横浜市営地下鉄センター北駅から少し離れた、住宅地の奥。都筑区の大棚町という地に、清林寺はある。第三京浜と港北インターチェンジの間を通り抜け、川沿いを進むと、やがて鵜之目山という小高い丘が見えてくる。寺は、その山裾に静かに佇んでいた。

駐車場は本堂の麓にあり、そこから続く石段を登る。一段ずつ足を運ぶたび、木々の影が濃くなっていく。頂上に近づくにつれて、本堂の屋根が少しずつ姿を現した。

本堂前に立つと、御開帳の柱が目に入った。そこから五色の紐が伸びている。その紐を頼りに、靴を脱ぎ、堂内へ上がった。薄暗い内陣の奥に、観世音菩薩立像が安置されていた。

本堂正面外観
本堂正面外観

清林寺・観世音菩薩立像:定朝様の穏やかな立ち姿

須弥壇の中央、宮殿形の厨子が開かれている。その中に、菩薩像が立っていた。像高は約98cm。檜の寄木造り。表面には漆箔が施され、古色が残っている。

正面に立つ。顔を上げると、まず穏やかな表情が目に入る。眉は柔らかく、鼻筋はまっすぐ通っている。目はわずかに伏せられ、口元には微かな笑みが浮かんでいる。頬には張りがあり、顎は丸く引かれている。平明な面相だ。だが、その穏やかさの中に、まっすぐと通る芯のようなものが感じられた。

体躯はゆったりとしている。肩の張りは控えめで、胸の厚みも過度ではない。左手を曲げ、腰をわずかに左へ捻る。その姿勢が、この像に動きを与えている。右足を軸に立ち、左足が少し前に出ている。静止しているのに、歩き出す直前のような気配がある。

衣の表現を見る。肩から腕へかけて布が流れ、胸元で緩やかに折り返されている。腰のあたりで大きく折れ、裾は足元へと垂れている。衣文の彫りは深くない。だが、その線は明確で、布の重さが伝わってくる。

数年前に修理が施されたという。木の素地がよく見える。漆箔の剥落した部分もあるが、それがかえって木彫の技を際立たせている。鑿の跡は残っていない。だが、木の質感が、この像に温もりを与えている。

聖観音菩薩像

木造菩薩立像|平明な表情と穏やかな面相

ライトが当てられている。光が像の表面を柔らかく照らしている。その光の中でずっと見ていると、菩薩像はどこか可愛らしく見えてくる。穏やかで、優しくて、そしてどこか親しみやすい。

この像は、もともと単独ではなかったという。左手を曲げ、腰を捻る姿から、三尊像の脇侍として造られた可能性が高い。中尊は、等身大の如来坐像だったと推測される。だが、その如来像は、今は存在しない。今は、聖観音として、独りでここに立っている。

堂内には、他にも仏像が安置されている。阿弥陀三尊像が二組。地蔵菩薩像。法然上人像。釈迦如来立像。それらが、内陣を囲むように並んでいる。阿弥陀信仰が、ここではかつて盛んだったのだろう。

他の参拝客が、般若心経を唱えている。その声が堂内に響き、心地よいBGMだ。五色の紐を握り、しばらくその場に立った。声が止み、静けさが戻る。その静けさの中でも、菩薩像がすっと立っていた。

仏像リンク編集部MEMO 📝

仏像リンク編集部
仏像リンク編集部
平安時代後期の定朝様の流れを汲む貴重な菩薩像です。保存状態も良好で、ぜひ間近でご覧いただきたい一体です!
聖観音菩薩像

木造菩薩立像

この観世音菩薩立像は、平安時代後期、12世紀に造られました。像高は98cmで、檜材を用いた寄木造りです。表面には漆箔が施され、古色が残っています。

この像の最大の特徴は、定朝様の流れを汲む様式です。定朝はご存知のとおり、平安時代中期から後期にかけて活躍した仏師で、日本の仏像彫刻の歴史において、極めて重要な人物です。穏やかで優美な表現、均整の取れた体躯、静かな立ち姿——これらは、定朝様の特色そのもの。

また、この像は本来、三尊像の脇侍として造られたと考えられています。左手を曲げ、腰を捻る姿勢は、中尊に向かって随侍する姿を示しているからです。中尊は等身大の如来坐像だったと推測されますが、現在その像は失われています。そのため、現在は独尊として安置されているのです。

この像は、横浜市指定有形文化財に指定されています。平安時代後期の横浜地域に、等身大規模の三尊像を安置する寺院があったことを示す貴重な資料でもあります。

なお、伝承によれば、この像は恵心僧都源信の作とされています。源信は『往生要集』を著した高僧であり、その名が伝わっていること自体、この像への信仰の深さを物語っています。

