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【見仏入門】No.29 奈良・長谷寺の仏像・見どころ/十一面観音像、四季の花々など

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長谷寺(はせでら)と聞いてあなたが思い浮かべるのは「奈良」?それとも「鎌倉」?それともあなたの近所にある長谷寺?今回は奈良桜井にある長谷寺。

実はこの奈良の長谷寺は全国にある長谷寺の総本家。長谷寺界の親玉です。

でもこの長谷寺、奈良市内から少し離れたところにあるので、名前の割に訪問したことがある人は少ないかもしれません。

美しい花々が咲き誇り、四季折々のさまざまな表情を楽しめるお寺であります。今回はそんな長谷寺を紹介していきます!

長谷寺の見どころ

長谷寺の花々

 奈良の長谷寺(はせでら)といえば大和路の「花の御寺」として昔から有名で、特に「ボタンの花」を思い出す方が多いのではないでしょうか?このボタンの花は毎年4月半ばから5月の連休明け頃まで「ぼたんまつり」が行われていますが、同時に、お寺の春季特別拝観が行われていますよ。

この花の寺として名高い長谷寺は、今では7000株のボタンとともに、3000株あるアジサイも有名になり、特に「嵐の坂(あらしのさか)」とよばれる石段の両側に咲くあじさいの花が綺麗だと多くの人がこの梅雨の時期にも訪れるようになりました。

この「嵐の坂」は境内の第一登廊から第二登廊への長さ40mの上り坂のことで、この急な石の階段の両側にアジサイの花が咲き、下から見上げた風情がなんとも言えずきれいなのです。またこの坂は秋の紅葉の時もきれいだと評判です。「長谷寺」と聞くと鎌倉の「長谷寺」を連想される方も少なくないかと思います。アジサイ寺として有名な「鎌倉の長谷寺」の影響があったかもしれません。

この長谷寺は昔から桜や牡丹の名所でした。『枕草子』、『源氏物語』、『更級日記』などにも登場するため、平安のころから花の名所だったと思われます。

また『古今集』や『源氏物語』の「玉鬘(たまかずら)」の巻に登場する二本(ふたもと)の杉は現在も境内に残っています。源氏物語では、玉鬘がここで右近と巡り合い、母の死を知ったと言います。二本の杉は下の根の部分でつながっています。

さらにこのあたりは、平安時代の女流文学者や歌の枕詞で、「隠国(こもりく)の初瀬」と呼ばれていたそうです。いってみれば「山奥深い隠れた地」ということでしょうが、男性のみならず女性たちのあこがれの地が「初瀬」「泊瀬」だったのです。

寺の境内にはいろいろな歌碑(紀貫之芭蕉など)が点在しています。これらをたどって境内を歩いてみるのもきっと楽しい思い出になると思います。さらに、境内には「石観音」や「手水鉢」、「石灯籠」などの石造物も点在していますので、四季折々の花とこれらの「歌碑」「石造物」などを発見しながら歩くのもこの寺の楽しみの一つですよ。

 

 

奈良の長谷寺と鎌倉の長谷寺に関係はある?

「長谷寺」と聞いて多くの方は2つにわかれると思います。奈良と鎌倉。

この奈良と鎌倉、それぞれの長谷寺はどんな関係があるのでしょうか?

ともに長谷寺でともに十一面観音像を本尊とする寺院ですが、真言宗豊山派と浄土宗の寺院と宗派は違います。ただ奈良の長谷寺は西国33観音霊場、鎌倉は坂東33観音霊場とともに観音霊場です。また寺の開祖に関しては「721年に奈良の長谷寺の開基である徳道が楠の大木から2体の十一面観音を造り、その1体を本尊としたのが大和(奈良)の長谷寺であり、もう1体を海に流したところ、その15年後に相模国の三浦半島に流れ着き、そちらを鎌倉に安置して開いたのが、鎌倉の長谷寺である」という伝説が残されています。

奈良長谷寺では秋季特別拝観(毎年10月半ば~12月始め頃)にあわせて「もみじまつり」が開かれていて、長谷寺の東側にある、学問の神様、菅原道真(すがわらみちざね)を祀る「與喜天満神社(よきてんまんじんじゃ)」で、「もみじまつり」の初日に、宵宮、翌日に本祭りで神輿や太鼓の練り歩きなども行われています。もちろん長谷寺では寺宝仏像の特別拝観もあります。

また毎年2月14日夕方に鬼がおおきな松明(たいまつ)を手に本堂の周りを暴れ回る「だだおし」という行事が行われています。

 また長谷寺といえば「初詣」という人も多いようです。

大晦日から1月3日までは「観音万燈会」が開かれており、仁王門から本堂へと続く399段の石段、重要文化財の「登廊(のぼりろう)」や本堂の廊下、などの灯籠に灯が入ります。

