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【日本人が知るべき仏師】定朝の仏像作品と特徴|定朝様式、寄木造りとは

定朝
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今回紹介するのは日本仏像界のナンバーワンの最重要人物!定朝(じょうちょう)」です。

 

「え?!ナンバーワン?」「仏師ですごい人と言ったら運慶(うんけい)とか快慶(かいけい)じゃないの?」って思いますよね。

 

でも定朝さんはなんと運慶が生まれた慶派のおおもとを作った人。つまり定朝がいなかったら運慶は登場していなかったかもしれないのです。しかも定朝さんは慶派の父だけでなく、平安時代〜鎌倉時代にかけて活躍した慶派・円派・院派という有名仏師の3系統すべての父なのです!つまり有名な仏師の源流をたどると全て定朝にたどりつくというのです。

 

 

定朝が作った仏像は日本人ならだれしも持っています!

え⁉どゆこと?と思いますよね。

定朝が作った仏像の代表作の阿弥陀如来像は10円玉の裏側に記載されている平等院鳳凰堂の本尊です。つまり定朝の作品はみなさんの財布のなかに入っているのです!

 

 

でも、これだけすごい定朝さんですが、現代ではあまり有名ではありません。それはなぜか?残念なことに定朝さんが作ったとはっきり記録が残っている仏像は非常に少ないのです。

 

不運なことに現代ではあまり知られることがなくなった定朝さんですがやはり功績はものすごいもの。

 

今回はそんな定朝さんのプロフィール、そして仏像界に起こした革命、その独特のスタイルを紹介していきます。

 

まずは定朝のプロフィールを見てみましょう。

 

定朝ってどんな人?

お父さんも仏像造りの名人!

 定朝は日向守・源康行の子である康尚(こうしょう)の息子として生まれました。康尚は源氏に属する中流貴族の子息として平安時代中期に生まれ、尾張の介をつとめていましたが出家、仏像制作者に転身した人物です。

彼は日本で初めて自分独自の仏像制作工房を構えたと思われる人物で、たくさんの弟子を抱えていました。

それまでの仏像制作者はお寺につかえしながら、そのお寺専門に仏像を制作していました。しかし康尚は独立した工房をもつことによって、いろいろなお寺から自由に注文をとって仏像造りをするようになったのです。

 

仏像制作者で初めて「法橋」に

 そんな革新的なお父さんから生まれた定朝は、平安時代中後期の仏像制作者として人々からあつい信頼をあつめます。

 

 それはなぜかというと平安時代の人々はそれまでの仏像は、輸入したものやその真似に頼っていましたが、やっぱり「日本人独特の趣味には合わないかも」というと思っていたようです。

 

 そこで定朝は日本人好みの仏像を研究し、定朝のスタイルを確立しました。その結果、大人気になり、仏像のあるべき姿はこれだ!とみんなが思うようになります。

 

革新的な技法次々と生み出し、当時の貴族の間では定朝の作風が「仏の本様(仏像のお手本的存在)」と評価されました。定朝は非常に大きな工房を経営し、経済的にも成功。その結果、仏像制作者として初めて、本来はお坊さんの地位のひとつである「法橋」(上から3番目の位)が与えられました。

 

 その後1057年に亡くなるまで自身の工房を経営し、息子の覚助と弟子の長勢が引き続き日本の仏像制作を引っ張っていくことになります。

藤原道長とゆかりが深い!

 定朝が法橋になるのを後押ししたのは、あの藤原道長でした。実は、定朝は平安時代最高の権力者である藤原道長ととても縁が深いのです。

 

 定朝が初めて記録に現れるのも、道長に関連した記事です。1020年、道長が法成寺の無量寿院阿弥陀堂の阿弥陀像を作らせたとき、お父さんの康尚とともに定朝の名前が仏像制作者として載っているのです。つまり、このときすでに定朝は仏像制作者としてお父さんの跡継ぎ的存在として認められていたことがわかります。

 さらに翌々年の1022年、同じ法成寺金堂と五大堂の仏像制作の責任者ととして完成まで導いたことから、法橋に任じられます。

 法成寺は藤原道長が晩年に建てたお寺で、出家してからはそこに住んでいました。つまり、道長にとってとても重要なお寺だということ。

 

時の権力者の藤原総本家と結びついた定朝は、天皇や皇后のための仏像も制作し、高く評価されました。

 

 さて、そんな定朝の作った作品とはどんなものだったのでしょう。

定朝の仏像作品・特徴とは?

京都宇治・平等院鳳凰堂本尊「木造阿弥陀如来坐像」(国宝)

 残念ながら、定朝の作品として確実なものは平等院本尊の「木造阿弥陀如来坐像」しか残っていません。非常に貴重な定朝の作品なので、もちろん国宝に指定されています。10円玉の模様として日本に住んでいるなら誰でも目にしたことがある、手にしている、あの宇治の平等院鳳凰堂のご本尊です。修学旅行で行ったことのある人もいるかもしれませんね。

 

 この「木造阿弥陀如来坐像」は平安貴族の好みに合った優雅さと、仏像に求められる優しさを兼ね備えた仏像として現在でも高く評価されています。

 

 平安時代初期の仏像と比べると、彫りが浅いために繊細で穏やかな印象。これが定朝スタイルとして12世紀までずっと仏像のスタンダードとなっていくほど流行するのです。

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定朝の仏像の特徴:定朝様

上で紹介したように現在定朝の仏像とはっきり記録か残るものは平等院鳳凰堂の阿弥陀如来しかありません。

しかし定朝が作り上げたスタイルの仏像は平安時代後期の仏像制作において非常に大きな影響力をもたらしました。

この定朝さんスタイルの仏像を現代では「定朝様(じょうちょうよう)または定朝様式(定朝様式)」と言われます。

 

定朝様式とは…

  • 頬のまるい顔立ち
  • 穏やか
  • 全体にバランスがまとまり自然なプロポーション

 

現在でも文化財に指定されている仏像の多くでこの定朝が編み出した、定朝様式を伺うことができます。

みなさんも、仏像めぐりながら定朝様の仏像を見つけてみてください!

