房総半島の南端、千倉の町から内陸へと車を走らせる。潮の香りが遠のき、周囲を低い山々が囲み始めたあたりで、道は緩やかに上り始める。高倉山實相院真野寺。かつて山頂にあったというこの古刹は、今も山裾の静かな斜面に身を置いている。駐車場に車を止めると、境内のあちこちで桜の花が咲き誇っていた。枝垂れ桜、八重桜。それらの淡い彩りが、山寺の乾いた空気を柔らかく包み込んでいる。

祈祷殿から漏れる大勢の読経の声を背に、ややきつめの坂を登る。一段ごとに、日常の騒がしさが足元から剥がれ落ちていく感覚があった。

真野寺|桜の花に包まれた境内の入口と上り坂
真野寺|桜の花に包まれた境内の入口と上り坂

真野寺・木造千手観音立像:仮面の奥に秘めた静かなる霊威

本堂の正面、厨子の扉が開かれていた。視線が一点に止まる。覆面を被った千手観音さんだ。かつて千葉市の美術館「仏像半島」展の展示室で対面したときは、その異様な姿に足が止まった。だが、この堂内の薄暗がりの中で向き合うと、驚くほど自然にその空間に溶け込んでいた。逆三角形を描く、水泳選手のようなたくましい上半身。

肩の張りは強く、腰の位置が高い。そのシルエットは、長きにわたりこの地を厳しく監視し続けてきた緊張感を孕んでいる。行道面の奥に隠された素顔を想像する。厳しい罰を下すと恐れられた顔は、実はどこまでも穏やかなのではないか。

鉄壁の布陣を敷く諸尊の中心で、その像はただ静かに、在るべき場所に在った。

木造千手観音立像|三十二臂を広げ行道面を被った神秘的な正面近影
木造千手観音立像|三十二臂を広げ行道面を被った神秘的な正面近影

仏像リンク編集部MEMO 📝

仏像リンク編集部
仏像リンク編集部
全国でも類例のない「覆面」の観音さんです。その独特な姿に込められた伝承も合わせて解説しますね。

行基の作と伝えられるこの千手観音さんは、あまりに霊威が強く、邪心を持つ者に厳しい仏罰を下したため、その力を抑えるために仮面(行道面)を付けるようになったと言われています。平安時代後期の定朝様式の影響を色濃く残す優美な体躯と、後世の優れた技法による面の組み合わせは、この寺が重ねてきた信仰の厚さを物語っています。

仏像カルテ<千手観世音菩薩>

名称: 木造千手観音立像(千葉県指定有形文化財)

時代: 平安時代後期(12世紀)

像高: 約172.5cm

材質: クス材(※ケヤキ材の記載あり)

特徴: 1本のクス材から造った一木造。頭体幹部は天衣遊離部・両足まで1材から彫り出し、内刳りを施さない古風な構造。定朝様式の影響をみせる。伏し目で静隠な相貌、浅い衣文の線、腰高で軽快な体躯の均等。常に覆面(行道面)で顔を隠している。

真野寺・木造大黒天立像:大地をしっかりと踏みしめる古式の神威

木造二十八部衆立像|左手に宝塔を捧げ持つ小像の緻密な造形

本尊の右側には、がっしりとした体躯の大黒天像が控えている。私たちが日常的に目にする、福々しく笑う大黒天さんとは明らかに一線を画す。中世以前の厳しい神としての風格が色濃く残っている。狩衣を纏い、頭巾を被った体は厚みがあり、どこか武骨で、揺らぎのない強さを感じさせる。一刀三礼により彫られたというその表情は、慈しみの裏側に鋭い眼差しを秘めているようだ。長い年月を経て、木肌が露出したその質感は、この地で重ねられてきた祈りの厚みを物語っている。大地をしっかりと踏みしめる足元に、背筋が伸びた。

仏像リンク編集部MEMO 📝

仏像リンク編集部
仏像リンク編集部
「朝日開運大黒天」として親しまれるこの像は、関東地方に残る古像としては最大級の大きさを誇ります。

貞観二年(860年)、慈覚大師円仁が朝日の昇る中に現れた大黒天神を感得し、自ら刻んだものと伝えられています。一般的な大黒天のイメージが定着する以前の、古式な姿を今に伝える貴重な像です。その力強い佇まいは、開運の神としての揺るぎない実在感を放っています。

仏像カルテ<大黒天>

名称: 木造大黒天立像(千葉県指定有形文化財)

時代: 鎌倉時代

像高: 144.2cm

材質: クス材

特徴: 一木造。ふくよかな顔に頭巾を被り、狩衣を着て岩座に立つ。中世以降の大黒天像容に近いが、どこか厳しさを感じさせる表情には古式の特徴が伺える。関東地方に残る古像としては最大級のもの。

真野寺|境内に咲く桜と古い石碑の調和
真野寺|真野大黒絵馬

堂内を守護する諸尊:地蔵菩薩と二十八部衆の静かな対峙

本尊の周囲は、多くの守護神たちによって固められている。左右には、南北朝時代に造立された二十八部衆の小像たちが立ち並び、それぞれが瑞々しい生命感を放っていた。その手前には、平安時代まで遡るのではないかと思われる地蔵菩薩さんが立っている。丸みを帯びた頬、シンプルかつ流麗に流れる衣文。その古風な姿は、空間に静かな深みを与えている。