御本尊は秘仏で、十二年に一度、午年の四月に開帳されます。

子安観音像
子安観音像
仏像カルテ<観世音菩薩立像>

名称: 木造菩薩立像(お寺では聖観世音菩薩)(横浜市指定有形文化財)

時代: 平安時代後期(12世紀)

像高: 98.0cm

材質: 檜材・寄木造り・漆箔・古色塗り

特徴: 定朝様の流れを汲む様式。平明な表情、ゆったりとした肉どりの体躯、静謐な立ち姿。左手を曲げ、腰をわずかに左に捻る形姿から、三尊像の脇侍として製作された可能性が高い。保存状態は良好とは言いがたいが、できばえは優れている。恵心僧都源信の作と伝わる。十二年ごとの午年の四月に開帳される秘仏。

お寺の歴史と伝承

仏像リンク編集部
仏像リンク編集部
清林寺の歴史は元禄時代に始まります。開基の清閑上人と、その師である回頭上人の物語が伝わっています。

清林寺の正式名称は、鵜之目山観音院清林寺です。浄土宗の寺院で、東京都世田谷区にある九品山唯在念仏院浄真寺の末寺にあたります。

この寺は、元禄5年(1692年)、僧の清閑によって創建されました。清閑上人は、生き仏として名声の高かった師匠の回頭上人(またはある上人)の徳を慕い、その師を開山上人として寺を開いたと伝えられています。清閑上人は、元禄7年(1694年)9月9日に寂しました。

江戸時代末期に編纂された『新編武蔵風土記稿』には、清林寺について「村の東鵜目にあり。六間四方の間口の巽(南東)向きの本堂と鐘楼があり、明和五年在銘の梵鐘がある」と記されています。明和5年は1768年です。その鐘楼と梵鐘は、戦時中に供出され、現在は残っていません。

境内の石碑と梵鐘
境内の石碑と梵鐘

 

境内には、日露戦争で第三軍を率いた乃木希典が書いた日露戦役記念碑が建てられています。乃木希典といえば、明治時代を代表する軍人であり、その名が刻まれた碑がここにあることは、清林寺がこの地域において重要な役割を果たしていたことを示しています。

また、清林寺の裏山には、圧巻の竹林が広がっています。境内には、樹齢250年を超えるシラカシやイチョウなどの大木もあり、長い歴史を感じさせる自然環境が残されています。

主な歴史年表

元禄5年(1692年):僧の清閑により創建

元禄7年(1694年)9月9日:清閑上人が寂する

宝暦4年(1754年):開山は清閑上人との記録あり

明和5年(1768年):鐘楼に銘文あり、梵鐘が造られる

文政13年(1830年):『新編武蔵風土記稿』に清林寺が記録される

江戸末期:六間四方の本堂と鐘楼があったと記録

日露戦争後:乃木希典書の日露戦役記念碑が建立される

戦時中(昭和初期ごろ):梵鐘と仏具が供出され、現在は残らず

平成19年(2007年)11月1日:木造菩薩立像が横浜市指定有形文化財に指定される

堂を出る。石段を下りながら、振り返ると、本堂の屋根が木々の間に見えた。五色の紐は、まだ風に揺れている。その紐が、菩薩像とつながっている。

駐車場まで戻り、車に乗った。エンジンをかけ、ゆっくりと坂を下る。住宅地へ戻ると、さっきまでの静けさが嘘のように思えた。だが、菩薩像の顔は、まだ頭に残っている。あの穏やかな表情が、しばらく消えなかった。

清林寺の拝観料金、時間、宗派、電話など

正式名称

鵜之目山 観音院 清林寺(うのめやま かんのんいん せいりんじ)

宗派

浄土宗

住所・アクセス

〒224-0027 横浜市都筑区大棚町250

東急東横線「綱島」駅より東急バス③番線(「勝田折返所」行、「江田駅」行)、「中川中学校前」下車徒歩2分。または東急東横線綱島駅、東急田園都市線江田駅よりバスで「中川中学校前」下車、中学校正門前。

電話

045-592-6027

拝観時間・拝観方法

本堂内に入り、内陣中央まで進んで拝観可能。御本尊は秘仏で、十二年ごとの午年の四月に開帳。毎年八月十日および千夜会(十一月二十日)に法要あり。※開門・閉門時間、受付終了時間、予約の要否については事前にお問い合わせください。

拝観料金

志納