大晦日に除夜の鐘を聞きながら、厳かに静まった境内を元日の5時まで拝観することができますよ。

 

 

 

長谷寺へのアクセス

 長谷寺へは大阪や名古屋方面からは、近鉄大阪線で「長谷寺駅」下車、徒歩約15分です。奈良方面からですとJRの桜井線で桜井駅から近鉄に乗り換えになります。長谷寺駅は桜井駅からは近鉄で2つ目です。

長谷寺駅からは初瀬街道(国道165号線)を渡り、初瀬川を渡って右に川沿いを歩けばすぐに到着です。途中に「白髭(しろひげ)神社」などという古い神社もあります。この神社は「猿田昆古(さるたひこ)」と「天宇豆賣(あめのうずめ)」を祀っていますのでなかなか面白いですね。

この二人の神様は結婚したと思われますので縁結び、子宝の神様だそうですよ。でも古代の神話などで岩戸に隠れた天照大御神(あまてらすおおみかみ)が岩戸を開けてくれるように踊ったセクシーな踊りはとても興味深いですよ。まあこれは余分でしたね!でも古代からの誘い(いざない)を受けてみるのも良いでしょう。

でもこの神社も長谷寺と関係がありそうです。この神社もそれほど大きな神社ではないけれど、この神社は長谷寺本尊の衣木が流れ出たところであり、それにより祀られたとする説があるといいます。まあ、もっとも川の対岸(東側)にある與喜天満神社はこの寺とは切っても切れない縁があるようですが、こんな名もあまり知れない神社なども意外な関係がありそうで興味深いですね。

長谷寺は「初瀬山(はつせやま)」(標高548mの比較的低い山)とよばれる山の中腹に本堂が建っています。そのため、本堂からは大和と伊勢を結ぶ「初瀬街道(はせかいどう)」や初瀬川(はせがわ)が見下ろせます。

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長谷寺の歴史

寺伝によると、686年に明日香村の弘福(ぐふく)寺<川原寺>の住職であった僧「道明(どうみょう)上人が初瀬山(はつせやま)の中腹の西の丘に三重塔と本長谷寺(もとはせでら)を建立したのが始まりとされています。 また、続いて727年に道明上人の弟子の僧「徳道(とくどう)が現在の長谷寺のある東の丘に本尊十一面観音像を祀って開山したといわれています。しかし、これらのことは伝承のみであり、明確なことはわかっていません。

847年12月に定額寺(じょうがくじ:正式な官寺に次ぐ寺格を持った寺)に並べられ、官寺なみの寺と認定されて別当が設置されたとみられています。

この寺の本尊「十一面観音」は奈良時代より盛んであった観音信仰の中心となる寺として崇拝されてきました。

平安時代になると、たくさんの歌などに詠まれていますので、貴族など高貴な人々のあいだで長谷寺への参詣が流行したといわれています。

 

 

また、この長谷寺への参詣は「初瀬詣で(はせもうで)」といわれ、「源氏物語」「枕草子」など多くの古典に語られています。また平安時代初期までは華厳宗の東大寺の末寺となっていましたが、平安時代中期には法相宗の興福寺の末寺となりました。

 

 

そして、1024年には、時の権力者「藤原道長」が参詣し、「初瀬詣で」はやがて次第に武家、庶民へと広がり、長谷寺はさらに多くの信仰を集めました。

 16世紀以降は新義真言宗の流れをくむ寺院となり、戦国時代の1588年に、豊臣秀吉による紀州征伐で、新義真言宗の本山である和歌山県(岩出市)「根来寺(ねごろじ)」が攻撃を受けて、その寺の専誉僧正(せんよそうじょう)をはじめ多くの新義真言宗の僧侶が、長谷寺に入山してきました。

そして、長谷寺は根来寺の僧侶を中心とした、現在の真言宗豊山派の中心寺院になったのです。特に僧侶たちを教育する学問所として発展をとげました。

 

 

また開祖である「徳道上人」が安置したとされる「十一面観音像」はその後西国三十三観音の根本霊場とされて、全国の観音信仰の中心寺院になっていきました。

 

江戸時代には、この観音信仰は全国に広まり、坂東33観音、秩父34観音、西国33観音合わせて100観音を巡る大きな信仰へと発展しました。

 

