東京都稲城市・高勝寺の聖観音菩薩立像|卵型の顔立ちと重量感の観音像

多摩川を渡り、稲城の丘陵地へ入る。住宅が途切れ、林が増える。京王線の線路を右に見ながら、坂を少し登る。高勝寺の境内は、思ったより広かった。本堂の裏手には、樹齢千年という榧の大木が立っていて幹の太さが、視界を圧迫する。
本堂の左手に地蔵堂がある。扉を開けると、左手に厨子。その中に、目的の観音が立っていた。
高勝寺・聖観音菩薩立像:卵型の顔と、下半身へ落ちる重量
厨子の中、少し奥まったところに立つ。像高は155センチ。正面に向かって、顔が浮かぶ。顔の輪郭が卵型だ。眉から頬へ、丸みを持って流れる。鼻筋は通っているが、細くはない。両目は伏せ気味で、鼻梁に寄っている。口元は小さく、唇が薄い。顎がふっくりと丸い。全体として、穏やかというより、静止した空気を纏っている。

体躯を見る。肩幅は狭くない。だが胸の厚みが薄く、腰から下へ、重心が移っている。衣文が、下半身に向かって鋭角に刻まれている。特に腰回りから太腿、膝へかけて、深く彫り込まれた線が複数走る。平安末期の地方仏師の手癖だろうか。彫りが荒い。だがその荒さが、木の重さを感じさせる。
一木造で、内刳りはしていない。ケヤキの塊から、一気に彫り出した。頭部から体幹、足元まで、木目が通っている。肉身は漆箔、衣には彩色が施されていたはずだが、今はほとんど剥落している。下地だけが、うっすらと残る。
右手は垂下し、掌を前に向ける。左手は前に曲げ、蓮華を持つ。天衣が肩から垂れ、両腕にかかり、外側へ流れる。肘から先と足先、持ち物は後補。だが全体の均衡は、壊れていない。
この像には「鶏鳴観音」という別名がある。修復のため浅草へ運ぼうとした際、夜明けを告げる鶏が早く鳴き、仏師の家の火事から観音が難を逃れた、という伝承だ。実際に運ばれたかどうかは分からない。だが、誰かがこの像を背負って運ぼうとして、重すぎて途中で降ろした、という別の話もある。一木造の重さは、想像以上だ。

仏像リンク編集部MEMO 📝

この聖観音菩薩立像は、東京都指定有形文化財に指定されています。制作は平安時代後半、12世紀前半頃と推定されており、藤原時代末期の特色が見られます。ケヤキの一木造で、内刳りを施さないという古風な技法が用いられています。
顔立ちがやや細面で、両眼が鼻梁に接近しているのは、定朝様式とは異なる地方的な特徴です。伏目の穏和な表情や、浅めの衣文線には平安後期の美意識が反映されていますが、下半身に向かって重量が落ちる独特の量感表現は、地方仏師の雰囲気を思わせます。
もともとは末寺の妙福寺の本尊でしたが、明治の廃仏毀釈で妙福寺が廃寺となり、高勝寺へ移されました。現在は地蔵堂に安置され、17世紀末から18世紀初頭に制作された厨子に納められています。この厨子も貴重な文化財です。
名称: 木造聖観音菩薩立像(東京都指定有形文化財)
時代: 平安時代末期(12世紀前半頃)
像高: 155.5cm
材質: ケヤキ材・一木造・内刳りなし・漆箔(剥落)・彩色(下地のみ残存)
特徴: 伏目の穏和な表情、卵型の顔立ち、両眼が鼻梁に接近、下半身に向かう重量感、鋭角的な衣文線、肘から先・足先・持ち物は後補

観音菩薩像|17世紀末から18世紀初頭の厨子に納められる
高勝寺・胎蔵界大日如来坐像
本堂の内陣には、金色の大日如来坐像が祀られている。胎蔵界の大日如来を本尊とするのは、真言宗寺院でも珍しい。通常は金剛界の大日如来、または薬師如来・阿弥陀如来が本尊となることが多い。
像高は約120センチ。坐像で、定印を結ぶ。金箔が施され、堂内の光を受けて鈍く光る。制作年代は不明だが、江戸期の補作と思われる。
仏像リンク編集部MEMO 📝

