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No.55:京都府・平等院鳳凰堂の仏像/阿弥陀如来坐像(定朝作)、雲中供養菩薩像、ご朱印など

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京都府の南、宇治市にある「平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)」は、世界遺産にも登録されていますし歴史の教科書にも出てくるので知っている人も少なくはないハズ…!

でもたぶんこの鳳凰堂の建物は毎日のように目にしています。といいますかみなさん持っているんですよ!

そう、10円玉の裏面に描かれている建物が今回紹介する平等院鳳凰堂です。

皆さんもきっと「そんなこと知っているよ」というのではないかと思います。

でも「平等院鳳凰堂っていったいどんな建物なの?」、「何故この場所に建てられたの?」、「何故このような建物や庭園が造られたの?」などということをご存知の方は少ないでしょうね。知っているとこの建物や仏像などを拝観するとその見方が変わってくるかもしれません。

鳳凰堂っていったいどんな建物なの?

屋根の上に不死鳥「鳳凰(ほうおう)」の飾りがついていますし、鳳凰が翼を広げた姿を模して建てられた建物といわれ、「鳳凰堂」と名前がつけられていますが、正式には阿弥陀様をおまつりする「阿弥陀堂」です。鳳凰堂という名前も江戸時代頃から使われだした名前で、それまでは阿弥陀堂とか御堂(みどう)と呼ばれていました。

このため、このお堂には阿弥陀如来像が祀られています。阿弥陀如来様は人々を極楽浄土の世界に導いてくれる仏様です。

平等院鳳凰堂の敷地内に平等院ミュージアム鳳翔館という建物があります。

 

この中に、当時の人々が考えていた極楽浄土の様子が絵に描かれていますが、

絵に描かれている「阿弥陀如来の宮殿」がこの鳳凰堂とそっくりです。

何故この場所に建てられたの?

皆さんは紫式部が書いた源氏物語(1008年頃完成?)は知っていますよね。

その主人公である女性にモテモテの貴族「光源氏」には実際のモデルがいたといわれています。その有力な一人が左大臣の源融みなもとのとおる)という人物です。源融は嵯峨天皇の12男で嵯峨源氏の一人。この源融の別荘が、9世紀末頃にこの場所にあったのです。

何故こんな場所に別荘なんだろう?と不思議なのですが、平安時代には京の都では貴族が優雅に暮らしておりましたが、京都の南のこの宇治の地は昔から寒い京都の町に比べて暖かく、別荘に適していたと考えられます。宇治茶で有名なくらいですしね。

多くの金持ち平安貴族が別荘を構えていたのです。

しかし時代を経て、その別荘が宇多天皇(うだてんのう)に渡り、その後、天皇の孫である源重信(みなもとのしげのぶ)を経て998年に摂政(せっしょう)藤原道長(ふじわらのみちなが)にわたって、別荘の名前は「宇治殿」となりました。

宇多天皇の子孫が皇室を降りて宇多源氏となります。まあ当時はそれより力を持っていたのが藤原氏で、道長は最大の権力者でした。

そして栄華を極めた藤原道長が1027年末に没すると、その後を引き継いだ子供の関白藤原頼通(ふじわらのよりみち)が1052年にこの「宇治殿」を寺院に改め「平等院」にしました。

平安貴族の別荘が何度も転売されて、最終的には一番力のある人の所に行って、このような立派な御殿ができたのですね。摂政(せっしょう)というのは幼い天皇に代わって政治を行う代理役ですが、実際には一番権力がありました。

何故このような建物や庭園が造られたの?

この問いに答えようと思うと、当時の仏教思想の時代背景を知らなければなりません。皆さんは末法思想というのをご存知ですか?

