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【はじめての仏教:浄土真宗とは】ありのままでフリーダム!親鸞の自由な教え

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 浄土真宗(じょうどしんしゅう)って知っていますか?今回紹介するのは浄土真宗。日本にあるたくさんの宗派である仏教13宗派のなかで、信者の数がいちばん多いのが浄土真宗なんですよ。

宗派って何?って人も多いと思うのですが、例えば「ラーメン」をひとつとっても「醤油派」「塩派」「味噌派」などさまざまな味わいがありますよね。みんな美味しい究極のラーメンを作るぞ~!と思っていますが、その味付けはさまざまです。自分もラーメンが大好きなのですが、どの味付けもいろいろあってつい迷ってしまいます!あ…ごめんなさい!今回はラーメンの話ではなく浄土真宗のおはなし(笑)

 浄土真宗の歴史をさかのぼると戦国時代ではたくさんの浄土真宗の信者が武装して権力者に反抗しました。これを一向一揆といいます。武装した浄土真宗の信者たちは大変手ごわくて、戦国武将たちをとても困らせていたそうです。上杉謙信、織田信長、徳川家康という大物たちも一向一揆には悩まされてたんですって。戦国大名クラスの強さだったんですね。

そんな一大勢力になった浄土真宗がどのような成り立ちでどんな宗派なのか。

まず、基本情報から見ていきましょうか。

 

浄土真宗とはどんな宗教?

 浄土真宗の宗祖は親鸞(しんらん)です。“親鸞”を漢字で書ける人、なかなかいないのでは!親鸞は浄土宗の宗祖・法然の弟子です。もともと浄土宗を学んでいた親鸞が、浄土真宗を始めました。基本情報をまとめますね。

 

  • 宗祖は親鸞(しんらん)
  • はじまり(開宗の年):親鸞が浄土真宗の教義「顕浄土真実教行証文類」を完成させた1224年が浄土真宗の開宗の年とされています。ただ、親鸞が生きている間は、浄土真宗という呼び名はありませんでした。1321年、親鸞のひ孫・覚如(かくにょ)が本願寺を建てて浄土真宗が本格的に始まります。
  • 教えの特徴:念仏「南無阿弥陀仏」を唱えれば救われる。念仏を基本にしているのは浄土宗と同じですね。違うのは、善人だけでなく悪人も救われるという考えです。
  • 本山 : 西本願寺、東本願寺など
  • 本尊: 阿弥陀如来
  • 特徴となるお経: 浄土三部経(『阿弥陀経』『無量寿経』『観無量寿経』)

 

それでは、浄土真宗のはじまりからおさらいしましょう。

 

浄土真宗のはじまり(開宗の年)


浄土真宗は鎌倉時代に親鸞が始めた宗派ですが、親鸞が生きていたときは「浄土真宗」という呼び方しをていませんでした。親鸞とその仲間たち、というグループでしょうか。まず親鸞が浄土真宗の基を作るまでをみてみましょう。

親鸞、法然の弟子になり浄土真宗の基ができる

 

 親鸞は1173年に現在の京都府伏見区の現在国宝の阿弥陀如来がまつられる法界寺の近くに生まれました。

 

親鸞が生まれたころは、災害が多くて、食べるものがなくて飢えて死んでしまう人もたくさんいました。親鸞が7歳の時、養和の大飢饉(1181~82)が発生します。平安京だけで4万人が飢えて死んでしまったそうです。

 

お金持ちではなかった親鸞の父親は、親鸞を仏の道に進ませることにしました。9歳で親鸞は出家して比叡山に行きます。

 

比叡山で20年修行しました。修行をがんばる親鸞。でもいっこうに悟りを開けません。また比叡山の天台宗では、僧たちの権力争いが繰り広げられていて、民衆を救うことに関心がありませんでした。

 

こんな状況にゲンメツした親鸞は29歳で比叡山を去りました。そして聖徳太子が作ったという六角堂(京都)で100日間の修行をします。95日目に聖徳太子の化身とされる観音菩薩があらわれて「京都・東山の吉永にいる法然のもとをたずねなさい」とお告げをもらいます。そして法然に会った親鸞は、法然の念仏を唱えれば救われるという「専修念仏」の考えにすっかり感心。法然の弟子になって修行することになります。

