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【見仏入門】No.38 神奈川・覚園寺の仏像/薬師三尊像、十二神将、黒地蔵など

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鎌倉にはみなさんもご存知のようにたくさんのお寺があり、鎌倉の大仏をはじめ「鎌倉五山」といわれる建長寺円覚寺寿福寺浄智寺浄妙寺などが鎌倉観光のメインスポットでしょうか。

しかし!そんな中で今でも昔の鎌倉の雰囲気を味わえる一番のスポット、私が鎌倉でもっともプッシュしたいお寺のひとつが今回紹介する「覚園寺(かくおんじ)」です!

覚園寺は観光地鎌倉とは一味違った静寂の中で極上の仏像を堪能することができます。また拝観の際には、お寺の方のガイドがついて拝観できるので自分自身で拝観するよりもより多くの知識が得られます。ぜひこれを読んでいただきまして多くの方に訪ねていただきたいお寺の一つです。それでは覚園寺のガイドをたっぷりしていきたいと思います!

覚園寺のみどころ

ご本尊「木造地蔵菩薩立像」(国重文)は、別名「黒地蔵」と呼ばれ、地獄の罪人の苦しみを少しでも和らげようと鬼に代わって火を炊いたため「黒くすすけた」という伝説があり、また何回色を塗りなおしても元に戻ってしまうということで「黒地蔵」と呼ばれるようになったといわれています。

また本堂(薬師堂)に安置されている「薬師如来三尊坐像」や「十二神将立像」は鎌倉時代から室町時代の優れた仏像で、古都鎌倉の中でも特に優れた仏像です。

この寺の参拝方法は一風変わっていて、鎌倉に数多くあるお寺の中でも特に異彩を放つ体験をさせてくれる貴重なお寺です。

8月10日の「黒地蔵縁日」は、午前0時より正午まで行われており、鎌倉の夏の風物詩となっています。真夜中に灯りがともされたお寺を訪れ、この日は無料開放された静寂な境内で祈りをささげ、鎌倉有数の仏像彫刻の多彩さに触れてみるのもきっと今までに体験したことのない世界を体感できることでしょう。この縁日の朝は、境内の一画の大悲殿跡地に移築された江戸時代(1706年)に建てられた旧内海家住宅(茅葺き、寄棟造:県指定文化財)で「朝がゆ」を食べることができますよ(有料)。

その他の時期でも、境内は自然が豊かで、春の梅や秋の紅葉も楽しみの一つです。是非じっくりと中世鎌倉の「鎌倉らしさ」を味わってください。

覚園寺へのアクセス

覚園寺(かくおんじ)は、JR「鎌倉駅」より京浜急行バス「大塔宮(おおとうみや:鎌倉宮」行バス終点下車、徒歩10分くらいのところにあります。

鎌倉と金沢八景(六浦)を結ぶ街道は、金沢街道と呼ばれ、相模国と武蔵国を結ぶ重要な街道でした。現在は県道204号線となっていますが、覚園寺はこの道からさらに北に入った二階堂地区の谷の奥にあります。古都鎌倉といっても北鎌倉や鶴岡八幡宮などの観光地とは離れ、今でも寺の境内および周辺は自然環境が良く保たれており、昔の鎌倉の雰囲気を最もよく今に残す地域だといわれています。車で行く場合は道が狭いので注意が必要です。

山門をくぐるとすぐ「愛染堂」があり、ここはいつでも自由に見学・内部の拝観をすることができます。

その先の境内及び本堂(薬師堂)等は有料で、決められた時間に定期的なツアー形式の見学となります。

毎日10時、11時、(12時)、13時、14時、15時の1時間毎に寺側の案内者(寺僧)によってじっくり案内していただけます。ただし12時の見学案内は土日祝日のみで平日はありません。また、荒天候な日や黒地蔵縁日以外の8月と年末年始なども拝観が中止となりますので注意が必要です。

寄棟造、茅葺きの薬師堂(本堂)は禅宗様式の仏堂で、寺僧の説明をよく伺いながら、鎌倉を代表する名仏(本尊の薬師如来像、本尊を囲む十二神将など)を拝観して回ると仏像の持つ力、古都鎌倉という地の魅力などを不思議な魅力を感じることでしょう。