お釈迦様は自分の死後を予言していました。インドや中国などでもこの予言の解釈や年号などの数え方に違いがありますし、御釈迦様が入滅したという年もかなり違っています。しかし当時の日本では入滅して500年(または1000年)間は教えが正しく実践される「正法(しょうぼう)」、次の500年(または1000年)間は修業する者はいるが、真の悟りを開く者がいないという像法(ぞうぼう)の時代が続くとされ、そして最後に末法(まっぽう)という時代がやってくると考えられていました。

この末法になると正しい仏の教えは滅び、人も世も最悪となっていくというものです。これは主に浄土宗で広がっていった考え方で、この末法が始まるのが1052年だといわれていました。この末法元年にこの鳳凰堂は建立されたのです。

末法時代になったら正しい仏の教えをつたえる悟りを開く者がいなくなる。そうなったらどうすればいいのか?誰があの世の極楽浄土に導いてくれるのか?一心にお祈りしても成仏できないのか?そうなのはやはり嫌ですよね。

ですから、極楽浄土の主である強力な救いの力を持った「阿弥陀如来」にすがって導いてもらおう! となるわけです。

そしてこの阿弥陀如来を祀る「平等院鳳凰堂(阿弥陀堂)」が建てられ、西方浄土(日が沈む西の方向に極楽浄土の世界があると考えられていました)の世界を模した極楽庭園を一緒に作ったのです。

この末法思想も、しばらく経つとまた正しい「正法」の時代がやってくるので、それまで正しいといわれている経典などを地中に埋めてその「末法の時代が過ぎるのを待とう」などという考え方も同時に起こっています。

これは仏教の経典などを金属や陶器または石の容器の中に入れて地中に穴を掘って埋めたのです。この容器は「経筒(きょうづつ)」と呼ばれ、のちの世に各地で発見されています。またこれらが埋められた場所は「経塚」などと呼ばれています。また小石にお経を書いて埋めたものも経塚と呼ばれます。親鸞などが小石にお経を書いて埋めたとされる経塚なども各地にありますが、こちらは残すというよりもお経の文字を小石に一字づつ書いて、地下に埋めるということで死者の霊を鎮めるためにおこなったとみられます。

上の写真は、左が渥美焼きの外壺、右の小さな筒が銅製の筒(平安時代?)です。この写真は私の近くの寺で公開された経筒です。博物館などでは時々公開されています。

ちなみにもっとも古い経筒、経塚は、藤原道長が大和国金峰山に造営した金峰山経塚といわれ、寛弘4年(1007年)在銘の経筒が見つかっています。ここにも道長が出てきますね。

こちらは経塚と同じですが、経典の字を1字1石で書いて埋めたものです。

平等院へのアクセス

平等院鳳凰堂には「京都駅」からJR奈良線で宇治駅」下車、徒歩10分です。

大坂の方からなら 京阪電鉄でも京阪宇治駅まで電車が出ています。JR宇治駅と京阪宇治駅は宇治川を挟んで両側にあります。

JR宇治駅の南口を出ると大きな案内地図がありますので、確認していきましょう。平等院入り口参道には御茶屋さんなどいろいろな出店が並んでいます。さすが茶どころ宇治ですね。

また、この平等院鳳凰堂のすぐ裏手には「宇治川」が流れています。この宇治川は琵琶湖から大阪湾に流れる川で、滋賀県側は「瀬田川」といい、京都府に入ると「宇治川」となり、大阪府では「淀川」と名前が変わります。

この宇治川に架かる宇治橋のJR宇治駅側には「夢浮橋之古蹟」碑と「紫式部の像」が置かれています。

平等院はなんといっても朱色に染まる鳳凰が翼を広げたような「鳳凰堂」が庭園の池に映る姿が見所でしょう。この池の周りは一周できますのでいろいろな角から建物を見ることができます。

また紅葉の時期などには鳳凰堂の夜間ライトアップも行われています。これも光に浮かび上がった鳳凰堂が池に映って見事な世界が広がります。1994年に世界遺産に登録され、2012年から2014年に1年半かけて鳳凰堂が大修理され、一段と色鮮やかになりました。