 法然の考えはとてもシンプルで、浄土宗はポピュラーになっていました。

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ところがこれを面白く思わない旧仏教勢力から攻撃が始まります。1205年、興福寺が「専修念仏」を禁止するよう朝廷に申し出て、2年後には専修念仏禁止の命令が発せられました。法然と弟子たちは流罪になります。

 

 

親鸞は僧の身分をとられた上に、越後(現在の新潟県)に流されました。法然、親鸞たち受難の時代ですね。でも、流罪になった後も、親鸞はひるまずに信仰を続けます。やがて朝廷から許しをもらうと常陸(現在の茨城県)で、浄土真宗の教義「顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)」を完成させます。親鸞の教えがなんとか形になりました。この教義ができた1224年4月15日を、のちに浄土真宗の立教開宗の日としています。

 

親鸞、結婚して子供もできる

 親鸞は結婚もしました。親鸞が結婚したのは恵信尼という女性で、6人の子どももできたそうです。ところで、仏教では僧侶は結婚が禁止されているんです。身分をはく奪されたとはいえ、一応、僧侶なのに。親鸞、フリーダムですね。親鸞は自分のことを「愚禿(ぐとく)」と名乗っていました。“おろか(愚)なハゲ(禿)”という意味です。お坊さんだからハゲですよね。ずいぶん自分を落とした呼び方ですが、親鸞のおおらかな態度や考えがよくあらわれています。おおらかな親鸞のまわりにはたくさんの信者が集まりました。ですが、親鸞が生きている間は浄土真宗という確かな呼び名はありませんでした。では、親鸞の死後、浄土真宗が確立されるまでを見ていきましょう。

 

親鸞のひ孫や弟子に引き継がれる親鸞の教え

 親鸞と恵信尼の子どもたちは、それぞれ親鸞の教えを受け継ぎました。そして親鸞のひ孫・覚如(かくにょ)の時代に転機がおとずれます。覚如は親鸞のお墓があった大谷廟堂をお寺にしました。本願寺です。

他にも親鸞の弟子たちが佛光寺、専修寺などを拠点にして教えを広めていきました。ひ孫や弟子たちのおかげで浄土真宗が形になっていきます。本願寺は旧仏教勢力の反対もあってなかなかお寺として認められませんでした。1321年、やっと本願寺という寺号がつけられて浄土真宗の母体として確立しました。親鸞が死んでから約60年後のことです。その後、室町時代、戦国時代と浄土真宗はどんどん広まって、日本最大の宗派になりました。では、浄土真宗の教えってどんなものなんでしょうか?次にまとめていきます。

浄土真宗の教えの特徴

 浄土真宗の教えの特徴は、念仏です。念仏を唱えれば救われるという「専修念仏」の考えを基にしています。これは浄土宗と同じです。また、善人だけではなく、悪人も救われる「悪人正機」という教えもあります。まず「専修念仏」について述べますね。

 

浄土真宗の教え①浄土真宗の専修念仏

専修念仏というのは、念仏を唱えればみんな救われるという仏教の教えです。浄土真宗は浄土宗の流れをくんでいますから、浄土宗と同じく阿弥陀如来を一番大切だと考えています。阿弥陀如来は仏教では最高の位にいる仏様ですね。そして、浄土宗と同じく「南無阿弥陀仏」という念仏を唱えます。ひたすら「南無阿弥陀仏」と唱えることで極楽浄土に行くことができるんです。

次に「悪人正機」について見てみましょう。

浄土真宗の教え②悪人こそが救われるという「悪人正機」

 浄土真宗の教えは「南無阿弥陀仏」という念仏を唱えれば救われるというシンプルなものです。そして善人だけではなく、悪人も救われるんだと説きました。いや、むしろ悪人こそが救われる資格があると考えられていました。ちょっと解釈が難しいんですが、こういうことです。

 善人は念仏を唱えて極楽浄土に行こうと努力する→善人は阿弥陀如来にただひたすらすがる気持ちがうすい、というのです。

対して悪人ははなっから善い行いをしようとすら思わない→その方がかえって阿弥陀如来にすべてをゆだねられる、ということになります。この悪人こそが救われるという考えが「悪人正機」です。いやー、深いですね。

