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【見仏入門】No.3京都・六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)の仏像/空也上人立像・国宝十一面観音など

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六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)は、京都市東山区にある空也上人(くうやしょうにん)が建立したお寺です。

 

空也といえば、口からムニャムニャ~っと6体の仏が飛び出す空也上人(くうやしょうにん)像が教科書などにものっているので、空也上人をよく知らない人でもどこかで目にしたことがあると思います。

 

空也上人のコスプレ(とても似てますよね(笑))

 

でも六波羅蜜寺には空也上人以外にも個性的な仏像がたくさんまつられているんです!

 

今回の六波羅蜜寺の特集では

 

・空也ははたしてどんな人物だったのか。

 

・空也がはきだしているのは一体なんなのか。

 

・六波羅蜜寺にある秘仏の国宝とは?

 

・髪の毛をにぎる仏像がある?

 

などなど、今回はそんな六波羅蜜寺についてご紹介していきたいと思います。

 

 

 

六波羅蜜寺はどこにあるの?!

 六波羅蜜寺は、京都市の鴨川の東側、住宅街の中にひっそりあるお寺です。

ここに行くには、京阪電車で「清水五条」駅から歩いて7~8分ほどです。また京都駅からは市バスの「清水道」から西に5分ほど歩けば行くことができます。

 

「清水五条」駅は、牛若丸と弁慶の話で有名な鴨川に架かる五条大橋のすぐ近くにあります。お寺はこの北東方面に当たります。

 

清水寺への参道である清水寺道のすぐ近くにあるので、京都でのNo1の観光スポットである清水寺を散策しながら行くのがおすすめです!

また少し北側には八坂神社や円山公園、建仁寺がありますので、こちらと合わせての散策もおすすめです。

六波羅蜜寺の歴史

 六波羅蜜寺は平安時代の天暦5年(951)に空也上人が、自身で造ったとされる十一面観音像をまつる道場(西光寺)をこの地に建立したのがはじまりです。

 

この地はもともと「六道の辻」と呼ばれていました。「六道」とはつまりこの世とあの世のはざまです。この世とあの世の境目にあるような荒れ果てた地域だったのでしょう。

 

空也上人はこの十一面観音像を手押し車に載せて京都市内くまなく、念仏を唱えながら歩いて回りました。そして当時都で蔓延していた病気で苦しむ多くの人を救ったのです。このため空也は別名、市聖(いちのひじり)とも呼ばれています。

 

また空也上人は踊念仏(おどりねんぶつ)を始めた人物といわれますが、これは空也上人が街の辻(交差点)などで集まった人々とともに念仏を唱え、それが人々の喜びとなって念仏(南無阿弥陀仏)を唱えながらみんなで踊った姿からそう呼ばれるようになりました。

 

空也上人の死後、この西光寺は比叡山の僧中信により中興され、天台宗に属し「六波羅蜜寺」と名前も変わりましたが、豊臣秀吉の時代(桃山時代)になってから、同じ東山区にある真言宗の総本山「智積院」(ちしゃくいん)の末寺となり、真言宗の寺となりました。

 

また江戸時代まで大きな伽藍を有する寺でしたが、明治維新以降になり、寺の敷地が縮小され、本堂、弁財天堂、宝物収蔵庫のみが残されています。

 

ちなみに寺の名前に使われている「蜜寺」の「みつ」は密教の「みつ」ではなく蜂蜜の「みつ」ですのでお間違いなく。お経でいう「波羅蜜」(はらみつ)、「波羅蜜多」(はらみだ、はらみっだ)から来ているといわれています。

 

六波羅蜜寺の「六波羅」はあまり聞きなれないと思います。六波羅とは菩薩が涅槃(ねはん)に渡るために納める6つの徳のことを指します。

 

 平安時代には、この六波羅付近は平家一門の屋敷が並んでいた当時の中心地でした。

 

もともとは伊勢(三重県)が拠点だった平家ですが、平家の隆盛とともに中央の政権にも食い込むようになり、次第に京都に滞在することが増えたことから、平清盛が京都のこの地区に屋敷を構え、六波羅入道、六波羅さんなどと呼ばれたことで京都でもよく知られるようになりました。現在は六波羅から“六原”とも記されたりしています。六波羅蜜寺は平家ゆかりの寺ともいえます。

 

