山梨・恵林寺の仏像|武田不動尊と夢窓国師坐像に会う(拝観料・時間つき)

5年ほど前、個人で恵林寺(えりんじ)を訪ねました。いちばん見てほしい像は、武田不動尊です。武田信玄と結びついた、この土地だからこその不動明王さん。ひとことで言うなら、イケメンです。
山梨県甲州市、JR塩山駅から西沢渓谷行きのバスで15分ほど。笛吹川に沿った禅寺で、山号は乾徳山(けんとくさん)といいます。開山の夢窓国師がこの山にこもって修行したと伝わります。門は3つ。黒門と呼ばれる総門、朱塗りの四脚門(赤門)、そして2階建ての三門。三門には、あの「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」の句の扁額が掲げられています。
この寺で会う像は、どれも誰かの顔をしています。信玄の姿を写したと伝わる不動明王。寺を開いた夢窓国師。江戸で大出世した柳沢吉保。像の向こうに誰がいるのかを探しながら歩くと、恵林寺は見え方が変わります。
恵林寺・不動明王及二童子像(武田不動尊):信玄の顔と伝わる不動さん
橙と金の幕を背に、黒ずんだ体の不動明王さんが坐っています。背中には火炎。右手に剣を立て、左右には二童子。信玄が京から仏師を招き、自分と向かい合わせて姿を写させた等身大の像、と伝わります。仏師は康清。『甲陽軍鑑』『甲斐国志』にその名が出てきます。
信玄が自分の髪を焼いて彩色させた、という話もありますが、これも軍記物に書かれているだけで、本当かどうかは分かりません。伝えとして楽しんでください。
仏像リンク編集部MEMO 📝


不動明王さんは、怒りの顔で迷いを断ち切る明王さんです。右手に剣、左手に縄(羂索)を持ちます。武田不動尊もこの決まりどおりの形で、公式の解説も、形は不動明王の決まりごと(儀軌)どおりだと指摘しています。つまり「信玄の顔」は、決まりの中に収まった顔です。
手がかりは、衣の模様です。肩から斜めに垂らした条帛(じょうはく)に、金泥で花菱文が描かれています。武田家の家紋です。不動明王さんについてもっと知りたい方は、不動明王の解説へどうぞ。
名称: 不動明王及二童子像(山梨県指定文化財)
時代: 室町時代
像高: 中尊92.9cm
材質: 木造(中尊と二童子の3躯)。像内は内刳り
特徴: 信玄の姿を写したと伝わる等身大の坐像。条帛に金泥の花菱文。右手に剣、左手に羂索。
恵林寺・夢窓国師坐像:頭だけが土でできた開山さん
開山堂には、寺を開いた夢窓国師(夢窓疎石)が、快川紹喜、末宗瑞曷とともに並んでいます。中央が夢窓国師です。
この像は、胴が木で、頭だけが塑像(粘土の像)です。ふつうの木彫の像とは作りが違います。目には玉眼(水晶をはめこんだ目)が入っています。元徳2年(1330)9月の製作で、寺ができた年の姿が、いまも寺に残っています。
仏像リンク編集部MEMO 📝


ここからは、私の見立てです。顔だけを別の素材でつくった像は、顔にとくべつな意味を込めたものだったのではないか。恵林寺は、人の顔を大切にしてきた寺だと感じます。
名称: 夢窓国師坐像(山梨県指定文化財)
時代: 鎌倉時代末(元徳2年〈1330〉9月の製作)
像高: 72cm
材質: 寄木造。頭部は塑造、胴部は木造。玉眼入り。表面に布を着せて彩色
特徴: 寺を開いた夢窓国師の姿。頭部が土、胴部が木という組み合わせ。
その他の見どころ
柳沢吉保坐像:53歳の姿を写した像
柳沢吉保坐像(市指定文化財)は、1710年の制作で、像の中の墨書から吉保53歳の姿を写したとされます。制作は仏師の大下浄慶と紹介されます。太刀(銘山城守国重)が付属します。
吉保は5代将軍綱吉の側用人から大老格となり、江戸幕府の政治を主導した人物です。1704年に甲斐国の藩主となり、信玄と同じ武田氏の末裔として、恵林寺を自分の菩提寺と定めました。信玄の133回忌、子の吉里は150回忌の法要を、この寺で営んでいます。
庭園・四脚門・宝物館
本堂の裏に広がる池泉回遊式庭園は、夢窓国師が築いたと伝わる国の名勝です。廊下から庭を眺めていると、息が静かになってきます。入口の四脚門(赤門)は、徳川家康が再建したと伝わる国の重要文化財です。
境内の信玄公宝物館では、武田氏、とくに信玄に関する資料を公開しています。宝物館は寺とは別の組織が運営しているので、開館日や料金は宝物館に確かめてください。信玄公の墓所は通常は非公開で、毎月12日だけ公開されます。
うぐいす廊下と御朱印
拝観の受付は、開山堂の裏手にある庫裏です。庫裏から本堂へ入り、うぐいす張りの廊下を進みます。足を運ぶたびに音が鳴ります。その先が、武田不動尊のいる明王殿です。
お寺の歴史と伝承