鳳凰堂の内部拝観は別料金がかかります。また数十分おきに案内がありますのでその時間に合わせて説明を聞いてから内部に入ります。

宇治にはその他に、平等院と宇治川を挟んで対岸にもう一つの世界遺産「宇治上神社」があります。

また京阪の宇治駅に近い側に「源氏物語ミュージアム」もあり、平等院側とは違った静かなエリアが広がっています。

このあたりは源氏物語後半に出てくる「宇治十帖」の舞台なのです。

この宇治川沿いからこれらの建物を巡る道には「さわらびの道」と名づけられた道が整備されています。「さわらび」とは「早春のわらび=早蕨」のことで、源氏物語第48巻の巻名です。

「源氏物語ミュージアム」では源氏物語の宇治十帖に登場するシーンを再現した人形や建物模型、資料などが展示されており、大きなスクリーンに20分ほどの映画も上映されています。源氏物語に興味のある方はこちらにも是非お立ち寄りになることをお勧めします。

平等院の歴史

平等院は、京都府宇治市にある藤原氏ゆかりの寺院です。この京都南部にあたるこの宇治の地は平安時代初期のころから貴族の別荘が多くあった場所なのです。

998年に摂政藤原道長(ふじわらのみちなが)がここにあった別荘を手に入れて「宇治殿」と命名しました。

そして道長の死後、子供の関白藤原頼通(ふじわらのよりみち)が1052年にこの「宇治殿」を寺院に改め「平等院」にしました。開山は小野道風の孫である園城寺(三井寺)の長吏となった天台宗の僧「明尊(みょうそん)」です。

この創建時には、本堂は、鳳凰堂の北方、宇治川の岸辺近くにあって、大日如来を本尊としていたといわれています。1052年は末法元年といわれていましたので、この平等院建立には当時の末法思想が大きく関係していると、前に説明しています。そのため、この平等院に翌年の1053年に西方極楽浄土を模した浄土式庭園阿弥陀堂が建立されました。この阿弥陀堂が現在の鳳凰堂です。この阿弥陀堂(鳳凰堂)には、平安時代の最高の仏師定朝(じょうちょう)によって制作された丈六の阿弥陀如来坐像が安置されています。

宗派は17世紀以来天台宗と浄土宗を兼ね、現在は特定の宗派に属さない単立の仏教寺院です。

(1052年)は、当時の思想ではまさに「末法」の元年に当たっており、当時の貴族は極楽往生を願い、西方極楽浄土の教主とされる阿弥陀如来を本尊とする仏堂を盛んに造営した。しかし、平安時代の平等院はこの鳳凰堂だけではなく、本堂には密教の主尊である大日如来が安置され、他にも不動堂、五大堂、愛染堂、多宝塔など、密教系の仏像を安置する堂塔が建ち並んでいたといわれています。

南北朝時代の争乱(1336年に楠木正成と足利氏の軍勢の戦いの兵火など)で、それらの建物は焼け、この鳳凰堂(阿弥陀堂)だけが焼け残ったのです。

平安時代後期の京都では、皇族・貴族が建てた大きな寺院がたくさんありました。たとえば、道長が1020年に建てた無量寿院(のちの法成寺)や、11世紀後半から12世紀にかけては白河天皇勅願の「法勝寺」をはじめ「尊勝寺」「最勝寺」「円勝寺」「成勝寺」「延勝寺」といういわゆる「六勝寺」が今の京都市左京区岡崎付近に建立されたといわれています。でもこれらの寺院はほとんど消失してしまい、堂内に安置されていた仏像、壁画、庭園などほとんど残されていません。このためこの平等院が当時のそれらのものが残っている唯一の史跡といっていいでしょう。

平等院の仏像の詳細

阿弥陀如来坐像 【国宝】(平安時代 1053年製作)〈定朝作 寄木造漆箔、像高284cm〉

阿弥陀如来像(国宝)は仏像の寄木造りの手法の完成者といわれている仏師定朝(じょうちょう)が造ったものです。

実は定朝が造ったとされる仏像の多くが戦火などでなくなっていて(例えば法成寺<藤原道長が建立>などの仏像)、定朝作ではないかといわれる像はいくつかありますが、実際に確証されているのは定朝の晩年に製作したこの阿弥陀如来像だけなのです。

