井原市を走る国道313号線を進み、旧街道を進んでいくと古い民家が立ち並ぶ、昭和の町並みの集落が現れた。その集落から経ヶ丸の山に向かって伸びる山道を、右へ左へとくねくねカーブしながら登っていく。
途中登山客ではなく、下の集落の方々だろうか散歩をしている様子の町民がすれ違う。おそらく毎日この山に登り体のメンテナンスをしているんだろう。
山を登り始めて10分ぐらい登っていくと目的であった高山寺の山門が現れた。

ご住職とのアポイントメントは本来はお寺での法事があったため、法事の最中にひっそりと1人で拝観させていただく予定であったが、たまたま訪問する時間が早まったことで、ご住職も一緒になって迎えてくだされると言うことを喜んでいらっしゃったのが、それを聞いた私もとてもうれしかった。
高山寺は聖武天皇731年に行基菩薩によってお寺が建立され、もともとは七堂伽藍を備えて塔頭も6坊存在したと言うが、現在は本坊の高山寺のみが存在している。この高山寺がある経ヶ丸と言う名前は高山寺ができる際に行基菩薩が“華厳経を山の地面の中に埋めた”と言う事から名付けられている。現在はグリーンパークやオートキャンプ場なども建設される市民にとっての人気の観光地となっている。高山寺はもともとは天台宗に属していたそうだが空海が中国から戻ると真言宗に宗派を変更して、それ以降は修行の地としてたくさんの修行僧たちがこの地で修行に励んだそうだ。
住職の案内のもと2012年に新しく建設された宝物館の中でこの高山寺に伝わる仏像と対面した。
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特に感銘を受けたのは国の重要文化財に指定されている地蔵菩薩立像だ。この地蔵菩薩の特徴はなんといっても桜を使った一木作りである。像高150センチで元は大阪の星田村の愛染律院に伝わったものを明治5年に大乗法祥和尚の力によってこの高山寺にもたらされた仏像である。

昭和29年の解体修理の時に背中に上下2段に分けて内刳を入れて蓋板をしているのが分かり、それを開けてみるとその中からは米、麦、黍などの穀物と、麻、木片、紙片もでてきたそうだ。
それだけでなく長文の墨書が発見されたのだが、この墨書には1707年10月4日に近畿、中国、四国地方に大地震が起きた災害記録とさらに同じ年の11月に富士山が宝永大噴火を起こしたという記録が現れている。つまりこれは関西方面で大地震が発生しそれに伴って地殻変動が起き、富士山が大噴火を起こしたと言う災害記録がこの地蔵菩薩に残っていた。

この大地震は現在の調査ではマグニチュード8.6-9.0にもおよぶ地震であったとされ、その49日後に富士山が大噴火を起こした。なぜ地蔵菩薩の体の中にこれらの記録が残り、それが何を示すかは我々の想像に過ぎないけれど、多数の死者が出たことに対する鎮魂の意味と食物や衣類また住居を表す品々は人々の生活の安定をこの地蔵菩薩に託したのではないかと考えられるのではないだろうか。もしこの宝永大地震と宝永の大噴火が現代で起こってしまったとしたら、ただごとでは当然済まされないだろう。

しなやかに流れる衣紋の見事な表現と地蔵菩薩の民衆を救おうとする生真面目な信念を形に表した仏像であると感じた。

本堂の右側には鎌倉時代の不動明王がどっしりと構えて座っていたこちらの仏像はヒノキ寄木作りで像高は82.7センチ。こちらの不動明王像も先程の地蔵菩薩と同じくもともとはこの高山寺にあったわけではなく、現在の京都府八幡市の禅法寺の所蔵であったものを当時の和尚がこの地に移して大事にされてきたものである。全体のバランスが素晴らしく表情もみなぎる力をありありと見せつけ、不動明王の怒りの力を存分に誇示していた。

他にも、県指定文化財のヒノキの1木造りの十一面観音や井原市の指定となった56cm珍しい宝冠阿弥陀の姿をした阿弥陀如来坐像も所蔵されていた。

最後にご住職が「文化財になってしまうとなかなか叩かせてくれないけれども、うちの梵鐘は県指定だけど叩いてオーケーなんですよ!」と笑顔で教えてくれた。わたしは梵鐘の鐘の音を経ヶ丸の山々に響かせつつ、山を降りていった。