これを「むしろ、悪いことをした方がいいのだ!」というねじれた解釈をする人もいました。親鸞はそうしたねじれた解釈を「造悪無碍(ぞうあくむげ)」と呼び、誤った考えだとしっかり戒めています。

さて、次は親鸞のキャラクターが大いに発揮さた特徴「肉食妻帯」について見てみましょう。

浄土真宗の教え③肉食妻帯

 

 仏教の僧侶は、守らなければならない掟があります。これを戒律(かいりつ)といいます。戒律では、僧侶の「肉食妻帯」は固く禁じられています。出家してお坊さんになったら、肉は食べられないし、女性と交際するのもダメです。もちろん結婚もダメです。でも、親鸞は僧でありながら、結婚して6人の子どもをもうけました。そしておいしいお肉も食べていたそうです。

親鸞は戒律を守ることよりも、人がありのままの姿でいることを大切にしていました。自分がありのままの姿を見せることで、それでも阿弥陀如来は救ってくれるんだと示そうとしたんでしょう。そうそう、浄土真宗では、出家しなくても仏は救ってくれると教えました。ありのままの姿でいい、という親鸞の教え、とても柔軟ですね。さて、次は浄土真宗の本山についてまとめます。

浄土真宗の本山

 浄土真宗は真宗十派という分派にわかれて、それぞれに本山があります。その中でも主流の分派だる二つの本山を上げてみます。一つ目は西本願寺(浄土真宗本願寺派)です。西本願寺は通称で、正式には“本願寺”です。幕末には新選組が拠点にしていました。親しみをこめて「お西さん」とも呼ばれています。

もう一つは東本願寺(真宗大谷派)です。これも通称で、正式には“真宗本廟”です。「お東」「お東さん」とか呼ばれます。東本願寺は火災が多くて、現存しているのはほとんど明治時代に建てられたものです。どちらも京都にあります。西本願寺と東本願寺、二つの本山に属するお寺は浄土真宗系のお寺の8割以上を占めます。さて、次は本尊についてです。

浄土真宗の本尊

 浄土真宗の本尊は阿弥陀如来です。しかも、浄土真宗では、阿弥陀如来の仏像とか絵ではなくて、「南無阿弥陀仏」という念仏そのものを本尊としています。念仏「南無阿弥陀仏」を名号といいます。親鸞は、生涯、この「南無阿弥陀仏」の名号だけを本尊として、弟子たちにもすすめたそうです。

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さて、次は浄土真宗のお経について見てみましょう。

 

浄土真宗の主なお経

 浄土真宗では、浄土三部経を大切にしています。「仏説無量寿経」「仏説観無量寿経」「仏説阿弥陀経」の三つです。親鸞はとくに「仏説無量寿経」を重んじました。「仏説無量寿経」は、浄土真宗でもっとも大切とされている阿弥陀如来の教えを伝えています。その教えでは、極楽浄土に生まれたいと願う人はみんな仏になることが約束されるそうです。「南無阿弥陀仏」の各号を唱えて心から念じれば極楽往生がかなうと。親鸞によると、7,000巻ほどあるお経のなかで、釈迦の本心をといているのは「仏説無量寿経」だけだそうです。親鸞の考えの元になっているんですね

 

 「観無量寿経」は釈迦がビンバシャラ王の妃・韋提希(いだいけ)夫人に向けた説法という形をとっています。釈迦はだれでも仏になることができる、仏が人々を救済に導いてくれると伝えているんです。「仏説阿弥陀経」は阿弥陀如来に関連するお経です。「南無阿弥陀仏」と名号を唱えることが大切と説いています。

 

 浄土真宗の二つの大分派である本願寺派と大谷派では、信者が毎日「浄土三部経」を読むことをすすめています。でも読経がむずかしいなら、仏さまのまえで手を合わせて(合掌)礼拝するだけでもかまわないそうです。

 

さて、その弟子たちによって浄土真宗には分派ができました。次は浄土真宗の主な分派についてまとめます。

 

主な分派

 浄土真宗の大きな分派は二つ、西本願寺の浄土真宗本願寺派と、東本願寺の真宗大谷派です。そして明治時代にあと8つの分派ができました。あわせて真宗十派といいます。この真宗十派をずらっと並べてみましょう。

 

 

①浄土真宗本願寺派 [西本願寺]