阿弥陀像内に納められていた「木板梵字阿弥陀大小呪月輪(もくはんぼんじあみだだいしょうじゅがちりん)」と「木造蓮台」はこの仏像の附(つけたり)として国宝指定となっています。

円満な面相、浅く流れる衣文などを特色とする定朝の優美で温和な作風は、「仏の本様」と称されて平安時代の貴族にもてはやされ、以後の仏像彫刻には定朝様(よう)が流行しました。

仏師定朝が確立した仏像などの彫刻様式はその後「定朝様(じょうちょうよう)」とよばれ、それまでの中国唐の仏像製作を模した方式から日本独自の和式仏像様式に変わったといわれるそれ以降の慶派などの仏像つくりにも大きな影響を与えているのです。定朝は仏像彫刻の寄木造方式完成者とも言われますが、実は「尊容満月の如し」と言われるその仏像の姿なのです。そう、満月のようにふっくらしてやさしく優雅で、そしてなによりも、そっと目を閉じて静かに思いにふけるような瞑想的(めいそうてき)な表現なのです。

 

定朝の造る仏像の特徴は、次の2つと言われています。

・服の皺(しわ)などの彫りは浅く、また文様は優雅に流れるように平行になっていること

・円満な表情とバランスのとれた体型で、瞑想的でちょっと眠そうな顔をしていること

これらは当時の優雅な貴族社会にとってたちまちのうちに受け入れられていったようです。この流れは鎌倉時代初期まで続き、慶派仏師などへも大きく影響を与えていきました。この慶派では勇ましさ、たくましさ、それになんといっても生き生きとした表情などが新たに加わっていったのです。

ではこの鳳凰堂の阿弥陀如来像を見てみましょう。

定朝の浅い彫りの衣に平行で流れるような文様が見て取れます。

また顔もふっくらとして優しい感じです。一番特徴的なのは目の表情でしょうか。

奈良時代の仏像の目はもっとキリッとした感じだったように思います。こちらは眠たそうな? でもこれは瞑想にふけっているお姿なのです。

印相は定印(膝上で両手を組む)で、密教の両界曼荼羅の阿弥陀如来の結ぶ印です。阿弥陀像の像内は普段見えませんが、ベンガラで朱色に塗られています。これは、両界曼荼羅の金剛界五仏に五色を配当する際、西方阿弥陀を紅玻璃色(ぐはりじき、赤色)とすることに対応するといわれています。

また阿弥陀像の像内には阿弥陀の大呪・小呪を書いた月輪(がちりん、円板)が納められていて、この阿弥陀像が密教の修法である阿弥陀法の本尊像でもあることを意味しているとされています。

雲中供養菩薩像(うんちゅうくようぼさつぞう) 52躯 【国宝】(平安時代 1053年製作 ただし鎌倉時代の補作もあります)

本尊が安置されている中堂の長押(なげし)上の壁に飾られた、楽器を奏で、舞いを舞う姿の供養菩薩像の浮き彫り(現存52体)です。いずれの像も飛雲に乗っているため、阿弥陀如来と共に来迎する菩薩像を表したものとみられています。

国宝に指定されています。 各像のポーズは、琴、琵琶、縦笛、横笛、笙、太鼓、鼓、鉦鼓などの楽器を奏する像が27体、他には合掌するもの、幡や蓮華などを持つもの、立って舞う姿のものなどがあり全部で52体です。1053年当時にもっとたくさんあったかもしれませんが、何対あったのかは不明です。

また現在52体のうち半数の26体が鳳翔館に移されています。

平等院のご朱印

平等院の拝観料金、時間、宗派、電話など

正式名称

朝日山平等院

宗派

単立寺院

住所

〒611-0021  京都府宇治市宇治蓮華116

電話

0774-21-2861

拝観時間

鳳翔館開館:9:00~17:00(入館受付16:45まで)
拝観: 9:30~16:10 鳳凰堂拝観は20分毎に1回40名の人数制限有

拝観料金

庭園、ミュージアム:(大人)600円、(中高生)500円、(小学生)300円

鳳凰堂内部拝観:(お1人様)300円

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