毎年8月10日の黒地蔵の縁日は夜中から多くの人が訪れます。夜中はバスがありませんので鎌倉駅から多くの方が歩いて訪れています。小川沿いの道を徒歩で40分くらいでしょうか。この縁日は本尊の「黒地蔵尊」が亡くなられた方々へ人々の気持ちや願いを運びとどけてれるということで施餓鬼法要がおこなわれています。この黒地蔵縁日の日は普段自由に拝観できない寺の境内も自由に入ることができます。そして暗闇の中、幻想的な境内を心ゆくまで体験ことができます。

覚園寺の歴史

古都鎌倉の鶴岡八幡宮の東側の二階堂地区の奥にある「覚園寺」の沿革については、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡(あづまかがみ)』に書かれています。

これによると鎌倉幕府2代執権である北条義時(ほうじょうよしとき)が1218年建立した大倉薬師堂がこの寺の起源とされ、1219年に正式な寺院となりました。

この大倉薬師堂が建設された時のいきさつは同じ吾妻鏡によると、1218年に北条義時が将軍実朝の鶴岡八幡宮参拝に付き従った後の夜、夢の中に薬師十二神将の「戌(いぬ)神」が現れました。そして「戌神」は「今年は無事だったが来年の将軍の参拝のときには供奉するな」といわれたのです。

 

驚いた義時は運慶薬師如来像十二神将像を作ってもらい(この像は運慶ということも像本体も確認されていません)、それを大倉の地に薬師堂を建て、そこに納めたのです。そして翌年(1219年)に臨済宗の僧、荘厳房律師退耕行勇(たいこうぎょうゆう)導師を招いて開堂供養を行いました。

 

そして翌年の1219年に行われた源実朝(さねとも:鎌倉幕府第3代将軍)の右大臣拝賀式(はいがしき:目上の人にお祝いをのべること)において、太刀役を仰せつかっていた北条義時(よしとき)が、白い犬の姿を見た途端に気分が悪くなり、役職を中原(源)仲章(なかあきら)に代わってもらい自分は屋敷へと戻りました。すると、式典後に鶴岡八幡宮で、実朝も仲章も実朝の甥の公暁(くぎょう)に斬られてしまったのです。この大事件の首謀者が義時であったという説もありますが、襲った人物はこの役を代わったという事実を知らず、また仲章も夜暗い中を襲われていますので見分けがついていなかったのではないかともいわれています。

 

そして事件の事後処理を終えて、義時はお礼のため大倉薬師堂に詣でると、その事件があった時に十二神将の中の「戌神」だけがお堂に中にいなかったという話を聞きました。

それは薬師十二神将の「戌神」が白い犬に姿を変えて事前に義時に危険を知らせて、義時を救ったと書かれています。史実は多少不確定なところもありますが、その後この大倉薬師堂は、時の執権北条家によって尊崇されて繁栄していきます。記録では1243年に起きた火災で薬師堂が被害にあい、仏像は運び出され無事だったと記されています。

また数年後にこの薬師堂は再建されています。

さらに寺伝によれば、第1、第2の元寇(げんこう:モンゴル帝国による日本攻撃)の後の1296年(9代執権北条貞時の時代)に第3の元寇の不安を払拭し、外敵退散を祈願して正式の寺院となったといいます。覚園寺ではこの1296年をもって寺の創建とし、北条貞時を開基としています。初代住職は京都・泉涌寺智海心慧(ちかいしんえ)です。

泉涌寺、覚園寺ともに現在は真言宗の寺院ですが、当初は北京律(ほっきょうりつ:1211年に泉涌寺の俊芿(しゆんじよう)が中国から新しい律宗を持ち帰り、天台・禅・律3宗兼学の道場として律宗の復興をはかった。この戒律復興の運動が鎌倉仏教界に大きな衝撃を与えた。北京律に対し京都での律宗は南京律と呼ばれる)の本拠地でした。このため鎌倉時代には(律)、天台、東密(真言)、禅、浄土の四宗兼学の道場でした。

現在の薬師堂(本堂)禅宗様式で、この時の面影を残しています。

鎌倉幕府滅亡の年である元弘3年(1333年)、後醍醐天皇は覚園寺を勅願寺とし、南北朝時代に入ると、足利氏も覚園寺を祈願所とし保護しました。

1337年に火災で仏殿(本堂)が焼失しましたが、1354年に足利尊氏あしかがたかうじにより再建されました。現在の薬師堂は足利尊氏が再建した時の部材を残していますが、江戸時代に大修理が行われています。