現在全国に「長谷寺」と名前のついた寺院は二百数十ヶ寺あり、また真言宗豊山派の寺院は全国に3,000カ寺、僧侶数5,000人、檀信徒数200万人ともいわれています。豊山派の「豊山」の名前の由来はこの長谷寺の山名(豊山:ぶざん)に由来しています。また寺の名前もこの地を「初瀬(はつせ、はせ)」「泊瀬(はつせ)」などと昔から呼ばれていたために「初瀬寺」「泊瀬寺」などから「長谷寺」と成っていったものと考えられます。

 さて、西国33観音霊場めぐりの開祖といわれるのが「徳道上人」ですが、縁起によると、この長谷寺の開祖「徳道上人」が、21歳の時に大和初瀬の弘福寺の(道明)大徳上人と師弟の契りを結んで出家し、長い修行の後の732年に楠(くす)の霊木から三丈三尺六寸の十一面観音を刻み、これを本尊として大和国の長谷寺を開創したといわれています。また鎌倉の長谷寺もこの徳道上人が開いたとされています。このため、33観音霊場の開祖は「大徳上人」「徳道上人」と両方の説があり、また二人は同一人物だという説もあるようです。

 

そもそも霊場が三十三所に定められたのは、『法華経(ほけきょう)』普門品(ふもんぼん)(観音経)に説かれている、観音菩薩が三十三の姿をあらわして衆生(しゅじょう)を救済するという教えに基づくと考えられています。

 

長谷寺の仏像の詳細

十一面観音立像(本尊)【重文】(室町時代1538年製作<再興>)〈大仏師運宗らの製作 像高1018cm(三丈三尺六寸)〉

日本の仏像・奈良観光ポスター

初期の像の起源については、寺の伝承では神亀年間(720年代)に近くの初瀬川に大きな大木(楠の木といわれるが確証はない)が流れ着いた。これを触ったものが大きな祟り(たたり)にあい、村人たちを怖がらせていた。そしてこの祟りを鎮めることを「徳道上人」にお願いしたところ、上人はこの大木(神木)から観音菩薩像を彫り、これを近くの初瀬山に祀ったというのが始まりだとされています。

この像はその後何度か火災にあいますが、その都度再建され、焼け残った部分を像の体内に納めることで霊験は伝え続けられてきたといわれています。

現在の本尊の十一面観音像は、室町時代の1538年に再興されたものです。像高が10mをこえる巨大な像で、現在の国宝・重文指定の木造彫刻の中では最大のものです。

特別拝観の時(春季:3月半ば~6月末、秋季:10月半ば~12月初め)では、観音様と縁を結ぶための「五色線(ごしきせん)」を左手につけ、普段立ち入れない国宝の本堂内部に入ることができ、この本尊の足に直接触れることができます。ただ特別拝観時以外でも本堂は入れるので拝観は可能ですが、この大きな観音様の下半身は見えません。

 

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長谷寺式観音について

長谷寺十一面観音像は、左手は通常の十一面観音像と同じ水瓶を持っていますが、右手は通常の十一面観音像と異なり、数珠とともに、地蔵菩薩の持つような錫杖(しゃくじょう)を持って方形(四角)の磐石の上に立つ姿です。一般にこの錫杖を持った十一面観音像を「長谷寺式観音」と呼ばれることもあります。

一般的な観音様は蓮弁の台座に座したり、立ったりしているのがふつうですが、この観音様は、大きな四角い岩の上に立っています。これについては、古来の日本では岩の上に神が舞い降りるとされていて、その岩を磐座(いわくら)と呼びますが、長谷寺の本尊が立つ岩もまた磐座とされたのではないかといわれています。

すなわち、この地域では、天照大神(あまてらすおおみかみ)が訪れたところと信じられており、本尊は天照大神の本地仏(神道の神様と仏教の仏様は同体という理論においての、神様の本来の姿であるところの仏様という意味)としてつくられたとも伝わっています。ここを通る初瀬街道は伊勢神宮への参拝の道ですが、伊勢神宮にはこの天照大神が祀られています。

 

伝承によれば、これは十一面観音菩薩が、地蔵菩薩と同じく、自ら人間界に下りて衆生を救済して行脚する姿を表したものとされています。

また、この十一面観音像と一緒に、本堂に安置されている「難陀龍王立像」「赤精童子立像」とその「像内納入品」を含めてまとめて重要文化財に指定されています。

 

