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【空海がわかる8つのポイント】空海の生涯と伝説、最澄との関係や違い

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みなさんきっと一度は耳にしたことであろう「空海」をクローズアップしていきます。

「偉いお坊さん」のイメージくらいはあるとは思うのですが、どのようなことをしたのかイマイチピンと来ませんよね。

結論として空海は中国にわたって「真言宗」という当時の最新のテクノロジーである宗教を日本でひろめた人です。香川県出身で平安時代の初めに仏教をもっともっと勉強しようと船を使って中国に留学し、中国で学んだ密教という教えを日本に輸入してきて空海のオリジナルの解釈もまじえて真言宗を開き、日本で一大ムーブメント起こします。

真言宗」という宗派を日本に広めたことまでは学校でも勉強しますが、その空海は実際どのような経緯で真言宗を学び広めたのか、空海さんの人物像について知る方は少ないですよね。今回の記事では空海さんの生涯にフォーカスしてご紹介していきたいと思います。

また空海さんとよく混ざってしまいがちなのが、天台宗を広めた最澄さん。この最澄との関係や違いについても紹介していきたいと思います。空海さんは、まだ生きているという伝説も?!

そのあたりの秘密や、日本の仏教にどんな影響をもたらしたのか、空海さんの一生をたどって空海をひもといていきましょう!

※こちらの記事は空海さんの生涯を中心に解説しています。空海さんが残した数々の伝説についてはこちらの記事で解説していますのでそちらもぜひ!

空海が残した数々の伝説-仏様との縁で結ばれた空海空海 数多の高僧の中でも抜きん出て有名で、日本の歴史上最大級のスーパースターでもあります。 彼がこの世に生を受けてから1200年...

 

空海の誕生:空海伝説のはじまり

 

空海さんは774年、現在の香川県善通寺市に地方公務員の家の子として生まれました。(本名は「佐伯真魚(まお)さん」)。5歳から6歳位の時には、すでにとても頭が良く神様の子供だと周囲からは噂されていたようです。

 

母親のお兄さんに天皇の教育係などをつとめた阿刀大足(あとのおおたり)という名のおじさんがいて、若い頃から中国の古典などについて教育を受けることができました。ただ空海さんは最初から仏教の道を進んだわけではなく、最初はエリート官僚(かんりょう)の道を目指して勉強します。

 

出典:空海物語

 

大学を中退、修行に出る

 

優秀だった空海さんは18歳のときに公務員の養成機関である京都の大学にとても狭い難関を突破して入学するのですが、地方の出身者はエリート官僚になることはできないということを痛感したこと、そして1人のお坊さんから密教を教わったことにきっかけとして、より仏教、密教を学びたいと強く思って、たった1年ほどで大学を退学してしまいました。

 

大学を中退した空海さんは、私度僧(しどそう)という、国からの許可をもらわないフリーランスのお坊さんとして出家をして、関西や四国の山林でひたすら仏教の修行をするようになります。

 

空海さんは三教指帰という仏教が儒教や道教よりも優れていることを話して、エリート官僚への道を捨て、仏教に人生を捧げる決意を表明します。

 

この頃の有名なエピソードとして現在の高知県の室戸岬で密教にある記憶力を強める修行である、虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を実践しようとします。虚空蔵求聞持法は100日間で呪文を100万回となえなければならない過酷な修行です。空海さんは一心不乱に呪文をとなえてこれを実践してみごとに達成します。すると、空海さんの口の中にきらめく星が入ってきたそうです。

※虚空蔵求聞持法の勝手なイメージです

そんななか、空海さんは久米寺というお寺で「大日経(だいにちきょう)」という密教の中心となる教えに出会ったと考えられています。空海さんは大日経にものすごいことが書かれていることを悟りますが、具体的になにが書かれているのかは理解できませんでした。

 

空海さんは、この大日経に出会って大日経の可能性、虚空蔵求聞持法をとなえた時に明星が口のなかに入ったエピソードから密教に対して可能性を感じて、密教を極めたい!と強く思いました。しかしながら日本で密教を極めている人物はいませんでした。

 

空海さんは密教の本場である中国へ行って密教を身につけたい!大日経を解読したいという気持ちがだんだん強くなっていきました。

 