木造観音菩薩立像|円光背を背負い静かに佇む平安の趣
木造地蔵菩薩立像|円光背を背負い静かに佇む平安の趣

さらにその脇を固めるのは、二天像。それぞれの憤怒の表情には、確かな彫りの力強さが宿っている。かつては四天王だったのではないかというその像は、欠落したものへの想像力を掻き立てると同時に、今も変わらぬ守護の意志を伝えてくる。空間の密度は高く、それでいて清冽な風が通り抜けるような心地よさがあった。

木造持国天立像|腹部の獅子面意匠と重厚な甲冑の表現

木造持国天立像|腹部の獅子面意匠と重厚な甲冑の表現

木造増長天立像|右手に剣を高く掲げる力強い武将形
木造増長天立像|右手に剣を高く掲げる力強い武将形

仏像リンク編集部MEMO 📝

仏像リンク編集部
仏像リンク編集部
本尊の周囲を固める諸尊の多様さも、真野寺の大きな魅力の一つですね。

真野寺の本堂内には、県指定文化財の二十八部衆立像をはじめ、多くの仏像が安置されています。地蔵菩薩立像は、その古風な作風から平安時代まで遡るものと考えられ、穏やかな表情が印象的です。二天像についても、近年の調査で本来は四天王像として作られた可能性が指摘されるなど、歴史的な発見が続いています。

仏像カルテ<二十八部衆>

名称: 木造二十八部衆立像(千葉県指定有形文化財)

時代: 南北朝時代初期(1335年)

像高: 約45~74cm

材質: ヒノキ材

特徴: 一木造。仏師・上総法橋の作。鎌倉時代の写実的な表現を引き継いでいる。胎内に墨書があった。

仏像カルテ<二天像>

名称: 木造天王立像(南房総市指定有形文化財)

時代: 平安時代後期

像高: 阿形像約173cm、吽形像約172cm

材質: ヒノキ材

特徴: 一木造。甲冑を着用して憤怒相を表した武将形の天像。当初は四天王像であった可能性が高い。

その他の見どころ

本堂内には、修復を待つ像や、静かに時を刻む古い仏たちが他にも安置されている。堂内の隅には、不動明王さんと阿弥陀如来さんが並び、かつての彩色の名残が赤い背景の中で浮き上がっていた。境内の外へ出ると、再び春の光が視界を白く飛ばす。古い石碑の傍らで、桜の花びらが風に舞っていた。

真野寺|本堂内陣に並ぶ諸尊の静かな佇まい

おみくじ箱の中に猫|これが見れただけで大吉以上である

お寺の歴史と伝承

仏像リンク編集部
仏像リンク編集部
千年以上の歴史の中で、源頼朝や北条義時といった歴史上の人物とも深く関わってきたお寺です。

真野寺の歴史は、今を去る千百有余年前、神亀二年(725年)に行基菩薩によって開山されたことに始まります。当初は高倉山の山頂にありましたが、建永元年(1206年)の火災により焼失しました。その後、大黒天への信仰が厚かった北条義時公が私財を投じて現在地に再建し、山号もそのまま引き継いだと伝えられています。源頼朝公が源氏再興を祈願し、成就した際に法華経を寄進したという伝承も残っています。大正時代に関東大震災により倒壊しましたが、昭和五年に現在の本堂が落成し、今も房総の信仰の拠り所として大切に守られています。

主な歴史年表

神亀二年(725年):行基菩薩により高倉山頂に開山。

貞観二年(860年):慈覚大師円仁が参籠中、朝日の中に大黒天神を感得し木造大黒天立像を彫る。

治承三年(1179年):源頼朝公が源氏再興を祈願する。

建永三年(1208年):北条義時公の支援により現在地に七堂伽藍が整備される。

建武二年(1335年):仏師・上総法橋により木造二十八部衆立像が造立される。

大正十三年(1924年):関東大震災により七堂伽藍が倒壊する。

昭和五年(1930年):現在の本堂が竣工落成する。

参拝を終え、再び境内の坂を下る。風に舞う桜の花びらが、足元の土を白く染めていた。かつて震災で全てを失いながらも、今日まで伝えられてきた仏たちの姿。覆面の下の顔も、力強い大黒天の眼差しも、この地で生きる人々の祈りを静かに受け止めてきたのだろう。春の光の中、真野寺の彩りはどこまでも穏やかだった。

真野寺本堂|重厚な屋根と静寂に包まれた外観
真野寺本堂|静寂に包まれた堂内

真野寺の拝観料金、時間、宗派、電話など

正式名称

高倉山實相院真野寺(たかくらやまじっそういんまのじ)

宗派

新義真言宗(真言宗智山派)

住所・アクセス

〒299-2524 千葉県南房総市久保587

富津館山自動車道 富浦ICより約20分。館山駅よりバス25分「九重大井」下車、徒歩20分。

電話

0470-46-2590

拝観時間・拝観方法

9:00~16:00。覆面千手観音および二十八部衆は毎年11月23日に特別ご開帳。

拝観料金

志納