東京文化財ウィークの裏側で品川区にある海蔵寺の仏像が特別に公開されるという話を聞きつけて、当日は子供の幼稚園のイベントが午前中にあったが、猛ダッシュでやるべきタスクを片付け、子供の手をなかば強引に引っ張って、大井町へ向かった。(子たちからは、なんでもっと幼稚園で遊ばせてくれないんだ!とクレームをいただきました。。子たちよ、ごめん!)
大井町駅から徒歩約15分、大井町の昭和の匂い溢れる商店街を抜けてゼームス坂と国道第一京浜が交わるところにある海蔵寺へ向かう。近くには京急新馬場の駅があり周囲は東京都心へと続く主要幹線道路の雰囲気を漂わせている。
私は元々、青物横丁の近くで勤務していたので、この周辺は馴染みが深かった。なんといってもこの新馬場の駅前には「東京いまむら」という、こだわりの強い店主が営むラーメン店があり、当時は食べログでの評価が3.8もあるという超高評価なラーメン屋だった。 自分はそこの冷やしラーメンを食べるために青物横丁の職場から徒歩20分かけて新馬場駅のいまむらに通っていた。
東京いまむらは気づけば閉店し、自分も会社が移転となったので、この大井町や京急線沿線に来ることはほとんどなくなったが、数年ぶりに来てみても当時の街並みは今もかわっていなかった。会社への通勤する途中で毎日コーヒーを買っていたコンビニに立ち寄ってみると、当時の店員さんがまだ店に立ってらっしゃって「変わっていないなぁ」と懐かしい気分に包まれながら海蔵寺に到着した。
この辺りには 数多くの小さな寺が広がっており、いまむらでラーメンを食べた後によくお寺の境内で
コーヒーを飲みつつ休憩をしていたが、ひょっとすると今回の海蔵寺はそんな お寺になっていたかもしれない。
山門をくぐってお堂の中に入っていく。想像していたよりもとても小さなお寺だった。
本堂の前には清泉女子大の学生さんたちの小さな受付台がありそこで名前を記載し、パンフレットをもらって本堂の中に入っていく。本堂の内陣と外陣の間にある、賽銭箱の隣に目的であった菩薩坐像が祀られていた。
目的の菩薩坐像は 明らかに一木造りであるというのがわかる 平安時代前期11世紀の菩薩坐像であると推測されている。像高は66.3cm、肉体の表現もかなり重厚に作られていて像高以上の迫力を見せている。
清泉女子大の学生さんのお話によるとこの仏像はもともと海蔵寺の檀家の方が昭和の初めの頃に寄進したものだという。ずっと本堂の裏側にポツンと置かれていたそうだ。
仏像の詳細については山本勉さんによるパンフレットをいただきました。パンフレットによると、
下向きに浅く弧を描くように表した目の形や、鼻柱の太いところ口元が小さいところなどはすでに平安時代後期に入った10世紀末から11世紀前半の滋賀、京都周辺の作例と共通します。衣のひだの彫りが浅くなっているところも含めこの像の制作年代は11世紀前半を中心に考えて良いと思います。
この像は菩薩像ですが1枚の衣で左肩を覆い 右肩を露出してつけるのはインドにさかのぼる如来像の衣の付け方ともあってこの仏像が何という仏像であるか、菩薩像なのか如来像なのかということも含めて今は決めることができません。
平安時代初めに中国から入った密教という仏教の宗派がもたらされた時に存在しながらその後日本では定着しなかった特別な仏像の姿を伝えているのかもしれません。
この像のように頭上の冠を本体と同じ木から掘り出した一木造りの仏像は京都の周辺地域で平安時代前期から後期にかけて10世紀・11世紀を中心とした時期に多く作られており、やはり密教が展開していく時期にあってもこの系統の像は一木造という古い伝統を意識的に残してるというので、その点でもこの像はその系統に位置づけられている。
背中からも眺めることができ、非常に美しい衣のひだが広がっており、しばしの間子供をいなしながらも見とれていた。
この日は仏像リンクのメンバーもこの菩薩像を拝観しようと皆さん集まっていたようで、正味30分ほどの滞在だったにも関わらず10人ほどの仏像リンクメンバーにお会いした。この菩薩像が引き合わせてくれたご縁に感謝。
あんなにもお寺に行く途中は行くまでは重い足取りだったにも関わらず、早く帰りたがっている子供の帰りたがっていた子供の足は非常に早かった。。
海蔵寺の拝観料金、時間、宗派、電話など
正式名称 |
深広山 無涯院 海蔵寺 |
宗派 |
時宗 |
住所 |
東京都品川区南品川4丁目4−2 |
電話 |
03-3474-8370 |
拝観時間・料金 |
非公開 |
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