[30歳~]中国に留学 804年~806年

 

最新の仏教をまなぶことができる中国へ行く手段は、中国の文化を勉強するための使節団(しせつだん)である遣唐使(けんとうし)の船に乗ることしか道はありませんでした。

 

しかし、ちょうどその時20年ぶりに遣唐使が派遣されることになります。それを知った空海さんは遣唐使の船になんとか乗船するべく、方法をさぐっていきます。

 

遣唐使の船で留学するにはしっかりと勉強をするために最低20年は中国で生活をしなければなりませんでした。そしてその期間のばくだいな生活費を用意しなければなりませんでした。

 

空海さんは豪族だった両親や親戚を必死に説得して、ついには費用を工面してもらう了解をとりつけます。803年に東大寺で正式なお坊さんになる資格をもらい翌年、遣唐使の人たちに加わってあこがれだった中国へ旅立ちます。

 

 

中国へ渡る途中、嵐にあってしまい船がバラバラになったものの、なんとか命からがら中国の長安(ちょうあん)にたどり着くことができました。

 

長安にはいった空海さんは様々な宗教の寺院を訪ねてまわります。そんな時、大日経が密教のお経であることを知り、青龍寺というお寺にいた恵果(けいか)というエラいお坊さんに弟子入りをして、密教を学ばせてもらえることになります。

 

エラいお坊さんの恵果は当時の皇帝たちをも指導し、密教の中心の考えにある、金剛界(こんごうかい)と胎蔵界(たいぞうかい)という2つの世界の両方に精通していたただ1人の人物でした。

 

空海さんは恵果から密教の大事なギシキやお経をたくさん教えてもらったところ、空海さんはなんとたった3ヶ月でこの密教をパーフェクトに覚えてしまいます。このあたりは虚空蔵求聞持法の力によるものなのでしょうか。

 

 

さらにこの恵果から、中国でのもともとのお弟子さん達を飛び越えて、正式な後継者と認定されるまでになってしまいます。

 

出典:空海物語

 

しかし老僧であった恵果はその4ヶ月後になくなってしまいます。恵果が亡くなる直前、空海に対してこの密教をつかって日本の人々を救うよう恵果から託されたそうです。しかし空海が日本にもどれる迎えの船が来るのは約20年後。はやく日本に戻って密教をひろめたい空海さんはどうしたものか悩みます。

 

その時、なんと中国の新しい皇帝の就任を祝うための船が日本から派遣されて中国へやってきます。空海さんはルールをやぶってでも、この船に乗って日本に戻ることを決意します。

 

中国に来て約2年、空海さんが日本に戻るときにはものすごい数のお経や密教の道具、曼荼羅などももって日本に帰国し、船は福岡県の博多に無事到着しました。しかし20年しばりのルールをやぶった空海さんは罰として自由にさせてもらえず、しばらくの間、福岡県の太宰府にとどまらなくてはなりませんでした。

 

[32歳~]日本に帰国、空海と最澄、2人の出会い

 

空海さんは都にはいることができないながらも、朝廷にたいして「中国からすごい仏教をもってきたから、自分を開放してほしい」というお手紙を出します。しかし朝廷はあまり相手にしませんでした。しかし一人の人物が空海さんの手紙に反応します。それは日本仏教界のエリートでスーパースターであった最澄(さいちょう)です。最澄さんは空海さんがもってきた密教に興味しんしん!最澄さんは自分の身分やプライドを捨てて「弟子にしてほしい」と空海さんにお願いします。空海さんもそれを受け入れます。朝廷も空海さんの都に入ることをゆるして上京させ、最澄さんと空海さんは、持ち帰ってきたお経の貸し借りや、密教の儀式を行うなどの交流をしていきます。

 

今まで無名だった空海さんも、スーパースターの最澄さんが弟子にお願いをしたことから一躍、有名人になっていきます。

 

しかし徐々に方向性の違いやトラブルによって二人の交流はとだえてしまい、その後空海さんは中国で学んできた密教を自分の力で日本で広めようと歩んでいきます。

 

【深堀り!!】空海と最澄との交流関係と対立からの違い

 