1830年に大きな火災がおき、寺の大部分の建物が焼失してしまいました。以後、1923年の関東大震災でも大きな損害を受け、しばらく寺も廃れていましたが、戦後徐々に復興し今では鎌倉の面影を感じる寺となっています。

覚園寺の仏像の詳細

薬師堂(本堂):木造薬師如来及日光菩薩・月光菩薩坐像(木造薬師三尊坐像)(国指定重要文化財)

この大きく立派な薬師如来三尊の像は一段高いところの壁から浮き出るように安置されていてまるで宙に浮きだしたように感じます。迫力満点のこれらの仏像は鎌倉を代表する名仏とも言われています。

像高は薬師如来坐像が181.3センチ、日光菩薩坐像が149.4センチ、月光菩薩座像が150.0センチです。中尊像の製作年代は頭部が鎌倉時代、体部は南北朝~室町時代の作、日光・月光菩薩像は室町時代の作と思われます。また日光菩薩像の頭部内に仏師「法橋朝祐応永廿九年(1422)三月廿一日の銘があり、中尊、日光・月光菩薩像ともに作風に共通点があるため、三尊ともに法橋朝祐の作とみられていますまたこの寺の木造十二神将立像の6躯に法橋朝祐の銘があり室町時代の法橋朝祐の製作と思われます。

三尊像ともに寄木造りで、蓮台の周りに衣の裾(そで)を長く垂らした宋風様式(そうふうようしき:中国の宋代(960~1279)の様式で、鎌倉を中心とする関東地方の仏像にのみ見られる様式)の特徴が目立ちます。

中尊の薬師如来像はどっしりとしたからだで少し女性的な穏やかなお顔です。 そして手は一般的な右手を挙げた形(施無畏与願印)ではなく、法界定印(腹前で両手を組む)の手のひらの上に薬壺を乗せています。また日光・月光の両脇侍像は脚を崩して胡坐(あぐら)をかいた姿です。

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木造十二神将立像(国指定重要文化財)

像高は、最大の亥(い:いのしし)神像が189.7センチ、最小の戌(いぬ)神像が152.6センチです。ヒノキ材の寄木造りです。

 

薬師三尊像の周りを取り巻くように十二支の順で時計まわりに3躰ずつ置かれています。

午(うま)神像の像内に応永8年(1401年)法橋朝祐の銘があり、未(ひつじ)神、申(さる)神、酉(とり)神、亥(い:いのしし)神の各像にはそれぞれ応永15・16・17・18年(1408
– 1411年)の像内銘があるため、仏師法橋朝祐が一年に一体ずつ造り、十二年かけてこの十二神将像を作ったと考えられています。

この十二神将像については、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡(あづまかがみ)」に書かれていますが、これについては寺の歴史の中で説明をしています。

さて、この薬師三尊像と十二神像については同じ鎌倉市大町というところにある小さなお堂「辻の薬師堂」に残されていた薬師如来三尊像と十二神像(現在は鎌倉国宝館所蔵)との関係が指摘されています。

(辻の薬師堂:現在は本来の像は鎌倉国宝館所蔵となり、こちらには複製の像が安置されています)

鎌倉国宝館の資料によればこれらの像は神奈川県指定文化財で、薬師如来立像(こちらは坐像ではなく立像)は像高175.0cm 平安時代の作とされ、十二神将像(巳神:126.1cm、戌神:129.8cm・・・)とされ、8躯が鎌倉時代の作で、残る4躯(卯、未、申、亥)が室町時代の補作と見られています。

こちらの辻薬師堂は現在地元で管理されていますが、そのいきさつを調べると、まず鎌倉時代に覚園寺がある鎌倉の二階堂の地に1190年に源頼朝が「東光寺」というお寺を建立して、ここに薬師如来をまつりました。この寺は南北朝時代には関東十刹の一つに数えられるほどの寺でしたが、1704年にこの寺の薬師堂が鎌倉市大町の名越の長善寺に移されました。この寺は江戸末期に火災で焼失してしまいますが薬師堂だけが残されこれが「辻の薬師堂」となって地元で管理されてきたといいます。しかし保存状態も悪くこれを鎌倉市で修復して現在国宝館に保管されています。