真言宗の教義では、大日如来は宇宙の根源的な仏であり、金剛界と胎蔵界の二つの側面で表現されます。金剛界は智慧の世界、胎蔵界は慈悲の世界を象徴します。高勝寺が胎蔵界を選んだ背景には、慈悲を重視する地域信仰の影響があったのかもしれません。
高勝寺・釈迦涅槃像:触れることのできる親しみ
本堂の内陣の隣室に、釈迦涅槃像が安置されている。横たわる釈迦の姿。身体が、テカテカと光っている。長年、人々が触れてきた痕跡だ。
この像には特殊な仕掛けがある。釈迦の手を取り外すことができる。参拝者は取り外した手を自分の身体の患部に当て、治癒を祈る。昔はこの像にまたがって遊ぶ子供もいたという。信仰と生活が、地続きだった時代の名残だ。
仏像リンク編集部MEMO 📝

涅槃像は釈迦の入滅の姿を表したもので、全国の寺院に数多く伝わりますが、手を取り外せる構造は極めて稀です。高勝寺が地域の人々に開かれた寺であったことの証左と言えるでしょう。
高勝寺・岩船地蔵尊:日本三体の霊仏伝承
地蔵堂には、岩船地蔵尊が祀られている。金色の宝珠の中に、小さな地蔵菩薩が納められている。像高は約24センチ。弘法大師の作と伝えられる。

仏像リンク編集部MEMO 📝

前立の地蔵像も安置されており、こちらは本尊と同じ大きさとされています。地蔵信仰は庶民に広く浸透しており、高勝寺も地域の信仰の中心として機能してきました。
お寺の歴史と伝承

木造の地蔵堂正面、境内風景

高勝寺は、今から650年以上前の応安元年(1368年)、学僧鎮海和尚によって開かれました。この年は南朝長慶天皇の御代にあたり、足利義満が征夷大将軍に就任した年でもあります。鎮海和尚は応安八年(1375年)に遷化しました。
室町時代から江戸時代にかけて、高勝寺は京都の仁和寺の直末寺として栄え、中本寺格を持つ有力寺院でした。周辺には20数ヶ寺の末寺を擁し、地域の宗教的中心として機能していました。法皇門跡寺院である仁和寺との繋がりから、皇室より菊の御紋章の使用を勅許され、内陣の水引には十六弁の菊の紋章が縫い取られていました。
明治の廃仏毀釈では法難を乗り切りましたが、末寺の一つであった妙福寺は廃寺となり、その本尊だった聖観音菩薩立像が高勝寺へ移されました。この観音像には、泥棒が盗もうとしたが重すぎて途中で諦め、妙福寺に安置したという伝承もあります。また「鶏鳴観音」という別名は、修復のため浅草へ運ぶ際、一番鶏が早く鳴いたおかげで仏師の家の火事から難を逃れたという言い伝えに由来します。
本堂裏手には、樹齢千年と推定される榧の大木が立っています。高さ約25メートル、幹周6メートルという都内最大級の榧で、東京都指定天然記念物に指定されています。境内には他にも古木が多く、牡丹・石楠花・紫陽花などの花が四季折々に咲き、「この世の浄土」を思わせる景観を作り出しています。
主な歴史年表
平安時代後半(12世紀前半頃) – 聖観音菩薩立像が制作される
応安元年(1368年) – 学僧鎮海和尚により創建
応安八年(1375年) – 開山鎮海和尚が遷化
応永二十一年(1414年) – 本堂右方の墓所に古碑が建立される
天正十年(1582年) – 妙福寺の開山僧師祐が遷化
寛文九年(1669年) – 弘法大師筆「心経一部」が当寺へ寄附される
17世紀末〜18世紀初頭 – 聖観音像を納める厨子が制作される
江戸時代 – 末寺6〜20数ヶ寺を擁する中本寺格の寺院として栄える
明治時代 – 廃仏毀釈を乗り切る。妙福寺廃寺により聖観音像が移される
昭和初期 – 法皇門跡寺院・仁和寺直末として菊の御紋使用が許されていた
昭和戦後 – 老朽化した本堂を新築
境内を出る際、京王線の電車が横を通過した。線路沿いの寺。だが堂内は静かだった。観音の顔は、卵型で、重い。その重さが、木の塊から来るのか、それとも時間の堆積から来るのか、判断はつかなかった。坂を下り、多摩川へ戻る。曇り空の下、水面が鈍く光っていた。

岩船山高勝寺の拝観料金、時間、宗派、電話など
正式名称 | 岩船山大智院高勝寺(こうしょうじ) |
宗派 | 真言宗豊山派 |
住所・アクセス | 〒206-0822 東京都稲城市坂浜551 JR南武線「稲城長沼駅」または京王相模原線「稲城駅」よりバス「駒沢学園入口」下車、徒歩7分 京王相模原線「若葉台駅」より徒歩22分 |
電話 | 042-331-1303 |
拝観時間・拝観方法 | 拝観には事前の問い合わせが必要です |
拝観料金 | 志納 |
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