出典:東京国立博物館 平治物語絵巻 六波羅行幸巻

本堂は室町時代の建設で、朱色が鮮やかに目立つのもお寺の特徴となっています。

またお寺の「開運推命」というおみくじがよく当たると評判になっています。

生年月日と男女別でおみくじ内容が判別されますが、将来運(大運)、本年運などが細かく手書きされ人気です。毎年節分の日に新しいおみくじに変わるのでその日は数百人の行列ができるほどです。

六波羅蜜寺の仏像について

 

六波羅蜜寺の仏像はおもに本堂と、本堂のすぐ後ろにある宝物館で拝観することができます。有名な空也上人は宝物館にまつられています。

 

それではまず、本堂の仏像からご紹介していきます。

本堂

 

六波羅蜜寺本尊 十一面観音立像(国宝)

 

寺の本堂は参拝者が入れる外陣(げじん)と仏様を安置している内陣(ないじん)に分かれています。本堂の内陣には3つの厨子が並んでいて中央の厨子には空也上人が残したと寺伝の残る木造十一面観音像(平安時代、10世紀頃)が祀られます。空也上人はこの十一面観音と合わせて六尺の梵天、帝釈天、四天王像とともに作ったと言われています。しかし今日残るのはこの十一面観音だけです。十一面観音は本堂の本尊であり、国宝に指定されています。平安時代中期ころの作と考えられていて像高は高さが258cmもある大きな像で、ヒノキの一木造りです。

参考:【国宝仏像データベース】国宝指定の仏像一覧

出典:日本の仏像

残念ながら、この像は内陣中央の厨子の中に納められており、

12年に1度辰年にしか開帳されません。

平安時代を代表するすばらしい像ですので、ご開帳の年(辰年)には是非お会いしておきたい像です。ただし開帳の時も一般の参拝客は外陣からの拝観になるので、単眼鏡や双眼鏡をお持ちになるとよく姿が見れると思います。

宝物館

 

 本堂からつづくろうかを進んで本堂の裏側の宝物館に行ってみましょう。宝物館には平安・鎌倉時代を代表する仏像が多く保管されています。その中でも、なんといっても空也上人立像(重要文化財)が有名です。

 

ほかにも六波羅蜜寺とゆかりのある人物の彫像をたくさん安置していて、平安時代から鎌倉時代の木像は重要文化財にしているものも多く、大変素晴らしい仏像を一度に拝観することができます。

 

仏像界の黄金期を築いた運慶や湛慶などの慶派の一派の仏像も多くあるので、狭いからすぐに拝観できるだろうと思わず、じっくり拝観できる時間を確保しておきましょう。

 

六波羅蜜寺といえば空也上人像

 

六波羅蜜寺空也上人

 

教科書などでもよく紹介されているので、写真は多くの方がどこかで、一度は目にしているのではないかと思います。この空也上人像は鎌倉時代の前半に康勝という人が作りました。像の高さは117センチメートルです。

 

六波羅蜜寺空也上人

 

空也上人が京の市内を、わらじをはき、鹿の角の杖を突いて、首から下げた鉦(かね)を鳴らして、念仏を唱えながら歩いた姿を現した像です。空也が持っている鹿の杖はもともと空也が貴船山にこもっていた時に可愛がっていた鹿が殺されてしまい、その鹿を空也が哀れんで自分自身の杖に付けたものだそうです。

 

この像のもっともユニークなポイントとして、この空也上人像の口元から6体の仏像が飛び出しています。これは空也上人が「南無阿弥陀仏」を唱えるとその一つ一つの言葉、つまり南・無・阿・弥・陀・仏が阿弥陀仏になったという伝説を彫刻化しています。空也上人の口からは尊い阿弥陀様が飛び出しているようだったのでしょう。この口から飛び出している阿弥陀仏は本体とは針金でつながっています。

 

市聖(いちのひじり)とよばれた空也とは

 

空也は903年に生まれ、一説には醍醐天皇の皇子とも言われており21歳で尾張国分寺で出家をして日本国中を巡った後に36歳で京都に来ました。

 

空也上人は道の辻(交差点)などで人々を集めたり、病気の人たちのところに行って、いつも「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えて困っている多くの人々を救っていました。また空也上人は京都市内ばかりではなく、全国を行脚して回っており、各地で道路や井戸、橋などを作り、たくさんの社会事業もしています。会津の八葉寺(はちようじ)は空也上人の建てた寺といわれています。そしてそれらの功績から空也は市聖(いちのひじり)と呼ばれるようになりました。

 

なぜこのように市聖(いちのひじり)と空也が呼ばれるようになったのか。

 