本山は本願寺(京都)。最大の分派で、浄土真宗の約半分を占める。

 

②真宗大谷派

本山は真宗本廟(京都)。2番目に大きな分派。

③真宗高田派

本山は専修寺(三重)。もともとは下野(栃木)にあった高田派の本寺が戦さで焼けてしまって、だんだんと伊勢(三重)の専修寺が高田派の拠点となっていった。

 

④真宗佛光寺派

本山は佛光寺(京都)。1300年代後半~1400年代前半の最盛期は、本願寺派よりも勢力が大きかった。重要文化財の聖徳太子像などがある。

 

⑤真宗興正(こうしょう)派

本山は興正寺(京都)。西本願寺のすぐ南にある。

 

⑥真宗木辺(きべ)派

本山は錦織寺(きんしょくじ 滋賀)。もともと錦織寺派といっていたが、明治時代に木辺派に改めた。

 

⑦真宗出雲路(いずもじ)派

本山は毫摂寺(ごうしょうじ 福井)。もともとは京都にあった毫摂寺が福井に移転。

 

⑧真宗誠照寺派

本山は誠照寺派(福井)。

 

⑨真宗三門徒派

本山は専照寺(福井)。

 

⑩真宗山元派

本山は證誠寺(福井)。

8~10の誠照寺派、三門徒派、山元派は、もともと一つだったが、鎌倉時代に分裂しました。この三派は如道が開祖です。越前(現在の福井)出身だった如道が、鎌倉時代後期に越前の車屋道場というところを拠点にして浄土真宗を広めました。そのおかげで福井に浄土真宗が広まったんです。

次はこの真宗十派のなかでも特に規模の大きい「浄土真宗本願寺派と真宗大谷派」についてクローズアップしていきたいと思います。

浄土真宗本願寺派と真宗大谷派

浄土真宗本願寺派

 

本山は西本願寺(京都)。最大の分派で、浄土真宗の約半分を占めます。本願寺は、親鸞のお墓があった「大谷廟堂」をお寺にしてできました。親しみをこめて「お西さん」と呼ばれています。本願寺のトップは門主(もんしゅ)。親鸞の末娘の孫(親鸞のひ孫)である覚如が本願寺のもとをつくって、覚如の子孫である大谷家が代々継いでいます。基本情報をまとめますね。

 

本願寺派の基本情報

  • 本山:本願寺(通称「西本願寺」)。「お西さん」とも呼ばれている
  • 発祥:親鸞のひまご・覚如によって1272年にはじまる
  • トップ:門主 大谷家が代々継いでいる
  • お経:「正信念仏偈」、三帖和讃(「浄土和讃」「高僧和讃」「正像末和讃」)
  • 葬儀:「お葬式は阿弥陀如来に感謝を表す」儀式。受戒、引導ナシ。

 

では、次に本願寺派のはじまりから現在について述べていきます。

浄土真宗本願寺派のはじまりから現在

室町時代の中ごろ、浄土真宗は各地に広がります。そのかわり、旧仏教勢力との争いもはげしくなりました。1465年には、比叡山の襲撃で本願寺は壊されます。

 

 

本願寺は、現在の福井県や大阪府に拠点を移しながら活動しました。努力のかいあって、8代目・蓮如~11代目の顕如の時代には、本願寺派は最大にして最強の分派だったようです。織田信長の時代に日本にいた、イエズス会のフロイスが「財力、権力、身分において、つねに他の僧侶たちにくらべ最高」と語っているほどです。

 

本願寺派はそんな強くなった浄土真宗の中心です。そのころ、本願寺派には旧仏教勢力以外にも敵がいました。戦国大名たちです。当時の本願寺派は大阪石山御坊に拠点をおいていて織田信長と10年におよぶ「石山戦争」を繰り広げました。浄土真宗の信徒たちは一向一揆といって、戦国大名に反抗して、大いに大名たちを悩ませていました。

 

 

顕如ひきいる一向一揆は、織田信長にとって最大級の敵だったんです。織田信長は一向一揆をなんとか制圧しますが、ご存じのように、信長は暗殺されます。顕如はのちに豊臣秀吉から土地をもらって京都に本願寺を移しました。それが現在の本願寺「お西さん」です。本願寺派はそのあとの、江戸、明治、大正、昭和とどんどん布教をひろめていきました。