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仏像制作の大革命「寄木造り」を発明!

定朝の仏像のすごさは像の見た目だけではありません。定朝は寄木造り(よせぎづくり)を開発しました。

 

それまでの仏像は、上から下まで一本の木を彫りだして作っていました。一木造り(いちぼくづくり)ってやつですね。

でも、そのやりかたで大きな仏像を作るには、すごく大きな木を見つけてこないといけません。また、木の性質によっては反ったり割れたりすることも。

 定朝はそれを解決するため、いくつかの木材を組み合わせて作る「寄木造」や像の内部をくりぬいて軽量化、割れを防ぐ「内刳り」など、革新的な技法を発明しました。

 

寄木造りについてもっとわかりやすく言うとプラモデルのようなイメージです。仏像をプラモデルのように各部分部分ごとに制作し、最後にそれらをつなぎ合わせて一体の仏像を作るというものです。

これがどんな革命かというと、寄木造りは各パーツの専門家を置くことができる、つまり仏像制作の「分業化」です。

 

この分業化のメリットは、各パーツごとに職人を置くことができます。

例えば

・職人Aは目だけを作る仕事

・職人Bは仏像の手だけを作る人

このように各部分ごとに職人を置くことによって仏像制作を劇的に効率化ができます。

そしてこの効率化によって大量発注、大量生産に対応できることになりました。

 

これによって仏師の生産性が上がり定朝の仏像工房は大成功となっていくわけです!もしかしたら定朝の工房が今もあったらホワイト企業に認定されていたかもしれませんね。

記録されている他の定朝作品

 定朝の作品は、記録上はもっとたくさんあったようです。代表的なものは、上で説明した道長の法成寺の作品の他にもあります。

 例えば、1026年には道長の娘で後一条天皇の中宮である威子のお産祈願のため、等身大の仏像27体を、弟子を126人も動員して作ったと記録されています。この記録からは、定朝の工房がとても大規模だったことがうかがえます。

 

今でいっても126人もの従業員がいる会社の社長といえばかなりのもの。当時にすれば、相当エラい人だったということがおわかりいただけるでしょう。

 

 それでは、1つしか作品が残っていない定朝がどうして重要なのでしょう。その秘密は定朝の影響力にありました。

定朝から3つの仏像製作者の流派が誕生!

定朝は100人以上の従業員を抱える仏像制作工房のボスでした。当然、彼の弟子にもスター級の仏像制作者がたくさん。1人は息子の覚助(かくじょ)、もう1人は愛弟子の長勢(ちょうせい)でした。彼らから次世代を担う3つの流派が誕生しました。

定朝からの仏師の派生:院派(いんぱ)

 まず、定朝の息子覚助の系統に連なる「院派(いんぱ)」から見ていきましょう。院派は覚助の息子の院助(いんじょ)が興した系統です。この系統は控えめな人が多かったのか、仏像に作者の名前を彫りこんで自己主張したりすることがあまりありませんでした。そのため、確実にどの作品が誰の制作なのかがあんまりわかっておらず、研究も進んでいません。

 

 定朝の没後そのあとを引き継ぐような形で長い間仏像制作の世界に君臨します。その作風は定朝の流れをくむ優美で上品なものでしたが、しだいに型どおりの仏像を量産するだけになってしまったため、平安時代から鎌倉時代に移行した時、新しく権力を握った鎌倉武士たちの好みには合わず、だんだん衰えていきました。

定朝からの仏師の派生:円派(えんぱ)

 定朝の愛弟子長勢の系統に連なる「円派(えんぱ)」は京都を拠点として活動した仏像制作の一流派です。代々穏やかな作風で、伝統に忠実な仏像を制作していました。

 

 平安時代後期には院派につぐ勢力となり活躍しますが、院派と同じく鎌倉武士たちの好みではなかったようで、徐々に衰退していきました。

定朝からの仏師の派生:慶派(けいは)

 覚助の息子頼助(らいじょ)の系統に連なる「慶派(けいは)」は鎌倉時代に日本に革命を起こした流派です。そう、あの運慶・快慶の流派です。

 彼ら慶派は最初あまり実力がなかったらしく、京都にはいられず奈良に入って興福寺の専属仏像制作者となったようです。しかしその後、鎌倉時代に入って武士たちが台頭すると、仏像を注文する人も京都の貴族から鎌倉の武士たちに変わります。

そうすると、お客の好みも一変。ダイナミックでマッスルな慶派の仏像は一躍大人気に。もちろん、天才仏師運慶と快慶の活躍もこのころです。

 それ以降、江戸時代に至るまで日本の仏像の正統派として日本の仏像界を引っ張っていくことになったのでした。

 

 以上、定朝から出た仏像制作の3流派を見てきました。いずれも平安後期から一部は江戸時代までをカバーする日本仏像界のスターたちです。そんなスター集団を生み出した大元だからこそ、定朝は今でも高く評価されているんですね。

まとめ

 定朝は優雅で上品な作風によって藤原道長の大のお気に入りになり、その後の日本の仏像制作に大きな影響を与えました。

 現存する作品は平等院本尊の「木造阿弥陀如来坐像」だけですが、この作品だけでも定朝のすごさは一目瞭然。平等院に行った際は、ぜひ建物だけでなくご本尊もしっかりチェックしてみて下さい。

(参考)定朝の系統図