真言宗を開いた空海と天台宗を開いた最澄、この2人はよく比較されますがどのような関係だったのでしょうか。

 

最初この2人は密教を広めていく同志でした。エリート僧だった最澄が空海が中国からもちかえった密教があまりにもすごかったため、「弟子にしてほしい」と願い出るような格好で仲良くなり交流が生まれます。

 

しかしながら理趣経(りしゅきょう)という密教の教えを巡って二人は対立するようになり、最澄の愛弟子が空海に寝返ったことが決定打となって、疎遠となってしまいます。

 

この理趣経は密教のなかでも取扱危険マークの付く教えで、仏教では悪とされていた人間の欲や煩悩も肯定するような内容でした。

 

 

これを教えてもらいたい最澄さんは教えて!教えて!と手紙を送りますが、理趣経の危険性を知っていた空海さんは「危険なおしえだから手紙では伝えず、実際にわたしのところに来て直接教えさせてもらいたい」とこれを拒否しました。最澄さんは長期間自分のお寺を留守にするワケにはいかず、理趣経は教えてもらえる機会をつくることはできませんでした。そこから最澄と空海の関係はぎくしゃくしてしまったようです。

 

 

最澄さんの前のめりっぷりはそれだけ意欲的に密教を学びたいと思っていたからゆえのことなのでしょう。その後、2人は互いに別々の道を歩んでいきますが、最澄さんも密教を必死に勉強して天台宗を確立させていくのは、みなさんもご存知のところです。

 

さて話を空海に戻します。空海さんは独自に真言宗の展開をしようと日本で活動していきます。まず初めに京都の北西にある神護寺で密教の体系を整えようと動き出します。

空海さんは現在の神護寺(じんごじ)を拠点にして密教をひろめていくのですが、まだ密教が世間的な支持をされていないなか空海さんにはある戦略を思いつきます。

神護寺 五大虚空蔵菩薩[国宝]

 

空海は「供養(くよう)」という亡くなった死者の魂を成仏させてあげる儀式を天皇や貴族に広めていきます。そして日本が平和で安泰な時代が続くよう、密教の儀式をするよう、天皇に申し出ていきます。

 

今でこそ仏教といえば、炎をたいて念仏を唱えるイメージはあると思うのですが、昔はそのようなことはなくあくまでお釈迦さまの教えが仏教でした。

 

今までの仏教はお釈迦さまのありがたい考え方がつめこまれたビジネス書的な感じだったのですが、密教はより現実主義の仏教、例えると外科手術のように患部に直接手を加えて治すような存在でした。

密教での儀式は昔の人々にはセンセーショナルにうつったハズです。

 

これらの活動を通じて、文学や書道に造詣(ぞうけい)の深い、嵯峨天皇との親密度が増していき、友だちのような関係になったと伝えられます。そして嵯峨天皇のお墨付きをもらって、都に近い山城国長岡の乙訓寺の別当(えらいお役人さん)に選ばれ徐々に活動の領域がひろがっていきました。

 

密教は当時の最先端のテクノロジーと同じだったわけです。今でいうと海外で開発されたがんの特効薬のような感じだったはずです。天皇としては最先端のテクノロジーを手に入れて、国を安泰させようという気持ちにこの密教が合致したのでしょうね。

 

 

世間の人々から高い評価を受けた空海さんは次に自分が思い描くオリジナルの密教のスタイルである真言宗の創立に向けて組織を作る活動していきます。

 

空海さんは816年に高野山に真言宗の道場の建設を天皇にお願いをして、許可をもらうことができました。しかし高野山はとても山奥であったため、道場の建設はなかなか進まず、少しの建物が立っただけで終わってしまいます。今でこそ空海=高野山のイメージが強いですが、当時はそこまで空海さんは高野山に手を加えることはできなかったようです。

 

金剛峯寺  重文 大日如来坐像(平安初期)

 

【深掘り!!】なぜ空海は山奥の高野山で真言宗を広めようとしたのか?

 

和歌山県の山奥にある高野山は、都からも遠く密教を多くの人に広めていくうえではわあまり好ましくない場所とも考えられます。

 

なぜ空海さんはこの場所で真言宗を広めようとしたのか?