 

現在、本願寺派は日本全国を5つの大きな地区にわけて32の教務所をおいて布教活動をしています。有名な築地本願寺は本願寺派の別院として江戸時代に建てられたものです。

1932年に関東大震災で消失して、現在のようなオリエンタルなお寺に生まれかわりました。アメリカ、ハワイ、カナダ、メキシコ、台湾、ネパール、オーストラリア、そしてヨーロッパ各地にも活動拠点が作られています。

 

 

浄土真宗本願寺派のお経

浄土真宗では、親鸞が90年の生涯で作った「顕浄土真実教行証文類」(いわゆる「教行信証」全6巻)の第2巻に掲載されている「正信偈(しょうしんねんぶつげ)」が使われます。一般には「正信偈(しょうしんげ)」がと略されます。「正信偈」は浄土真宗のことを60行120句でまとめています。そして分派によって読むときのメロディーが違っています。本願寺派では、「真譜」「行譜」「草譜」の3種類を使います。日常では「草譜」が使われています。また、親鸞が書いた三帖和讃(「浄土和讃」「高僧和讃」「正像末和讃」)も朝夕のお勤めに使われます。

 

真宗大谷派

 

本山は真宗本廟(京都)。浄土真宗では2番目に大きな分派です。こちらも基本情報をまとめます。

 

大谷派の基本情報

  • 本山:真宗本廟(通称「東本願寺」)。「お東」「お東さん」とも呼ばれている。
  • 発祥: 1602年、11代本願寺派門主・顕如の跡継ぎだった教如によってはじまる。
  • トップ:門首
  • お経:「正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)」
  • 葬式の特徴:引導、受戒の儀式がない。死に装束、清めの塩もナシ

それでは、大谷派についても、はじまりから現在までを述べますね。

大谷派のはじまりから現在

 大谷派の本山は真宗本廟です。真宗本廟は正式名称で、通称の東本願寺の方が有名ですね。西本願寺にたいして「お東」「お東さん」と親しみを込めて呼ばれたりします。東本願寺からはちょっとはなれたところに、大谷祖廟があります。大谷祖廟は、東本願寺からちょっと離れていますが同じ境内の中(飛び地境内)という扱いで、親鸞の御影像(みえぞう)がまつられていています。

大谷祖廟には1295年の鎌倉時代に、親鸞の末娘・覚信尼が親鸞の弟子たちとともに御影像を安置しました。東本願寺は京都駅からあるいて5分ちょっとのところにあります。

 大谷派がうまれるきっかけは、浄土真宗が織田信長と対立した石山戦争までさかのぼります。10年間、大阪の石山本願寺を拠点に織田信長と戦った顕如ですが、1580年に大阪を退去するという誓紙を信長に届けて休戦しました。

 

 

そして、顕如は石山本願寺を去って紀伊(三重県)に行きます。顕如の跡取りだった教如は、顕如の判断に不満をもっていました。教如は他の側近とともに、石山に残って信長に抵抗するべきだと主張していたのです。顕如が石山を去ったあとも教如は石山で抵抗。石山本願寺はたいまつの火が原因で消失したのですが、教如が火をつけたのではと信長側は疑いました。

いざこざをかかえたまま教如は石山本願寺跡を去りました。結局、信長は本願寺で暗殺されて、秀吉のはからいで顕如たちは京都に西本願寺を建てました。そのうち顕如は死んでしまって教如が後を継ぎます。しかし、石山でのいざこざから教如はすぐ隠居させられて、弟の准如が跡をつぎました。

 

1602年、隠居させられた教如は徳川家康のはからいで京都に東本願寺をたてました。これが真宗大谷派のはじまりです。本願寺派は教如の大谷派と准如の本願寺派に分かれてしまったんですね。

 

 大谷派は1960年代にさらに4つに分かれて現在にいたります。日本国内を30の教区にわけて、教務所をおいています。また、ロサンゼルス、ハワイ、南米にも別院があります。