1330年、鎌倉幕府の御家人で甲斐牧ノ庄の荘園主だった二階堂貞藤(にかいどうさだふじ)が、夢窓疎石を招いて開いたと伝わります。その後、応仁の乱などで荒れた寺を再興したのが武田信玄です。1564年に美濃から快川紹喜が住職として入り、信玄は領地を寄進。恵林寺は甲斐武田家の菩提寺になりました。
1582年、武田勝頼が天目山で自害します。恵林寺には武田方の武将が逃げこんでいました。織田信長の軍は引き渡しを迫り、快川が応じなかったため、寺は焼き討ちを受けます。燃える三門の上で快川が句を唱えた、と伝わります。ただ、史実として本人がこの言葉を発したかどうかは、はっきりしません。
焼け跡の寺を立て直したのが、徳川家康です。武田の旧臣をかばい、栃木県大田原市の雲巌寺(うんがんじ)に逃れていた末宗瑞曷を呼び戻して、復興にあたらせました。
武田氏は、清和源氏の流れをくむ家です。吉保が「武田の末裔」を名乗ったのも、この血筋の物語に連なるためでした。
主な歴史年表
1330年: 二階堂貞藤が夢窓疎石を招いて開いたと伝わる。夢窓国師坐像がつくられる
1564年: 快川紹喜が美濃から入寺。信玄が領地を寄進する
1576年4月: 快川が信玄の葬儀を営む
1582年: 織田軍の焼き討ちで、快川が三門で亡くなったと伝わる
江戸時代初期: 家康が末宗瑞曷を呼び戻し、寺を復興する
1704年: 柳沢吉保が甲斐国の藩主となり、恵林寺を菩提寺と定める
1710年: 柳沢吉保坐像がつくられる
なぜ、不動明王に「信玄の顔」を重ねたのか
武田不動尊が信玄の姿を写した像だという話は、軍記物に出てくるだけで、確かな記録があるわけではありません。像の形は不動明王の決まりどおり。それなのに、なぜ「信玄の顔」と語り継がれてきたのでしょうか。


ここからは私の想像です。
恵林寺は、焼かれた寺です。そのあとを立て直したのは家康で、さらに吉保が、信玄と同じ武田氏の末裔として菩提寺に定めました。信玄の寺であることが、時代が変わるたびに、寺を守る縁になってきたはずです。
「信玄の顔の不動明王」という言い伝えは、顔が似ているかどうかよりも、「ここは信玄の寺だ」と堂の中で言い続ける役目を持っていたのではないでしょうか。形は決まりどおりの不動明王さんなので、仏の姿のまま、信玄を堂の中に預けておける。私は、この像は「面影を預かる器」だったと見立てています。
まとめ:恵林寺では、像が誰かの面影を預かっている
武田不動尊は信玄の面影を、夢窓国師坐像は開山の面影を、柳沢吉保坐像は江戸で大出世した人の面影を預かっています。焼かれても、立て直されても、寺は「誰の寺か」を像に預けて守ってきたのではないか。そう思って境内をひとまわりすると、黒門から三門までの距離が、少し長く感じられます。
ひとつ、問いが残ります。「信玄の顔」になるずっと前の不動明王さんは、どんな顔をしていたのでしょう。


次に会いに行くなら
「信玄の顔」になる前の不動明王さんを見るなら、放光寺。近くにある寺で、平安時代末の不動明王立像に会えます。武田不動尊の前に見ておくと、同じ不動明王さんが時代でここまで顔を変えるのが分かります。半日でまわれます。
同じ山梨の不動さんをもう1体見くらべるなら、立川不動堂。不動明王坐像を訪ねた記事です。甲斐の不動明王さんを、もう1体並べて思い出せます。
不動さんの次は、ほかでは会いにくい姿の像へ。横蔵寺。山梨から岐阜の山あいへ。深沙大将立像という、めずらしい姿の像が待っています。
同じコース「山梨・中部・伊豆の地方仏」で、こんなところはどうでしょう
恵林寺の拝観料金、時間、宗派、電話など
正式名称 | 乾徳山 恵林寺 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
住所・アクセス | 〒404-0053 山梨県甲州市塩山小屋敷2280 |
電話 | 0553-33-3011 |
拝観時間・拝観方法 | 8:30〜16:30(最終入寺16:15)/年中無休 |
拝観料金 | 大人500円(20名以上は400円)、小・中・高校生300円 |
拝観時間・料金は変わることがあります。お出かけ前にご確認ください。参考:恵林寺公式サイト
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地域タグ:山梨県の仏像

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