 

それには大きく2つの理由があると考えられています。

 

1つは高野山は標高1,000メートル級の山々に囲まれ、蓮の花が開いたような地形をしていることから仏教の聖地としてふさわしい場所とされていました。全国各地を訪問して道場となる場所を探し求めていた空海さんは、この地を訪問した際にこの土地の神様から、高野山をゆずりうけて拠点にしていったという話。

 

2つ目の話は中国に留学し、密教を身に付けて日本に帰るときに、空海さんは中国から自分が身に付けた密教を多くの人に広めていくにはどこがいいか、という問いかけを込めて密教の儀式に使う道具の三鈷杵という武器を日本に向けて投げます。

 

※三鈷杵投げの勝手なイメージです

空海さんが日本に戻ってきて各地で道場を探している途中に高野山を訪問すると、高野山の松の枝に中国から投げた三鈷杵がかかっていたのが発見され高野山に決めたという話。

 

 

いずれにしても不思議な話ですね。

 

[49歳~]真言宗の確立、東寺を与えられる

 

空海は高野山での道場建立の一方で822年に東大寺に「密教を人々に広める道場を作ってくれ!」と命令が天皇からくだされ、真言宗を確立させて奈良にもその拠点を設けることができるようになります。さらに翌年には京都の東寺(教王護国寺)が嵯峨天皇から与えられて、都において真言宗を深く人々に広めることができる中心拠点を手に入れます。

 

東寺には空海が密教の本質である曼荼羅を実際に目ではっきりとわかるよう、仏像で再現した立体曼荼羅が現在も残っています。

 

東寺(教王護国寺) 立体曼荼羅

空海の活動はとどまるところを知りません。香川県の満濃池の改築や、日本初の庶民のための学校である、綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)の開設をするなど仏教の枠にはとどまらず、幅広く世の中のため、人々のために力をつくしていきます。

 

 

空海さんは晩年、高野山に向かうまで密教の教えや日本の平和、人と仏をリンクさせる儀式をたくさんおこなって、国や人々からしたわれて、たくさんのお寺の役員を任せられるなどの活躍を続けます。

 

香川県仲多度郡まんのう町にある満濃池

 

[62歳] 高野山で入定する

 

自分の寿命が短いことを感じとった空海さんは835年に高野山に入って62歳の生涯を閉じます。しかし空海さんの存在があまりにも偉大であったためか、空海さんの魂はこの世にずっと留まって、人々を見守っているという入定信仰(にゅうじょう)も生まれます。

 

高野山では空海さんはまだ生きていて、奥の院で瞑想をし続けていると考えられ空海さんに毎日食事が運ばれています。

 

出典:高野山金剛峰寺

 

 

以上、空海の一生をたどっていきましたがいかがでしたでしょうか。

 

空海はそれまでの概念としての仏教を、外科手術のように効果効能を重視する画期的な技法を中国から輸入し多くの人々に貢献しました。

また僧侶ではない家柄出身でしたが、実力主義で一種の成り上がりを成し遂げるまでになりました。

 

空海さんはベンチャー企業の起業家のような野心と行動力をもっていて、多くの人から信頼を得るのも納得ですね。

 

おわりに、空海関連の寺院

いかがでしたでしょうか。

空海さん生涯は才能と努力の結集で人々を救ってきた、まさに仏ともいえる功績を残してきました。

こうした功績は現在にも代々と受け継がれていて

空海さんの関連する寺院としては

・神護寺(京都)

・東寺(京都)

・高野山金剛峯寺(和歌山)

などがあり、現在でも空海さんの教えを伝えてくれています。

空海さんは仏像をめぐる上で空海の存在は欠かすことのできない存在であり、今わたしたちが日本でこれだけ多くの仏像を出会うことが出来るのも、もしかしたら空海さんがいなかったらここまで出会うことができなかったかもしれません。

特に東寺の講堂にある通称:立体曼荼羅は私の仏像の魅力に強烈に引き込まれた空間です。

ぜひまだ訪問していない方は訪問していただきあの仏像空間で空海さんのことに思いを馳せてみていただきたいと思っています。

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別の記事では空海さんが残してきた伝説について紹介していますのであわせてみてみてください。

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今回もお読みいただきありがとうございました。
ではまた!

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