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【想像以上の大迫力】岐阜県・舎衛寺の仏像-釈迦如来坐像を訪ねて

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今回は岐阜県岐阜市内にある舎衛寺のご紹介をしたいと思います。延算寺薬師如来のご開帳と合わせて訪問できる仏像を探したところこちらの舎衛寺を知りました。

私は過去何度か岐阜県内の仏像を巡っていますが今回の舎衛寺は初めての訪問となりました。5月に訪問しましたが青々とした田園地帯そして舎衛寺から望む岐阜市内の景観は心がすっきりとするような非常に良い訪問となりました。

それは管理人の汲田さんが非常に私の訪問を喜んで迎え入れてくださっていただきとても丁寧なご説明のもと、釈迦如来像を堪能することができました。

 

舎衛寺の場所・アクセス方法

舎衛寺は岐阜県岐阜市城田寺1821に位置しております。

私は車で訪問しましたが、青々とした田園地帯を抜けて細い路地の先を通り到着しました。

公共交通機関を利用する際には、JR岐阜駅から岐阜バス岐阜大学病院行きに乗車するのがよいかと思います。複数のバス停が利用可能です。具体的には、「常国寺前」バス停からは徒歩約14分、「城田寺団地」バス停からは徒歩約16分、「打越本郷」バス停からは徒歩約18分となっています。

この舎衛寺へのアクセスは、比較的地元の公共バスがあるので健脚の方であれば容易に行けるかと思います。バス停から寺までの徒歩ルートも整備されており、距離はありますが歩くことが好きな方にとっても楽しい散策が可能です。バスの本数や運行間隔を事前に確認してからの訪問をおすすめします。

舎衛寺の拝観方法・拝観環境・料金

舎衛寺の拝観方法

舎衛寺での拝観は、事前にお寺に連絡をして訪問の都合を調整します。訪問希望の日にちを決めたら、お寺に電話をして拝観が可能かどうかを確認しましょう。

※こちらは2024年の時点での情報です

舎衛寺の拝観環境

舎衛寺の本堂は、釈迦如来像を中心に配置されており、非常に見やすい環境が整っています。訪問者は像の近くまで寄ることができ、じっくりと仏像の細部に目を向けることが可能です。

舎衛寺の拝観料金

舎衛寺の拝観料金は特に定められておらず、訪問者は志納(志を表すお金)を納める形をとっています。金額は自由に決めることができ、自分の心から出た額を寄付として納めます。

舎衛寺の歴史・由来

舎衛寺の歴史は古く、その創建時期ははっきりとしていませんが、元々は「城田寺」と呼ばれていました。寺の本尊は古い時代から伝わる霊験あらたかな釈迦像で、その作者は不明です。725年には、白山権現を寺の守護神として迎え入れ、これが周辺地域の人々が集まるきっかけとなり、集落が形成されました。

728年、寺の近くで神秘的な紫の雲が観測され、その中から光が輝いていたため、聖武天皇が興味を持ち、調査を命じました。調査により、小さな金銅製の釈迦像が発見され、これがさらなる信仰を集めるきっかけとなりました。天皇はこの奇跡を喜び、寺に多くの土地を寄進し、寺は天皇の直接の庇護を受ける勅願寺となりました。
その後、寺は942年この年、天空に玉幡が現れ、そのうちの一つが寺の桜の木に落ちました。幡には「舎衛国」と記されていたため、寺は舎衛寺と改名されました。これは、インドの釈迦の教えの聖地である舎衛国にちなんだものです。

寺はこの時代に非常に栄え、多くの新しい堂宇や塔が建設されました。しかし、1495年の船田合戦で寺は甚大な被害を受け、多くの建物が破壊されました。その後、寺は何度かの復興を試みましたが、1871年の神仏分離令によりさらなる衰退を迎えました。

現在、寺はその昔の面影をほとんど留めておらず、かつての繁栄を偲ぶ遺構として、地域の歴史の一部として静かに存在しています。

舎衛寺の仏像について

舎衛寺に安置されている本尊木造釈迦如来坐像と対峙してその存在感に圧倒されました。まさかこれほどの巨像だったといは想像しませんでした!この像は榧材(かやざい)を一材から精緻に彫り上げられており、高さは129.0cmです。このサイズにもかかわらず、巨像のような迫力を感じさせる体躯と表現を感じます。