真宗大谷派のお経

大谷派でも「正信偈(しょうしんげ)」が使われます。大谷派では「句淘」(くゆり)・「句切」(くぎり)・「真四句目下」(しんしくめさげ)・「行四句目下(ぎょうしくめさげ)・「草四句目下」(そうしくめさげ)・「墨譜」(ぼくふ)・「中拍子」(ちゅうびょうし)・「真読」(しんどく)・「舌々」(ぜぜ)の9種類のメロディーを使い分けています。もっともよく使われるのは「草四句目下」です。

 

浄土真宗の葬儀

浄土真宗では、亡くなった人はすぐに阿弥陀如来によって極楽浄土に導かれて仏になれると考えられています。そのため、葬儀では成仏を祈ったり、極楽浄土に行くための準備をする必要はありません。あらゆる人は死ねば仏さまになれる=極楽浄土に行けるので、葬儀は死んだ人との別れの式=告別式ではありません。こういうシンプルな考えなので、お浄めの塩、死に装束といったアイテムも登場しません。遺体を自宅に連れ帰った場合は、仏壇の前に寝かせます。遺体の前には飾りをおきません。枕飾り、水、お仏飯、枕団子も必要ありません。亡くなった人にふさわしい服、好きな衣装などを着せて棺に納めて見送ります。

 葬儀では友引を避けるのが一般的です。友引に葬儀をすると、「友人をあの世へ引っ張ってしまう」という考えがあるからです。しかし浄土真宗ではこういう迷信はナシとされているので、友引に葬儀をしてもOKです。次は戒名について見てみましょう。

 

 

真宗大谷派のお葬式

真宗大谷派では、死者は亡くなった時点で成仏していると考えて、死者を供養し成仏することを願う引導や受戒の儀式はありません。白い装束、たび、つえ、わらじ、六文銭という、亡くなった人が無事に極楽浄土へ行けるようにする死に装束も用意しません。すでに極楽浄土に成仏していると考えられているからです。家族が白衣を着せたり、亡くなった人が好きだった着物や衣装を着せます。また、死=ケガレではないので、清めの塩も使いません。大谷派では戒名を法名とよんで、もらった法名は過去帳に記して仏壇にそなえます。法名は死んだあとに授かる場合もありますが、本来、生きている間にもらうものです。葬儀では仏壇に位牌をおきません。

浄土真宗本願寺派のお葬式

 本願寺派では、亡くなった人はすぐに仏さまになれると考えられています。ですので、お葬式は亡くなった人の供養のためではなく「阿弥陀如来に感謝を表すために」行われます。死者は極楽浄土に行けるので、死に装束を着せることもありません。また、死はケガレではないのでお清めの塩もありません。また、すべての人は死後に仏さまになって再会できるので、お別れを告げる儀式=告別式という言葉も使いません。本願寺派では、亡くなった人のもとで本人が阿弥陀如来にたいして行う最後の務め・臨終勤行を僧侶がかわりに行います。浄土真宗では戒名を法名と言います。法名は普通は生前もらいますが、もらっていなかったら通夜か、臨終勤行の時か、出棺までに法名をもらいます。繰り返しますが、本願寺派では死んだ人はすぐ仏さまになって極楽浄土に行く「臨終即往生」という考えがあります。ですから、他の宗派のように受戒や引導といった儀式はありません。全体的にお葬式はシンプルです。

 

浄土真宗の戒名

 浄土真宗では阿弥陀如来の力のことを「法」と呼びます。そして戒名のことを「法名」と言います。亡くなった人が阿弥陀如来から頂く名前が「法名」だからです。浄土真宗は「南無阿弥陀仏」と唱えればだれでも救われると説いています。善人だけではなく、悪人でも救われると。浄土宗よりもさらにシンプルでおおらかな教えなんです。「戒」というのは「いましめる」「さとる」とか、修行を意味する字なので、浄土真宗では避けているんですね。

 

 また、浄土真宗では「釋(しゃく)」という字を、法名の前に付けます。「釋〇〇」「釋尼〇〇」という感じです。「釋」はお釈迦様の弟子という意味があって、法名につけるとお釈迦様の弟子になった証になるんです。あと、法名は亡くなってからではなく、本来は生きている間にもらうものです。浄土真宗の「帰敬式(ききょうしき)」で、僧侶から法名をもらいます。お釈迦様の弟子になって、阿弥陀如来の教えを守って生きることを誓うのが帰敬式です。次は仏壇についてです。

