日本中のあちこちで日常的に目にする仏像。でも、日本で最初に仏像を作った人って知ってますか?そんなこと、考えたこともないよ!っていう方が多いと思います。
実は、鞍作止利(くらつくりのとり)という人が記録上初めて仏像を作った日本人なんです。歴史の教科書の最初の方で見たことがある方もいるかもしれませんね。
仏教伝来は538年とされていますが、彼の生きたのは500年代後半から600年代前半にかけてだと考えられています。仏教が伝来して間もない日本、まだまだ古来の信仰が生きていた日本で、彼はどのように生き、どのような作品を残したのでしょうか。
今回は、この鞍作止利についてじっくりご紹介します。まずは止利のプロフィールを見てみましょう。
鞍作止利ってどんな人?
鞍作止利は飛鳥時代に活躍した仏師です。
有名な仏師としては最古の存在で歴史の教科書では最初の方に習います。
そのため資料がとても少ないんです。
鞍作止利の生い立ちを出来得る限りでさかのぼっていきましょう。
鞍作止利は渡来系の日本人
鞍作止利の生没年はわかっていません。彼が最初に記録上に現れるのは605年、推古天皇が1丈6尺(約約4.85m)の金銅仏を制作することを命じたときのことです。止利はこのとき仏像制作の責任者に任じられます。このことから、605年時点ですでに相当のキャリアを積んだ仏師(仏像制作者)だったことがわかります。つまり、生まれたのは500年代後半だと考えられます。
彼のおじいちゃんは522年、継体天皇の時代に中国から日本にやってきて、私的なお寺を建ててそこに仏像を安置していたそう。もちろん、その仏像は中国から持ってきたもの。小さい頃の止利はそれを眺めながら大きくなったことでしょう。
お父さんは鞍部多須奈(くらべのたすな)といい、彼も仏師として聖徳太子のお父さんである用明天皇のために坂田寺というお寺の建立を指揮したといわれています。年がいってからはお坊さんになり、德齊法師(とくせいほうし)と名乗りました。
更に、お父さんの妹である嶋(しま)も、若くして出家。善信尼と名乗り、日本で最初の尼さんになったそうです。
馬具制作者から転職?
そんな仏教エリートともいえる一族のもと、鞍作止利は今でいう中国系3世として飛鳥時代の日本に生まれました。当時の渡来人は最先端の技術をもつ技術者集団。特殊な技能を止利も受け継いでいたことでしょう。
一説には、「鞍作」の名が示すとおり、元々は馬の鞍(くら)などの馬具を作っていた一族ともいわれています。馬具制作には金箔を貼る技術、漆やにかわを扱う技術など、仏像を作る技術と似通ったところがあります。そのため、仏教が流行し始めた日本で需要が増した仏像制作に転身したとも考えられるんです。
それでは転職に成功した止利の作品をチェックしてみましょう!
鞍作止利の仏像作品
鞍作止利の作品① 法隆寺「釈迦三尊像」
鞍作止利の作品といえばまず覚えておきたいのがこれ!法隆寺金堂のご本尊、「釈迦三尊像」です。623年に作られたこの作品は国宝に指定されていて、名実ともに止利の代表作。きちんと年代と作者がわかっている作品はこの時代には少ないので、歴史的にも貴重です。
なぜ例外的に年代がはっきりしているのでしょう。それは、光背と呼ばれる仏像の背後にある飾り部分に、作られた経緯が細かく書かれているからです。それによれば、622年に聖徳太子が病気になり、治癒を願って作られたが、翌年の完成に間に合わずに聖徳太子は亡くなったということです。なんとも悲しい話ですよね。
端正で穏やかな微笑みを浮かべたお釈迦様のお姿は聖徳太子の姿を写したものといわれ、ありし日の太子の姿を想像できます。
釈迦如来とはどんな仏像なのかはこちらの記事を参考にしてください

鞍作止利の作品② 飛鳥寺・飛鳥大仏(釈迦如来坐像)
もう一つの代表作「飛鳥大仏」は、正式名称を「釈迦如来坐像」といい、飛鳥寺(現・安居院)のご本尊です。この仏像は推古天皇自らの願いによって作られたもので、現在重要文化財に指定されています。この仏像のすごいところは、609年に作られて以来1400年もの間一歩も移動したことがないところ。仏像の多くはお寺がなくなったり火事になったりして一度は動かされているものですが、「飛鳥大仏」は制作以来一度も動かされたことがないんです。
つまり、聖徳太子や推古天皇がお祈りしたのと全く同じ場所で、今でも誰もがお祈りできるってこと!これってすごくないですか?遠く飛鳥時代に思いをはせながら手を合わせましょう!