その後、この薬師如来立像は東光寺にあった像であったことが仏像内の銘札で判明しました。同じ二階堂(鎌倉宮)地区であることからもう一方の十二神将像についてもいつどのようにしてまつられたものかが非常に興味がわくところです。

 

この覚園寺の仏師法橋朝祐が作ったという十二神将像が実はこの辻の薬師堂にあった十二神将像と似ているという指摘があり、朝祐は覚園寺(大倉薬師堂)の像を彫るのに同じ二階堂にあった(東光寺?)と思われる十二神将像をモデルとしたのではないかといわれています。しかしそのことについてははっきりとしたことはわかっていません。それでも何らかの影響があったと思われます。

地蔵堂:木造地蔵菩薩立像(黒地蔵)国重要文化財

像高170.4cm 鎌倉時代の作

全身が黒色に覆われていることから、通称「黒地蔵」の名でしたしまれています。

 

8月10日の黒地蔵盆の本尊です。目鼻立ちもはっきりとして、すこし引き締まったお顔の地蔵像です。法衣の襞(ひだ)もくっきり彫られて見た目も美しいく、鎌倉地方に残る地蔵菩薩像のなかでも特に優れた仏像です。

黒地蔵の両側には千体地蔵が安置され、黒地蔵の分身としてこの千体地蔵の一体を借りて家に持ち帰り一心に祈り続けると「願いがかなう」といわれ、そして借りた千体地蔵に彩色をして地蔵堂にお返しするという風習も残されているもいわれていまが、黒地蔵から五色の布で編まれた綱を握ると、黒地蔵が亡くなった人のもとに、参拝者の思いや願いを運び届けてくださるそうです。

愛染堂のみどころ

覚園寺の入口にある愛染堂は、明治初年に廃寺となった大楽寺の本堂を移築したものです。大楽寺は、1317年に胡桃ヶ谷(くるみがやつ:浄妙寺の東の谷)に二階堂行朝が開基となって建てた寺です。その後、覚園寺のある薬師堂ヶ谷に移転されました。

堂内の諸仏はこの大楽寺に残されていた仏像で、中央に「木造愛染明王坐像」(市重文)、左に「木造阿しゅく如来坐像」(県重文:鎌倉十三仏)、右に「鉄造不動明王坐像」(県重文:試みの不動)が安置されています。愛染堂はツアー形式の案内には無く、いつでも拝観が可能です。

木造愛染明王坐像:市指定文化財

像高98.0㎝、南北朝時代の作です。愛染明王は、鎌倉では少なく珍しいといわれています。愛染明王を信仰すると、他人から尊敬され、愛されて、財宝が手に入るそうです。

木造阿しゅく如来坐像:県指定文化財

像高111.0㎝。鎌倉時代の作です。頭部から「元享弐季壬戌(1322年)十二月日法印院興作」・「阿しゅく仏」の墨書が発見されています。

作者の院興は、横浜市金沢文庫にある称名寺(しょうみょうじ)の「清涼寺式釈迦如来立像」や「金剛力士像」を手掛けた人物といわれています。

鉄造不動明王坐像:県指定文化財

 

像高56.5㎝、鎌倉時代の作です。廃寺となった大楽寺の本尊でした。

この像は鉄製で関東地方の鉄仏のなかではもっとも早い作例とされています。

平安末期の特色が残されています。県の文化財の説明によれば、「大楽寺を開いた願行が伊勢原の大山寺の「鉄造不動明王像」(国重文)を鋳造するにあたって試しに造ったものであると伝えられていることから、「試みの不動」とも呼ばれている。」と書かれています。

覚園寺の御朱印

覚園寺の拝観料金、時間、宗派、電話など

正式名称

鷲峰山真言院 覚園寺

宗派

真言宗泉涌寺派

住所

〒248-0002 神奈川県鎌倉市二階堂421

電話

0467-22-1195

拝観時間

休業:雨天・荒天、8月、12/20~1/7は拝観休止
公開:10:00、11:00、13:00、14:00、15:00

※12:00の回は土・日・祝のみ実施

黒地蔵盆:毎年8月10日の午前0時~正午ごろまで ※境内自由拝観

拝観料金

大人:500円 小中学生:200円

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