺に移した)があるとともに、この風林火山の旗や信玄が使っていた鎧や兜、軍配団扇などが残されています。

恵林寺の仏像の詳細

 

≪開山堂≫

 このお堂の中には恵林寺の創建や再建に尽力した三体の像がおかれています

中央に寺を開いた「夢窓疎石(むそうそせき)」、右に信玄に請われ入寺し、織田信長に焼き討ちされ死んだ「快川紹喜(かいせんしょうき)」、左に徳川家康によって再建を命じられた「末宗瑞曷(まっしゅうずいかつ))の三像です。

音のなる鴬張りの廊下を進むと右側にたくさんの位牌が並んでいます。

そしてその先にある赤いじゅうたんのところが「明王殿」で、ここは武田不動尊と呼ばれる場所で、不動明王と両脇に二童子が安置されています。

不動明王及二童子【県指定】(室町時代の作)〈像高:中尊92.9cm〉

正面真ん中の不動明王像は、武田信玄公京都から仏師康清を招いて、信玄が仏師に自からの姿を不動明王の姿として彫刻させたもので、信玄自らの頭髪を焼いて彩色させたものであるといわれています。ただこれも軍記物(『甲陽軍鑑』『甲斐国志』など)に書かれているだけですので真実かどうかははっきりしません。

不動明王の姿は通常の右手に剣、左手に羂索(けんさく)を握り、忿怒(ふんぬ)の形相をした像です。かなり迫力のあるお顔・姿です。

像内は内刳りされ、肩から斜めに垂らした条帛(じょうはく)には金泥(金を粉末にしてニカワが入った水で溶かした絵具)で武田家家紋である花菱文が描かれています。

三門と開山堂の中間東側に「武田信玄公宝物館」が昭和44年にオープンしました。

これは恵林寺が所蔵する甲斐武田氏に関する宝物を保存・管理・公開するために保存会が設立され、歴史教育機関の一環を担い公開施設としてこの保存会が管理運営している施設です。

夢窓国師坐像【県指定】(寄木造り 頭部は塑像 胴部は木造 玉眼入り)〈像高:72cm〉

恵林寺を開いた夢窓国師の坐像です。

この像の詳しいことはわかりませんが、頭部が塑像で胴部は木造という組み合わせの像です。

このような像はあまり見かけません。

また全体に素地調整のために布を着せて、彩色を施しています。

柳沢吉保坐像【市指定】(江戸時代1710年 仏師大下浄慶の制作 玉眼・彩色)〈像高:85.0cm>

柳沢吉保の像です。像内に墨書があり、柳沢吉保53歳の姿を写したとされます。

また太刀(銘山城守国重)が付属しています。

 

柳沢吉保は、5代将軍徳川綱吉の側用人から大老格となり、江戸徳川幕府の政治を主導した人物です。1704年に甲斐国の国主となり、それから柳沢吉保と子の柳沢吉里(よしさと)の2代20年間にわたって甲斐国の藩主を務めました。柳沢吉保は祖父がかつて武田氏に仕えたといわれています。

吉保は信玄の133回忌、吉里は150回忌の法要をこの恵林寺で執り行っています。

 

恵林寺の御朱印

恵林寺の拝観料金、時間、宗派、電話など

正式名称

乾徳山 恵林寺

宗派

臨済宗妙心寺派

住所

〒404-0053 山梨県甲州市塩山小屋敷2280

電話

0553-33-3011

拝観時間

8:30~16:30

宝物館は、12月~3月の間は毎週木曜日が閉館となります。

拝観料金

大人:300円

小中高校生:100円

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地図