さて、それでは次に鞍作止利の仏像の特徴がどんなものだったのか見ていきましょう。
鞍作止利の作風って?
鞍作止利の仏像は中国北魏系:アルカイックスマイル&杏仁形
鞍作止利の仏像やその仲間たちは、同じ時代の他の仏像と比べてとてもわかりやすい特徴があります。それは、中国の北魏(南北朝時代の国、386年 -534年)ととてもよく似ていることです。
まず顔に注目すると、眼はアーモンドを横にしたような形をしていて、口元は「アルカイックスマイル」という神秘的な微笑を浮かべています。次に服装に注目すると、服のひだが左右対称で規則的になっているのがわかります。これらの特徴は北魏で作られた仏像の特徴で、止利はそれを更に洗練させ、美しい仏像を次々とつくったのでした。
当時の日本に仏教をもたらしたのは朝鮮半島にあった百済(くだら)という国で、仏像もそこから輸入されていました。百済の仏像とは全然違う北魏様式の仏像は、当時の日本人の目にすごくイケてるように思えたのかもしれませんね。
流行する止利スタイル
そんなわけで、止利の仏像はとても流行し、弟子やまねをする仏師もたくさん現れました。止利スタイルの仏像には、たとえば法隆寺金堂の「四天王像」があります。四天王像は通常躍動感あふれる姿で表現されることが多いのですが、法隆寺の「四天王像」は左右対称で優雅な衣服の表現や落ち着いた顔立ちなど、物静かな止利スタイルがよく表れた名作です。こちらは止利自身の作品ではありませんが、素晴らしいできばえ、そして聖徳太子にゆかりがあるお寺ということで国宝に指定されています。
ところで、さっきから妙に「聖徳太子」という言葉が目につきませんか?じつは鞍作止利は聖徳太子やその親戚である蘇我氏と縁が深いんです。次は止利の関連人物について見ていきましょう。
鞍作止利の特徴:聖徳太子や蘇我氏とゆかりが深い!
聖徳太子のお気に入り
止利の最初の仕事である飛鳥大仏制作のときです。仏像はできたものの、なんとお寺の入り口が小さすぎて大仏がお堂の中に入らない事態に!お堂の扉を壊して入れるしかないとなったときに、止利が現れてなんとか扉を壊さず工夫して入れることができました。この事件で止利は一躍人気者に。推古天皇の摂政であった聖徳太子に「大仁」という位をもらって大出世したのです。
その後も聖徳太子やその親戚の蘇我氏の仏像制作を請け負っていたと思われますが、622年に聖徳太子は病気で亡くなってしまいます。それから止利の運命も揺らぎ始めます。
蘇我氏とともに止利スタイルも終焉へ
聖徳太子という巨大なよりどころを失った蘇我氏は引き続き政権を牛耳っていましたが、だんだんみんなの憎しみを集めるように。自分の屋敷を天皇の宮殿と同じように「みかど」と呼んだり、調子に乗ってしまったところもあったようです。そんなとき、天皇家中心の政治をしたい!という野望に燃えた若き中大兄皇子(のちの天智天皇)が登場。ついに645年に大化改新が起こります。
蘇我氏は滅ぼされ、大化改新に協力した藤原鎌足が出世します。そんな政治の表舞台の裏側で、ひっそりと止利の仏像もこの世から忘れ去られていきました。止利がいつこの世を去ったのかはわかりません。
しかし法隆寺釈迦三尊像や飛鳥大仏など、貴重な遺作は今でも奈良の地で大切に保存されているのです。
まとめ
ここまで日本最初の仏像制作者である鞍作止利についてご紹介しました。残っている作品は多くはありませんが、日本がシルクロードの終着駅であることを感じさせる美しい仏像を制作した止利。
ぜひ奈良に、止利の仏像を見る旅に出かけてみてはいかがでしょうか。
(参考)鞍作止利の作品が今でも見られるのはなんといっても法隆寺です。詳細はこちら。

止利仏師や他の仏師についてもっと深く学びたい方への参考書はこちらをぜひおすすめします。仏師とはどんな人でなぜ「仏像」を彫ったのか?を垣間見ることができます。