 当時の仏教は、一部の高貴な身分層の人々による文化という側面がありました。お寺のお坊さんもある意味、貴族に対して布教をすることが多かったようです。空也は貴族だけでなく市中に出て、貴族、庶民の分けへだてなく、一般の人々を対象にも念仏を唱え教えを広めた、いわば庶民の味方であったため、「市民のための聖者」として市聖と呼ばれ、多くの人々の心に寄り添いました。

 

 実際にこの仏像は空也がなくなった250年後に作られたと考えられています。みなさんに考えていただきたいのですが、現代の人が250年前に亡くなった人の像を、わざわざ高いお金をかけて作りたいと思うでしょうか?

 

 これを作った時代の人々は空也を見たことがないにもかかわらず、このお像がつくられたこと、このようなユニークな表現で残されたということは、空也という存在が、人という存在を超越して、人々から慕われた空也の功績が後世にまで残り、その伝説や存在を具現化し広めていきたい、残していきたいという人々の思いが、後世にまで残っていたという証拠なのではないでしょうか。

 

運慶の四男:慶派仏師 康勝とは

 

空也の仏像の体内には墨で書かれた文字で、仏師・康勝が作者であると示されていました。この康勝という人物は鎌倉時代の有名な仏師・運慶の四男にあたると考えられています。

 

鎌倉時代の前期に活躍し父親である運慶や兄の湛慶など京都東寺の仁王像や奈良興福寺北円堂の仏像などの仏像制作に携わったことが知られています。個人の作例としては

法隆寺金堂西の間 阿弥陀三尊像(両脇侍のうち勢至菩薩像は明治時代初期に寺から流出して、パリのギメ東洋美術館の所蔵)や、東寺御影堂 弘法大師坐像(国宝)天福元年(1233年)があって、いずれも高い技術力が確認できます。

 

康勝作 法隆寺金堂西の間 阿弥陀三尊像
康勝作 東寺御影堂 弘法大師坐像(国宝)

 

 

木造僧形坐像(伝・平清盛像)

 

平清盛の坐像も有名です。お像の高さは82.7センチメートルあり手に経巻を持って平家一門の武運を祈願する清盛の姿が描かれていて、一般に知られた清盛の武将としての姿ではなく、仏に仕える者という姿が特に印象に残る像です。手元の巻物からそらした視線や微妙な指の動き、自然な目線の表現などが特徴的です。

 

さらに宝物館には、定朝(じょうちょう)・運慶(うんけい)作の地蔵菩薩像や、運慶像・湛慶(たんけい)像など慶派の仏師の像(重要文化財)がまとまって祀られているのも見所の一つです。

 

地蔵菩薩立像

 

一見すると普通のお地蔵様ですが、左手をよく見てください。なんと髪の毛を持っています。
「今昔物語集」に但馬(現在の兵庫北部)の前の国司、源国挙(くにたか)が地獄でお地蔵様に助けられてその感謝のために定朝に作らせたという逸話が残っています。

 

この地蔵菩薩がなぜ髪の毛をもっているかについてこんな説話があります。

 

京都・東山の山奥に父、お母さん、娘の親子が3人、つつましく暮らしていた。

 

ところがある日、お父さんが不在の時におお母さんさんが亡くなってしまう。

「おかあさん、おかあさん、私、これからどうしたらいいの」

悲しみにくれる娘。

 

どう弔ったらいいのかもわからず、

お母さんの遺骸を前に、ただただ涙を流すのみ。

 

と、そこへどこからともなく、一人のお坊さんが現れる。

 

娘がお坊さんに事情を話すと、彼が万事を取り計らい、

お母さんをねんごろに弔ってくれた。娘は何かお礼を、と思ったが渡す物が何もない。

 

そこで娘は、お母さんが髪を売っていたのを思い出し、自分の髪を切ってお坊さんに渡した。

「お坊さま、ありがとうございました。また改めてお礼に伺います。おつとめはどちらのお寺ですか?」

 

「六波羅蜜寺だ」

お坊さんはそう言い残して去っていく。

 

次の日、娘は六波羅蜜寺を訪ねて例のお坊さんを探すが、なぜか見つからない。

おかしいなあ、自分の聞き違いだったんだろうか……。

 

そう思い始めていた娘、境内の地蔵堂に寄って驚いた。

 

何と、お坊さんに渡したはずの髪束を地蔵堂のお地蔵さまが持っている!