浄土真宗の仏壇

 浄土真宗では金仏壇が多いです。今はシンプルな仏壇が好まれるので少なくなったようですが、一昔前の浄土真宗だと金仏壇でした。仏壇は阿弥陀如来のいる極楽浄土を表しています。ですから、阿弥陀如来がいる極楽浄土はピカピカと光輝いているんだよ、と示すために金色になったんです。それに金は古来から格式が高く、厳かなイメージもあったので仏壇にはピッタリだったんです。成金のハデな“金”とは違うんですね。ちなみに浄土真宗の二大分派では金仏壇に少し違いがあります。本願寺派ではほとんど金色ですが、大谷派では柱が黒くなります。

 浄土真宗のご本尊は阿弥陀如来なので、仏壇の真ん中には阿弥陀如来をまつります。阿弥陀如来は仏像でも絵でもかまいません。絵の場合、後光が8本(大谷派は6本)さしているものを選びます。本願寺派では、阿弥陀如来が真ん中で、向かって右は親鸞聖人、左は蓮如上人をおきます。大谷派だと向かって右は「歸命盡十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい:十字名號)」、左は「南無不可思議光如来(なむふかしぎこうにょらい:九字名號)」をおきます。

 あと、位牌ですが、浄土真宗では位牌はまつらないんです。亡くなった人は仏さまに導かれて極楽浄土に行くので位牌に魂がやどって供養するという考えがないんですね。でも位牌のかわりに亡くなった人のかわりが欲しいという人もいますよね。その場合は、過去帳や法名軸を使います。法名を過去帳に写して仏壇にまつります。

 

浄土真宗の系列の大学はある?

 

浄土真宗の主な二分派ごとに大学があります。西本願寺系だと、龍谷大学、京都女子大学、相愛大学です。そして東本願寺系だと大谷大学、大阪大谷大学、京都光華女子大学です。浄土真宗系の大学は関西に多いのですが、西本願寺系の武蔵野大学は東京にあります。

次は、浄土真宗の寺院数についてです。

 

浄土真宗の寺院数

 浄土真宗のお寺は、10,315寺あります。日本の仏教宗派のなかでは最も多いんです。京都には西本願寺、東本願寺がありますよね。東京には本願寺派として築地本願寺が建てられました。現在の築地本願寺は関東大震災による焼失を経て、1935年に再建されたものです。築地本願寺派インド発祥の仏教をイメージしたオリエンタルな外観をしています。ステンドグラスも使われてるんですよ。いわゆるお寺の西本願寺、東本願寺ももちろん大きくて見ごたえがありますし、オリエンタルな築地本願寺も見てみたくなりますね。さて、次は浄土真宗の信徒数についてです。

浄土真宗の信徒数

 浄土真宗の信徒数は約694万人です。信徒数も日本の仏教宗派のなかでは最大です。浄土宗は約602万人ですから、信徒数でいうと親鸞はお師匠の法然を超えましたね。浄土宗と同じで、念仏を唱えるだけという教えが分かりやすいのと、あと悪人であっても救われるというふところの深いところが民衆の心をつかんだんでしょうか。

 

まとめ

 浄土真宗について見てきました。まとめると次のようになります。

  • 浄土真宗は親鸞が始めて、親鸞の子孫や弟子によって確立した。のちに真宗十派という分派にわかれた。
  • 親鸞は僧であるのに結婚して子どもを6人もうけた。肉食もした。
  • 浄土真宗の教えは、親鸞が浄土宗の宗祖・法然の弟子だったことから、「南無阿弥陀仏」を唱えて極楽浄土を願う「専修念仏」。浄土宗と違うのは、悪人でも救われるとしたことと、肉食妻帯を許したこと。
  • 浄土真宗の本尊は阿弥陀如来。分派ごとに本山があって、有名なのは西本願寺東本願寺。あと、三重に一分派、滋賀に一分派、福井にも四分派があり、それぞれ本山がある。
  • 浄土真宗は寺院数、信徒数で、仏教13宗派中トップ。

 僧侶ながら結婚して子どももいた親鸞。僧が結婚することを許可されていたのは明治時代まで浄土真宗だけだったそうです。ありのままの姿をよしとした浄土真宗。おおらかでフリーダムな浄土真宗だからこそ、日本で最大の仏教宗派になったんじゃないでしょうか。