像は結跏趺坐(けっかふざ)の姿勢で座り、右手は施無畏印(せむいいん)、左手は与願印(よがんいん)を結んでいます。この釈迦如来像は、顔の部分にある切れ長の目や、広がった瞼が特徴的で、あどけない表情をしています。特に私が心打たれたのは鼻筋。ビシッとした鼻筋が中央を貫いていて日本的な仏像にもかかわらずインドの西洋的な仏像を表現するかのような鼻筋が強いインパクトを残している気がします。

頭部は浅く刻まれた螺髪(らほつ)と低く表現された肉髻朱(にくけいしゅ)で飾られており、一部漆箔で修補されている可能性があります。また、衣文(えもん)は浅く、翻波(ほんぱ)様の名残が見られ、その大きく張り出した膝部と組み合わせることで、像に堂々とした姿勢を与えています。

管理人の方からはこの土地で戦によって多くの戦死者を出してしまったためその弔いを兼ねているのではないかというお話を伺いました。そして当時は台座なども存在していただろうということでしたが戦火の中なんとかこの仏像を守ろうとした結果、台座だけは失われたものの釈迦如来像は現代でもその姿を残すことができるようになったという言い伝えが残っているそうです。

この像は、江戸時代に修繕された痕跡がありますが、近年の修理によりその損傷は修正され、原初の藤原時代の特色を十分に保持しています。管理人の方のお話では元々は手が低い位置にあったそうですが修理によってしっかり説法する形を取ることができるようになったようです。個人的には藤原時代よりももっと古い仏像の可能性があるのかなという感じは持ちました。

船田合戦と城田寺の戦

この舎衛寺を舞台にした船田合戦と城田寺の戦についてご紹介します。
船田合戦は、戦国時代前期に美濃国で発生した内乱です。この戦いは、美濃の守護であった土岐成頼が家督を巡り、守護代斉藤妙純と小守護石丸利光の間で激化しました。土岐成頼は、本来の後継者である政房ではなく、側室の子である元頼に家督を継がせたいと考え、これが内乱の原因となりました。

成頼は斉藤妙純に提案しますが、斉藤妙純はこれを拒否し、成頼はその計画を石丸利光に持ちかけました。石丸利光はこの提案を受け入れ、自身の野望を実現させるために動き出します。これにより、美濃国内は分裂し、周辺の尾張、伊勢、近江、越前などの国々も巻き込んだ大規模な戦争へと発展しました。

戦争は1495年に始まり、石丸利光は近江で兵を集め、美濃侵攻を開始します。斉藤妙純とその支援者たちは、石丸軍と対峙します。この戦いは、城田寺を舞台にして激しく展開されました。城田寺は当時、成頼が隠居していた場所であり、戦争の最終局面で重要な役割を果たします。

戦いの中で、石丸利光は家族とともに城田寺に篭城しますが、最終的には斉藤方の圧倒的な力の前に敗北を認めます。利光は斉藤方に対して、自分と息子たちの命と引き換えに、成頼と元頼の助命を懇願します。斉藤方はこの要求を受け入れ、石丸利光とその息子たちは最終的に自害を選びます。

この戦争により、城田寺は大きな被害を受け、その壮麗だった伽藍はほとんどが破壊されました。船田合戦は、土岐家内部の権力争いから始まりましたが、最終的には美濃国全体を巻き込む大規模な戦争となり、多くの人々の命が失われる結果となりました。本尊の釈迦如来はそういった人々の魂を鎮魂する存在としてこの地を見守りつづけてきたと想像します。

地方仏グルメ

岐阜へ行ったので久々に“胡蝶庵 仙波”の蕎麦をいただきました。気付いたらミシュランの星を獲得してるとか!デフォルトと手挽きの2枚。蕎麦の実をダイレクトに感じれる粗挽きの蕎麦をうまく体現していておすすめの蕎麦です。よかったらぜひ立ち寄ってみてください!

舎衛寺の拝観料金、時間、宗派、電話など

正式名称

城田山舎衛寺

宗派

真言宗御室派

住所

岐阜県岐阜市城田寺1821

電話

058-232-1145

拝観時間

管理人さんの都合による

拝観料金

志納

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