 

「変やなあ。昨日までは何も持っていなかったのに!」

お寺の人も首をかしげるばかり。

 

「ああ、あのお坊さまは、私が困っているのを見て助けにきてくれたお地蔵さまだったんだ。

お地蔵さま、ありがとうございました。お母さんさんのこと、よろしくお願いします。」

 

とこんな感じです。

 

 地蔵菩薩立像は優しい顔立ち、整った姿、衣には切金模様が施してあって繊細な表現を確認することができます。そのため、このお地蔵様の仏像がそれにあたるとの密接も残っています。その他にも僧侶となって信者の死んだ老母を背負って山へ送って、棺の中から鬘(かつら)を手にした姿で現れた「山送り地蔵」「鬘掛(かつらかけ)地蔵」としても信仰されています。

 

木造地蔵菩薩坐像(運慶作)

 

実はこの像、有名な仏師・運慶の作である可能性が高まってきているお地蔵さまです。

元々は六波羅蜜寺のお寺の中にあった十輪院本尊として後述の運慶像・湛慶像と一緒に安置されてたとかんがえられる地蔵菩薩。仏像の高さは89.7センチメートルです。

出典:日本の仏像

六波羅蜜寺の資料には、運慶が夢に見た地蔵菩薩の像を湛慶と共に造立して安置した、という記録が残っていて、その資料に登場する地蔵菩薩がこの地蔵菩薩坐像であると考えられています。

全体的には静かな雰囲気ですが、内面からはつらつさがにじみ出てくるようで、張りのある引き締まった身体と厳しい目鼻立ちに気迫がこもっている表情が見事でイケメンなお地蔵さまです。盛り上がった両膝を大きく開いて座る姿は堂々とした安定感があって、運慶に極めて近い作風と考えられています。

 

木造伝・運慶坐像

 

かつて六波羅蜜寺の寺内にあった十輪院で、上でご紹介をしました地蔵菩薩坐像の両脇に湛慶像と共に安置されていたという伝・運慶像です。歳をとっている姿でありながらその眼力は力強くまっすぐに何かを見つめていて、鎌倉時代の最高の仏師とされる運慶の威厳が伝わってくる、まさに職人という様な像です。像高は77センチメートルほどです。

 

伝・湛慶坐像

 

上の運慶像と同じく十輪院の菩薩の脇に祀られたといういわれがある運慶の長男である湛慶の像です。運慶の子であるためか運慶像に比べると若々しい姿をしています。

湛慶は六波羅蜜寺の南方にある三十三間堂の本尊千手観音坐像や、千手観音立像の一部を残しています。詳しくは三十三間堂の紹介記事に詳しく掲載しておりますので、そちらも合わせてご確認ください。

 

ここでご紹介した仏像以外にも六波羅蜜寺の宝物館には閻魔王や鬼の様な姿をしている奪衣婆像、三日月形の伏せた目とスキー帽の様な独特の頭髪を持った天台系の薬師如来像などなど、数々の仏像がこの宝物館に安置されています。ぜひ現地に行って、ご自身の目で確かめてみてください!

 

まとめ

 

仏像を知らない人でもなんとなく知っているという空也上人。

 

空也上人を知っていくと、空也という人が人々のために尽力した姿、そしてその空也を慕っていた人々の関係や想いを知ることができます。

六波羅蜜寺は京都のお寺としては比較的小さなお寺ですが小さなお寺の中に貴重で素晴らしい仏像がぎっしりと収められています。(なかでも仏師運慶の姿が残されているのはレアです)

また12年に1度しかお会いすることができませんが、国宝の十一面観音がいらっしゃるというところも、よく覚えておくといいと思います。(国宝の仏像の多くは公開され拝観できる機会があるのですが、国宝仏巡りをされている人のなかで六波羅蜜寺は難所です(笑))

 

京都観光の際に立ち寄っていただき、空也さんの心の叫びを実際に目にしてみてください!

六波羅蜜寺の拝観料金、時間、宗派、電話など

正式名称

補陀洛山 普門院 六波羅蜜寺

宗派

真言宗智山派

住所

〒605-0813 京都府京都市東山区轆轤町81-1

電話

075-561-6980

拝観時間

▼拝観時間(通常)
8:00~17:00

▼宝物館
8:30~17:00
(受付終了16:30)

拝観料金

▼宝物館拝観料
大人 600円
大/高/中学生 500円
小学生 400円

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地図

六波羅蜜寺をもっと詳しく知りたい方は…

 

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