難陀龍王(なんだりゅうおう)立像【重文】(鎌倉時代1316年)〈仏師舜慶らの作、像高:167.7cm 檜(ヒノキ)材の寄木造 彩色 玉眼 〉

難陀龍王立像

本尊に向かって左側(右脇侍)に安置されている像で、頭上に龍を載き、唐冠を被った老人の姿をしており、中国風の服を着用しています。

像内には、正和年代の造立時と明応年代の修理時の2度にわたる納入品があり、資料として貴重です。これらの像内納入品も重文に指定されています。難陀(なんだ)竜王は、八大竜王の一つで、その第一番に数えられる龍王です。千手観世音菩薩の眷属(けんぞく:部下)である二十八部衆の一尊にも上げられています。また春日明神としても信仰されています。

 

赤精童子(せきせいどうじ)立像【重文】(室町時代1537年から7年かけて仏師運宗らによって本尊と一緒に造形された)〈像高:116cm、 〉

雨宝(うほうどうじ)童子ともいいます。本尊に向かって右側(左脇侍)として安置されています。

雨宝(うほうどうじ)童子は、初瀬山を守護する八大童子のひとりといわれ、天照大神としても信仰されています。頭髪を美豆良に結って冠飾を付け、裳を着し袍衣を纏っています。

 

銅造十一面観音立像 【重文】(鎌倉時代)〈銅造製 像高70.9cm〉

 

銅造十一面観世音菩薩立像

右手に錫杖、左手に水瓶を持った十一面観世音菩薩像です。 木造ではありませんが、寄木造の法をまねて各部を別々に鋳込んで組上げて造られています。

やや目を吊り上げ、張りのある顔が印象的です。光背は宝相華唐草文(ほうそうげからくさもん)を透彫りしており見事です。また表面の鍍金(めっき)もよく残っていて、鎌倉時代の金銅仏として大作といわれています。

 

木造地蔵菩薩立像 【重文】木造彩色 平安時代

 

地蔵菩薩立像

頭部、体部ともに桧の一材で造られ内刳りがほどこされています。台座などところどころ後世に補修されていますが、おだやかな面ざし、衣紋の流れなどに平安期の香りを伝えています。

右手の指をわずかに衣にかけている造形は極めて珍しく、地蔵菩薩の中でも特異な存在といえるでしょう。

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不動明王坐像 【重文】  (平安時代)〈伝・円珍作〉

右手に宝剣を握り、左手に羂索(けんさく:鳥獣をとらえるわな)を執って坐っています。頭髪は弁髪(べんぱつ:モンゴルなど北方アジア諸民族の間で行われた男子の髪形で、頭の周囲の髪をそり、中央に残した髪を編んで後ろへ長く垂らしたもの)として左肩に垂らし、左目を細くして牙を上下に出しています。

台座と光背は室町時代の再造ですが、像容は古様を表わし衣文も粗く刻まれており、寺伝には天台宗の智証大師円珍(えんちん)の作と伝えています。

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 この寺の仏像には国宝はありませんが、本堂は近世前半の大規模本堂の代表作として、2004年12月、国宝に指定されました。棟札2枚、平瓦1枚(慶安元年銘)、造営文書・図面等3件が国宝の附(つけたり)指定となっています。本堂は何度か火災等で焼けたりしていますがその都度再興されています。現在の本堂は江戸時代になって徳川家光の寄進を受けて、1650年に完成したものです。

その他に重要な国宝があります。それが「銅板法華説相図 (どうばんほっけせっそうず)」です。

 

これは、7世紀の仏教工芸品で、銅板の表面に『法華経』見宝塔品に説かれている宝塔が出現する光景を図相化したものです。銅板の下方に銘文があって、造立の由来などが彫られています。その文中に「敬造千仏多宝仏塔」とあるため、これを「千仏多宝仏塔」とも呼ばれています。また、この銅版は現在、奈良国立博物館に寄託保管されています。

 

以上、長谷寺の歴史や仏像のご紹介でした。

実はおとぎ話、わらしべ長者の舞台でもあると伝わるのがこの長谷寺なんです。

みなさんもわらしべ長者の物語のように、良いことが起こるかもしれません。ぜひお参りしてみましょう。

 

長谷寺の御朱印

長谷寺をさらにくわしく知りたい時に!

奈良桜井・長谷寺の拝観料金、時間、宗派、電話など

正式名称

豊山 神楽院 長谷寺

宗派

真言宗豊山派総本山

住所

〒633-0112 奈良県桜井市初瀬731-1

電話

0744-47-7001

拝観時間・料金

4月~9月:8:30~17:00
10月~11月、3月:9:00~17:00
12月~2月:9:00~16:30※牡丹まつり期間等時間延長あり大人(中学生以上) 500円
小学生 250円
障がい者 250円(手帳を掲示、同伴者1名に限り障がい者料金適用)団体割引(30名以上)※12月31日午後4時30分~1月3日夕方まで 入山料無料

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